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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇ 二章五話 哀泣の声 * 元治二年 二月
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本音と慟哭

 前川邸を出て、本当に、すぐのところ。


 光縁寺。


 山南の埋葬された、小ぢんまりとした寺だ。


 壬生寺のように広い境内があるわけでもない、住職の住まいと寺務所がひとつになった平屋建てと小さな前庭、そして奥に墓が並ぶばかりの、実に閑静な場所。山南は生前、寺の紋と山南の家紋が同じということで、ここの住職と懇意にしていた。山南の遺体がここに埋葬されたのも、そんな縁があったからだ。


 石砂利を踏みしめて奥に進むと、寺務所の濡れ縁の奥から、住職が顔を覗かせた。


 斎藤は一礼するに留めたが、住職はほんのわずかに顔をしかめて、すぐさま奥に引っ込んだ。風体を見ればこの辺りの町人でないことは明らかであるし、何より昨日の埋葬に立ち会っていた姿を、覚えられていたのかもしれない。細かな理由を外に漏らしたわけではないが、懇意にしていた山南を『殺した』と見える新選組の者と知れば、いい顔をしないのは当然のことだった。


 しかし、だからこそ斎藤は気兼ねなく奥へ入り、奥の片隅にある山南の墓へ――……藤堂のいるその場所へ、足を進めた。


 真新しい墓石の前には、たった今、藤堂が上げたのであろう線香が細い煙を立てていた。


 山南と共に藤堂もここの住職と深い面識があったはずであるから、住職も、先ほどの斎藤に対するものとは違い、事情を察して藤堂には線香を渡してやったのだろう。


 藤堂は墓の前に正座をして、しかしわずかに背を丸め、ただぼうっと線香の煙を見つめていた。


 斎藤は隣に膝をついて、形式的に墓に手を合わせた。雪こそ溶けても二月末の土は冷たく、膝から寒気が全身に駆け上ってくる。肌は軽く粟立ったが、それでもこの場で身震いするような気にはなれず……。斎藤は言葉なく、とはいえ念仏を唱えるほどの信仰心もなく、ただ藤堂が戻ってきたことを改めて告げるような気持ちで、数拍ばかり目を伏せた。


 寒気をふんだんに含んだ風が、石壁に囲われた小さな墓地に細く渦巻く。その、隙間風が抜けたようなか細い音にまぶたを開け、斎藤は改めて隣を見やった。


 藤堂は、先よりも顔をうつむき気味に下げていた。癖のある髪が頬にかかり、表情がまったく見えなくなっている。


 斎藤は声をかけようとして口を開いたが、何と言葉をかければいいのかさっぱりわからず、すぐに再び口を閉じてしまった。


 ――己が(かづら)の死を聞かされた時は、どういう言葉が欲しかっただろう。


 考えたところで、似ていたって藤堂と斎藤の立場は違うし、葛の墓すら教えられなかった斎藤とは違って、藤堂は今その人の墓の前に座っている。強いて言うなれば、斎藤は葛について「実は生きていた」と誰かに言って欲しかったし、今の藤堂もそれは間違いないだろう。が……それだけは、斎藤に言えるわけもないことだった。山南その人の首が胴から落ちる様を、この目で、確かに見ていたのだから。


 しばらく、思案して。


 斎藤は結局、無言のまま懐から一通の文を取り出し、藤堂の顔先に差し出すしかなかった。いや、差し出した、というよりは、少々突きつけるような形になったかもしれない。藤堂がどこを見ているのかわからないし……気遣う思いも間違いなくあるのだが。ただ、それはそれとして、先ほど愁介を殴った不満だけは、まだ消えきっていなかったせいもあるかもしれない。


 とにかく今の斎藤には、託されたその文を、無言で藤堂に渡すことしかできなかった。


 ところが、そうして差し出した文を、藤堂は何故か受け取らず、それどころかぴくりとも微動だにしないままだった。


 近すぎて宛名が見えなかったかと少々反省し、斎藤は腕を離して、藤堂の膝上の手元に文を近づけてみる。


 が、そうしてしばらく待っても、藤堂は変わらず微動だにしないまま、文を受け取ろうとする素振りを見せなかった。


 よもや、こんな折に寝ているわけでもあるまいに。


 さすがに訝って、斎藤は眉根を寄せ、わずかに上体をかがめて藤堂の顔を覗き込んだ。


 ――すぐさま、後悔した。


 当然だが、藤堂は寝ているわけでも、文が見えていないわけでも、それに気付いていないわけでもなかった。文を……山南の筆跡を、『平助へ』というそのやわらかな文字を凝視して、固まっていただけだった。


