中島登
日が傾く頃には、本日の入隊面接も試験も完全に消化して上がりとなった。
藤堂は伊東と共に飲みに行くことにしたらしく、下番を告げられて早々に出かけて行った。斎藤も一緒にどうかと誘われたのだが、まだ何もかも判然としない状態で一気に距離を詰めすぎる危険に思え、今回はひとまず辞退した。
斎藤は会所内であてがわれている自室に戻り、改めて汗を拭いた後、着替えを済ませて再び部屋を出る。
その足でさらに会所の奥へ――土方の部屋へ向かう。と、てっきり明日の準備だなんだで一人だろうと思っていた目的地へ近付くにつれ、思いがけず話し声のようなものが聞こえてきた。
他の隊士が訪ねてきているのかと、静かに足を止める。
ところが次の瞬間、気配を特に消していたわけではないが音を立てていたわけでもないというのに、まだ少し距離のある土方の部屋から、のんびりした声が漏れ聞こえてきた。
「あれ。トシさん、お客さんっぽいよ?」
随分と気配に敏感な相手であることに驚き、とっさに行動をとりあぐねていると、その間に部屋の障子が開いて、ひょこっと人影が顔を覗かせてくる。相手は、青みがかった艶やかな黒髪をゆるく結い、垂れ気味の双眸の片方に泣きぼくろのある、少し物憂げながらもやわらかい雰囲気のある男だった。
「おやぁ。山口さんじゃないか」
男は斎藤の顔を見た瞬間、ほわっと花の蕾がほころぶような親しげな笑みを浮かべた。
が、斎藤を以前の姓で呼んだその男に、斎藤自身は覚えがなく、戸惑ってしまう。
「……あれ。もしかして俺、覚えられてませんか」
男は苦笑しつつ、少しばかり残念そうに眉尻を下げて言った。
「まぁ仕方ないかぁ。一度二度、出稽古先で形を見てもらった程度だしねぇ」
その気安さと言葉に、思い出せはせずとも、なるほど天然理心流の関係者だったのかと合点がいく。当時、斎藤は正式な門下ではなかったが、沖田と共に土方の義兄の家にある天然理心流の道場へ出稽古に行くことはあった。そこに出入りしていた門下生ならば斎藤を知っていてもおかしくはないし、そもそもが土方の義兄宅で開かれていた道場だ。土方と親しい者も多くいたであろうし、その内の一人が土方に会いに来た、というところは間違いないだろう。
「何だ中島。お前、手合わせや仕合は見てもらわなかったのか。見せてりゃ忘れもできねぇだろうによ」
顔は見えないが、部屋の奥から土方の笑い交じりの声が聞こえてくる。
「斎藤、とりあえず入ってこいよ」
呼ばれると同時、中島と呼ばれた男も遠慮のない様子で気安く斎藤を手招きした。
まだ戸惑いを隠せず、歩みを再開して部屋にたどり着くと、斎藤は敷居を跨がずその場にひとまず腰を下ろした。
「その……申し訳ありません。貴殿のことは、記憶になく……」
「あぁ、お気になさらず。改めて、中島登っていいます。勇さんの遠―ぉい縁戚で、天然理心流門下でした。今はトシさんに扱き使われてる身なんで、改めてよろしくお願いします」
中島はほわほわと、掴みどころのない穏やかさで明るく言い、小首をかしげた。
「俺は山口さんのこと覚えてるし、今後はちょくちょく顔を合わせることもあるかもなんで、これから覚えてもらえればそれで」
「中島。こいつは今、山口じゃなくて斎藤だぞ」
中島の言ったことを一切否定せず、土方がさっくり口を挟む。
「へぇ、斎藤さんかぁ。何か山口さんよりしっくりきますねぇ」
あらゆる点で受け取り方に困り、斎藤は軽く会釈だけして「斎藤一です」とこちらもひと言、名乗りを上げた。
「その……お邪魔をして申し訳ありません。また時を改めて参りますので」
「いやいや。話は終わりましたから、俺が出て行きますよ」
中島は気分を害した様子もなく、のほほんとまなじりを下げて土方を振り返った。
「じゃぁね、トシさん」
「お前、上洛して来る時にゃ、近藤さんのことも含めてその呼び方ァ慎めよ」
「はいよ」
中島は軽い返事をして腰を上げると、すれ違い様、斎藤にも「じゃぁね、斎藤さん」と軽く手を振って去っていく。
その後ろ姿を見送っていると、言葉や雰囲気のゆるさとは裏腹に、中島の動作にまったく軸のぶれがないことに気づいて、斎藤は目を瞬かせた。一見すると隙だらけなのに、実際に不意を衝こうと思えばなかなかに難しいであろう……洗練されたものが垣間見える。
「……今んところ、まだ正式な隊士じゃねぇんだがな。中島には、昨年辺りから江戸の情勢を逐一報告してもらってる」
中島を眺めやる斎藤を見てか、土方が静かに言う。
なるほど、中島が「今はトシさんに扱き使われてる」「今後はちょくちょく顔を合わせることもあるかも」と言った意味をようやく正しく理解して、斎藤は顎を引いた。
「さすが、根回しのいいことですね」
都にいながら、しかと東の情報収集手段を得ていたことにも感心し、改めて土方に向き直る。
土方はいたずら小僧のようにニヤリと口の端を上げ、微笑んだ。