第3話:土壇場のジョーカー、再起動
紀伊プラムスの本拠地、和歌山県営球場。
春の湿った夜風を切り裂くように、数千人の観衆が放つ熱気がスタジアムを支配していた。
対戦相手は、独立リーグの絶対王者「帝都タイタンズ」。巨大資本に支えられたその陣容は、地方の弱小球団を蹂躙するために組織された軍隊のようでもあった。
「くそっ……。やっぱり、バケモノ揃いだぜ」
ベンチの隅で、二塁手の熊野俊が血の混じった唾を吐いた。
8回裏を終えてスコアは「2対3」。プラムスは一点の背中を追い続けていた。先発の竜神が肩を壊さんばかりの力投を見せ、有田川、串本の執念の継投で繋いだが、タイタンズの重戦車のような進撃を止めるには至らない。
そして運命の9回表。
マウンドに上がった守護神・梅干匠だったが、タイタンズの執念がそれを上回った。不運なボテボテの内野安打、そして際どいコースを外れるフォアボール。気づけばノーアウト満塁。一打出れば、プラムスの息の根が止まる絶体絶命の窮地。
静まり返るスタンド。その静寂を、老監督のしわがれた声が破った。
「ピッチャー、梅干に代わりまして――しみまる」
その名がコールされた瞬間、球場は蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。
「しみまる……? あの事故で死んだはずの、あのガキか!?」
「冗談だろ、この場面で素人同然の病上がりを出すのかよ!」
罵声と困惑の濁流をかき分けるように、しみまるはゆっくりとマウンドへ歩を進めた。
重い黒のマントを脱ぎ捨てたその姿は、一見すれば以前と変わらぬ18歳の青年だ。だが、ユニフォームの右袖の奥からは、観客の歓声を切り裂くような、微かな、しかし鋭い駆動音が漏れていた。
「……遅くなりました。梅干さん、あとは僕が」
しみまるの声は、北氷洋の海氷のように冷たく、澄んでいた。
梅干は無言でボールを渡すと、しみまるの左胸――まだ生身の鼓動を刻む場所を、拳で一度だけ強く叩き、マウンドを降りた。
捕手の白浜砂織が、血相を変えて駆け寄る。
「いい、しみまる君。絶対に無理はしないで。博士の警告を忘れたの? 心臓が――」
「大丈夫です、砂織さん」
しみまるは、不敵な、どこか寂しげな微笑を浮かべた。
「あなたのミット、壊さないように気をつけますから」
視線を上げた先。そこにはタイタンズの4番、怪物スラッガーの剛田が、山のような体躯で仁王立ちしていた。その眼光は、マウンドの小造りな青年を「エサ」としてしか見ていない。
プレイボール。
しみまるがセットポジションに入ると同時に、脳内のリミッターが解除された。
(システム、オンライン。超高回転駆動――接続)
キィィィィィィィン……!
耳を刺す高周波の駆動音が、しみまるの神経を加速させる。
第一球。
右腕が人間の構造を無視した180度のしなりを見せ、爆発的な速度で振り下ろされた。
放たれた145キロの直球。だが、それは剛田がこれまで見てきたどの剛速球とも異なっていた。
毎分5000回転を超える超回転。ボールは打者の手元で、重力を拒絶するように「跳ね上がった」。
「なっ……!?」
剛田の豪快なスイングが、虚空を裂いた。ボールはバットの遙か上を通過し、白浜のミットを激しく叩いた。
バシィィィィンッ!
乾いた爆音が球場に響き渡り、観衆は一瞬、呼吸を忘れた。
「ストライク!」
審判の絶叫。剛田は戦慄し、己のバットを二度見した。
(何だ今の球は……。浮いた? 物理的にあり得ん!)
第二球。
しみまるは、さらに出力を引き上げる。視界の端で、赤い警告が点滅を開始した。
【警告:心筋負荷率85%突破。冷却ユニット、限界】
胸の奥が焼けるように熱い。だが、彼は止まらない。
(次は……分身だ)
指先がナノ単位の超高速振動を開始する。
投じられた白球。剛田の視界の中で、ボールは突如として五つに増殖した。
「ふざけるなッ! 残像など叩き潰す!」
剛田は自らの野生の勘を信じ、真ん中の球影を強振した。
だが。
手応えは皆無。本物のボールは、最も外側の軌道から、冷酷にアウトコースの極小の隙間に収まっていた。
「ストライク、ツー!」
球場は、もはや絶叫すら忘れた静寂に支配されていた。
だが、マウンドのしみまるには、限界が迫っていた。右腕の関節部分から、青白い火花と微かな白煙が上がる。生身の心臓が、機械への過剰なエネルギー供給に悲鳴を上げ、視界がチカチカと暗転する。
(あと、一球……)
タイタンズのベンチが、総立ちでその姿を睨みつけている。
第三球。
しみまるは、自身のすべてを賭けた。
多段階関節をフル稼働。地面を這うような極限のアンダースロー。そこからリリース直前に、肘を支点に「からくり」が反転し、オーバーハンドへと切り替わる――人間には不可能な、全方位変則投法。
放たれたボールは、消えた。
剛田の視界から完全に消失した球体が、次の瞬間、目の前で巨大な「絶望の幻影」となって膨れ上がる。
「消えた……!? いや、そこかぁぁ!」
剛田が魂を乗せて振り抜いたバット。
しかし、当たったのは冷たい夜風だけだった。
ボールは剛田の股下を抜ける超低空から、物理法則をあざ笑うように急上昇し、白浜のミットの中央を撃ち抜いた。
「ストライク! バッターアウト!」
ノーアウト満塁からの、三者連続三振。
最後の一球が決まった瞬間、静寂は地鳴りのような歓声へと爆発した。
マウンドに膝をつきそうになるしみまるを、遊撃手の梅林と一塁手の高野が、咄嗟に両脇から支え上げた。
「やったな、しみまる! 最高のジョーカーだぜ!」
仲間の手の温もりが、熱を持った鋼の腕に伝わる。
しみまるは、右腕から立ち上る焦げた匂いを隠すように、力なく笑った。
「……言ったでしょ。土壇場は、僕が守るって」
紀伊プラムス。独立リーグの最下位球団が、絶対王者の首筋に刃を突き立てた。
それは、鋼の腕を持つ少年と、一癖も二癖もある仲間たちが巻き起こす、美しくも過酷な大逆転劇の序章に過ぎなかった。