 窺い見えたのは、何もまだ受け止め切れていない、本当にただそれだけの、痛ましい表情だった。


「……山南さんから。預かったんだ」


 今更になって、そんな当たり前のことだけが、斎藤の口から低く出ていった。


 毎度の抑揚のない、ぶっきらぼうな、本来なら言わなくとも、見ればわかるだけの言葉。しかし、今の藤堂の頭と心には、どうにか届ける必要のある言葉だった。


 すると案の定、ようやく斎藤の言葉を呑み込んだ藤堂が、のろのろと膝の上で握っていた手を上げた。


 斎藤の差し出していた文を緩慢に受け取り、まるで手が、すっかりかじかんでしまったかのような、酷くたどたどしい動きで開いていく。


 そうして、藤堂はやっとのことで黙々と文を読み始め――……たかと思えば、不意に突然、くしゃりとその紙を握り締め、おもむろに文面にと顔をうずめてしまった。


 かろうじて覗き見える藤堂の唇は、破れてしまいそうなほどに強く噛み締められていた。その肩が次第にぶるぶると小刻みに震え出し、やわらかく癖のある髪先が手元の文に触れて、葉擦れにも似た枯れた音をかさかさと鳴らす。


 斎藤はわずかな逡巡の後、改めてその場に腰を下ろし、ただ藤堂の隣であぐらをかいて身を落ち着けた。


 ――何もできないことを知っていた。わかっていた。痛いほど、理解していた。


 支えとなる存在に置いて行かれた時の苦痛。空虚。


 ただ、せめて……本音を言えば、藤堂にだけは、それを味わって欲しくないとも、やはり斎藤は心のどこかで強く望んでいたのだと、改めて実感した。


 かつて、まだ、愁介が(かづら)であったと斎藤が気付く前。絶望を抱えたままでいた斎藤に、藤堂は言った。


 ――「俺も、例えば山南さんがいなくなったりしたら……お前と、同じになっちゃうと思うし」


 願わくは、そうさせたくはなかった。あの時、あの時点で唯一、正しく斎藤を理解してくれた藤堂にだけは、できることなら。そう思わずにいられないほどには、感謝していたのだ。『正しい共感』がその実、とてつもなく無意味で、しかし他にはない一種の慰めにもなり得ると、教えてくれたのが、藤堂のその言葉だったから。家族には認められない。周りには利用される。誰にも本心など打ち明けられようもない。そんな斎藤にとって、まさにその当時の藤堂は、重くもないが軽くもない、葛ともまったく別の、他とは違う唯一だったと思えるから。


 斎藤は、そっと小さな息を吐いた。


 他人の慰め方など知らない。藤堂のように自然と人に寄り添うことなどできない。こうなったってまだ、藤堂にかける言葉はろくに見つからない。それでも。


「誰が、悪くなくとも……藤堂さん。あんただけは文句を言っていい、と思う」


 ぼそぼそと、斎藤はそれだけは言った。


 次の瞬間、藤堂は大きく背を震わせ、がばりと文から顔を上げた。と同時に、それまでと打って変わって唐突に大声で泣き出した。


 響く声に思わず驚いて、斎藤は隣を弾かれたように見やった。


 しかし藤堂は、そんな斎藤の挙動を気にする様子は一切なく、まるで幼子そのもののような喚くような声で、そのままわんわん泣き続けた。悲痛で、切実で、下手な刃物よりずっとずっと深く刺さるような、本当に酷い泣き声だった。


 さすがに何事かと聞きつけたらしく、寺務所のほうから住職が顔を覗かせる。


 斎藤は戸惑い、何かしら言い訳をしようと、立ち上がって住職の元へ向かおうとした。


 ところが腰を浮かせかけた途端、鳴き喚きっぱなしの藤堂が、文を持つのとは反対の手で斎藤の袖を鷲掴みにして強く引っ張った。離れるなといわんばかりの、むしろそれしかない無言の――……いや、まったく無言ではないのだが、ともかくそんな訴えに、斎藤はさすがに一瞬ばかり天を仰いで、仕方なく再びその場に腰を下ろした。


 住職に軽く会釈をすると、ここへ来た時とは一転し、住職は察した様子で斎藤に丁寧な会釈を返して、幸い何も言わず引っ込んでいった。その後、かすかに門の閉まる音がしたので、何なら気を利かせて他に人が入ってこないようにしてくれたのかもしれない。


 斎藤は静かに息を吐き、軽く藤堂のほうへ向き直った。


 ……さすがに泣いている大人をあやす方法など、知るはずもないのだが。もし、これが子供相手であったなら――葛相手で、あったなら。


 斎藤はそっと藤堂の背を軽くさすり、開いた手で藤堂の頭を肩口に抱き込んでやった。


 すると藤堂は、握ってくしゃくしゃになっていた山南からの文を胸に抱き、もう片方の手で改めて斎藤の着物の脇を掴むと、さらに大きな声を上げて泣いた。全部絞り出すみたいに、訴えるみたいに、言葉にならないモノを吐き出すみたいに、ひたすら泣いた。


 耳元で叫ばれる言葉なき言葉は、やはり胸に鋭利に刺さる。


 ただ、どうしても斎藤にはそれを、うるさいとは思えなかった。

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