第2話:鋼の右腕、セットアップ
紀伊半島の断崖に隠された、地下秘密研究所。
防音室には、絶え間なく打ち寄せる黒潮の重低音が微かに響いていた。しみまるは上半身を脱ぎ、凍えるような金属の診断シートに横をたわわにしていた。
傍らでホログラムパネルを操る黒金博士の瞳が、冷徹な光を放つ。投影されているのは、しみまるの右腕の透過図だ。
「……これが、僕の体……?」
しみまるは、自分の肩から指先までを繋ぐ、複雑怪奇な歯車と人工筋肉のネットワークを凝視した。それはもはや、見慣れた18歳の青年の腕ではなかった。
「そうだ。だが、ただの機械と思うな。これは君の脳波と神経に直接リンクした『からくり』の究極形だ」
黒金は、開幕戦を目前に控えたこの体に組み込まれた「三つの禁忌」を語り始めた。
「第一に『超高回転駆動』。肘と手首のマイクロモーターが、リリース直前に5000回転以上の超回転をボールに与える。君の直球はホップなどという生ぬるいものではない。空気を切り裂き、物理的に『浮き上がる』魔球だ」
黒金がパネルを叩くと、シミュレーション映像が流れる。
「第二に『多段階関節』。リミッターを解除すれば、肩の可動域は180度を超える。人間には不可能な角度から放たれる『幻惑フォーム』だ。そして最後が――」
博士の指が、右腕の深層部を指した。
「『微細振動』。リリース直前、右腕をナノ単位で高速振動させることで、光の屈折を歪ませる。視覚的にボールを五つに増殖させる、君の代名詞『分身投法』の完全再現だ」
しみまるは、重く冷たい鋼の拳をじっと見つめた。
「……こんなの、もう野球じゃない。ただの兵器だ」
「兵器にするか、エースにするかは君次第だ。だが忘れるな」
黒金の声が一段と低くなる。
「君の心臓はまだ生身だ。過酷な出力に、その鼓動がいつまで耐えられるかは……私にもわからん」
その時、重厚な気密扉が開き、油の匂いとともに一人の少女が飛び込んできた。
「ちょっと博士! 脅しすぎよ。しみまる君が青ざめてるじゃない」
紀伊プラムスのオーナー令嬢であり、専属メカニックの明日香だ。彼女は工具箱を無造作に置くと、しみまるの鋼の腕を迷いなく掴んだ。
「あんたの腕、私が毎日ピカピカに磨いてあげる。……いい? あんたがマウンドで輝けば、それはもう立派な『野球』なのよ」
明日香の指先から伝わる、メンテナンス用のグリスの温もり。しみまるは少しだけ救われた気がして、ぎこちなく指を動かした。カチ、カチ、と精密な金属音が、彼の新たな鼓動のように響いた。
翌日。しみまるは数ヶ月ぶりに、紀伊プラムスの練習場へと足を踏み入れた。
潮風にさらされたグラウンドでは、かつての仲間たちが泥にまみれて白球を追っていた。
「よお、しみまる! 地獄から這い上がってきたか、この野郎!」
一番に駆け寄ってきたのは、二塁手の熊野俊だ。チーム一の快足男が親友の肩を叩こうとし、「痛っ!」と悲鳴を上げた。
「……熊野さん、すみません。体が、その……固まってて」
「なんだよ、お前。鉄板でも背負ってんのか?」
笑い飛ばす熊野の背後から、巨木のような影が落ちる。エース・竜神豪。190センチの巨体から放たれる威圧感は健在だ。
「……戻ってきたか。だが、19番は空けてある。半端な覚悟なら、今すぐその腕を外して帰れ」
「……わかっています。竜神さんの作る流れ、僕が守り抜きます」
しみまるの瞳に宿る静かな炎を見て、竜神は短く鼻を鳴らした。
周囲には、続々と仲間が集まってくる。
不敵な笑みを浮かべる左腕の有田川、シャドーピッチングを止めない中継ぎの串本。バントの構えで「繋いでやる」と呟く遊撃手の梅林に、ミットを叩いて吼える一塁手の高野。三塁の守備位置から無言で視線を送るベテランの那智。
そしてケージの中では、主砲の南紀と紀ノ川雫が凄まじい快音を響かせ、外野では紀伊弥生と御坊花子が風のように走っていた。
「しみまる君! 四の五の言わずに、投げなさい!」
ホームベースでプロテクターを鳴らしたのは、正捕手の白浜砂織だ。チームの母であり、最強の盾。彼女の構えるミットだけが、今のしみまるの居場所だった。
マウンドに立つ。
脳波がユニットとリンクし、右腕の中で「何か」が目覚める。
キィィィィィィィン……!
鼓膜を刺すような高周波の駆動音が、静まり返ったグラウンドに響く。
「……行きます!」
腕を振り抜いた瞬間、異変が起きた。
白浜の目前で、ボールが「増殖」したのだ。
一つ、三つ、五つ。
光の屈折が作り出す五つの白球が、意志を持つかのように殺到する。
バシィィィィィィンッ!
激しい衝撃音とともに、白浜のミットから白煙が上がった。
「……っ!?」
捕球した彼女の左手が、激しく震えている。ストライクゾーンを正確に射抜いたそれは、もはや「投球」の域を超えていた。
静寂。誰もが息を呑む中、最後にマウンドの脇に現れたのは、守護神・梅干匠だった。
「いい球だ。だが、しみまる」
梅干の鋭い眼光が、しみまるの胸元を射抜く。
「その鋼の腕を振り回して、お前の『心臓』は最後まで持つのか?」
しみまるはハッとして、己の胸に手を当てた。
右腕の駆動音の裏で、生身の心臓が、今まで経験したことのないほど激しく、苦しく、警鐘を鳴らしていた。
「……持たせます。みんなを……この家族を守るためなら」
しみまるは力強く、鋼の拳を握りしめた。
開幕まで、あと7日。
サイボーグ投手・しみまるの、命を削る快進撃がいま、始まろうとしていた。




