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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇ 二章七話 懐かしの川 * 慶応元年 四月
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かわたれ

 斎藤の問いかけに、土方は酷く怪訝な顔をして眉をひそめた。意味がわからないものに返事はできないと言わんばかりに口をつぐみ、しかし、首を捻って視線を横へ流す。


 ――今、斎藤の推測通りに、あるいはそれ以上に頭を回転させているのだろう。


 気付いてもいい。


 正直、気付かなくてもいい。


 斎藤は、己から視線を逸らしたままの土方を見るのを止め、目を伏せた。


 斎藤にできる身動き(ヽヽヽ)は、これが限界だった。


 (かづら)を裏切りたくはない。が、明言しなくともこれが裏切りであることは斎藤自身が一番よく知っている。それでも。


 これ以上は斎藤が何も言わず、仮に土方が何も気づかなかったとしても、今日のことさえ土方が覚えていてくれれば、後は言い訳が立つ。今はそれでいい。後の言い訳さえできれば、斎藤にとってはそれだけでいいのだ。


 ……しかし、そんなことを思って、いっそ土方が気付かずにいてくれれば、まだ裏切りが表面化せずに済むのに、などと小賢しいことすら考えたところで。


 正直これまでだって、手掛かりなどいくらでもあったことも事実だった。


 そも、土方とて疑っていたことなのだ。いつだって頭の隅にあった仮説だ。彼女(ヽヽ)の存在を、ひたすら、ひたすらに、忌避するほどには。


 繋がらなかっただけなのだ。斎藤がそうであったように、ある一点だけがどうしても。


 だからこそ、そこが繋がってさえしまえば。斎藤が、繋げてしまえば。


「……なァ、斎藤」


 そうすることが、やはりどうあったって、彼女を裏切ったことに変わりはなく。


「ちょっと頭が痛ぇんだが……お前、つまり……――そりゃ、つまり」

「……『生きるということは、前を向くという、ことだと――』……」


 言いかけて、無意識に言葉が詰まった。


 斎藤は意図せず戦慄(わなな)く唇を引き結び、頬の内側に歯を立てた。


 ああ。


 もし、声が出ていたら確実にそんな呻きだか嘆息だかしか出なかっただろう。


 腹の底が気持ち悪い。


 これがどういう感情なのかを、斎藤は知らない。


 ただ、彼女にとってのこの言葉は、()の言葉だったのだろうと思う。


 幼い頃、斎藤も言ったかもしれない。そのような覚えは、かすかにある。


 だが少なくとも、この言葉に似た意のことを、斎藤は土方から言われたことがあって――


「斎藤、お前……」


 少なくとも、土方にも、きっと覚えがある言葉なのだろうと思う。


「……葛様は生きること(ヽヽヽヽヽ)を選ばれた。私にはできないことでした。でも、土方さん、あなたは」


 斎藤にはそのまま、顔を上げて再び土方の顔を見ることは、できなかった。


「あなたには、できた……」


 いっそ、うずくまってしまえるなら、きっとそのほうが良かったかもしれない。頭を抱えて喚き散らしてしまえるなら、発露できたなら、そのほうが()らしかったかもしれない。


 しかし斎藤は結局、()を選んだ。


 そう、選んだ。選んで、裏切った。


 今の主は容保(かたもり)であるから、とか。


 これからも斎藤が生きる(ヽヽヽ)には、こうするしかなかったから、とか。


 言い訳はいくらでも立つが、すべて言い訳でしかないことは、曲げようのない事実だ。斎藤と彼女だけが知る、無残な事実だ。


 無残、なのだ。


 少なくとも斎藤にとっては、そうあらねばならないのだ。


 ――それでも、願わくは。


「土方さん」


 呼んでも、返ってくるのは無言だった。顔も見られない今、土方の感情は知れない。でも、だからこそ、やはり願わくは。


「……あなたなら、何度だってあの人を生かせる。今また、()があっても」


 預けると言えば聞こえはいいが、斎藤は実質押し付けるように告げて、うなだれるように頭を下げた。


 続く無言に踵を返し、土方を残して雑木林に足を踏み入れる。


 ……この雑木林のどこかに、恐らく葛の住まっていた屋敷もあるのだろう。あの頃の葛に遠出ができたとは思えない。きっと、あの会津の隠れ屋敷のような、密やかで寂しく、孤独な住まいがあったのだろう。


 今更そんなことに気づいたが、斎藤はそれ以上、過去を探ることは止めた。


 しばらくして雑木林を抜けると、少々方向感覚が狂っていたようで、馬を結んだ場所からはわずかに外れた場所に出てしまった。


 左右に伸びる道沿いに目を這わせ、馬が片手ほどの大きさに見える場所にその姿を見つける。ふと、そのまま空を見上げる。


 いつの間にか日が大きく傾いて、西空が赤らみ始めていた。


 やるせないような色だった。

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