尻尾
「……あっ」
改めて踵を返し、自室へ戻ろうとした折、渡り廊下の角の先から随分と聞き慣れない高い声が聞こえた。
ぶつかりそうになってしまった気配に顔を上げると、珍しく伊東の驚いたような顔があり、その後ろに女が一人立っているのが窺い見える。
「これは……伊東先生。失礼しました」
ゆるくあごを引いて目礼し、一歩下がって道を譲る。
「いえ、こちらこそ。斎藤くん、今日はお早い上がりだったのですね。君は稽古の日、いつも最後の最後まで熱心に励んでいらっしゃる印象がありましたから、少々驚いてしまいました」
ふふ、と袖で口元を覆いながら、伊東はやわらかく微笑んだ。
――熱心に。
その言葉を肯定も否定もしないが、良いように言いながらその実、まるで稽古を早上がりしては不都合があるかのようにも聞こえ、斎藤は曖昧に薄く口の端を上げた。
「そのように思っていただけていたとは光栄です。……が、それではこの後少々、息抜きに外へと思っている私では、呆れられてしまうでしょうか」
伊東の評価を気にしているかのようなおためごかしを口にしながら、斎藤は改めて今気づいたかのように伊東の後ろに立つ女へ目を向けた。
「……そちらは」
これといって目立つ特徴もない女ではあるが、どことなく見覚えがある気がして首をかしげる。
と、女が「あ、えっと……」と気まずそうな声を出したことで、ようやく思い出した。
正月過ぎ、狼藉漢に追われているところを救った、料亭の給仕と言っていた女だ。
――ああ、よもやといわず、そういうことか。
思い至り、しかし表情は動かさぬよう意識しながら、片手でそっと口元を覆う。
この女、当時助けてと言った割にこちらの戦いの邪魔をしたり、佐幕勤王の思想について訊ねてきたり、どこか妙だと感じていた部分はあった。が、それがこのように伊東の私室がある方角から共に現れた、となれば。
……あの当時から、腕を試され、心中を探られていたということではないだろうか。
仮にそうだとすれば、実にうすら寒いことだ。おっとりとして艶麗なその容姿とは結びつかないほどに、恐ろしく周到で知恵の回る様に、今になって改めて気づかされた形だ。何だかんだと違和を感じつつも、決定的なものは得られなかったものだが、もし暴漢をけしかけてまで斎藤を――……あるいは知らぬ場で他の者達をも、同じように試していたとするならば。
「……思い出した。あなたはいつぞやの」
斎藤は、ようやく気が付いたというていで、わずかに目元を和ませた。
「お元気そうで何よりです。その後、困ったことなどは起きていませんか」
「……あ、その……その節は、ありがとうございました。じ、実は最近までは何ともなかったのですが、先日また、少々……」
女は恐縮しきったように、小さく身を震わせながら言った。
「それを、先日は……こちらの伊東様に、お助けいただきまして」
さながら暴漢に再び襲われたことに怯えるような物言いだったが、今の斎藤には、しどろもどろなぎこちない言い訳を誤魔化すための演技にしか見えなかった。
「そうでしたか」
答えながら、目の端でほんのわずか、伊東の顔がしかめられたような気がした。
「……少し、震えていらっしゃいますか? すみません、嫌なことを思い出させてしまったようですね」
斎藤は女の様子をそう捉えたふりで答え、気まずさを感じたかのように女から目を逸らす。
自然と伊東に視線が向いた、という形を取り繕って見やれば、伊東も素知らぬ顔で、かすかにしかめられていた顔を心配そうなそれへと移し替え、吐息を漏らした。




