今だけの内輪話
「……っけほ、斎藤……藤堂さんを、怒っちゃ駄目だよ」
沖田と藤堂の力ない足音が聞こえなくなってすぐ、愁介がぽつりと言った。手拭いで鼻先と口元が覆われたままのその声は、くぐもって苦しそうにも聞こえたが、顔を上げて見れば愁介はいつもの凛とした目で斎藤を見据えていた。
「藤堂さんは、悪くない」
「……あなただって、悪くないんですよ」
相も変わらず抑揚の足りない声で返せば、すぐ傍にある猫のような目が丸くなった。直後、苦笑いのようにふっとたわめられ、その視線が膝元に落とされる。
愁介はようやく落ち着いた様子で、最後にもうひとつ空咳をすると、瞳をやわらげたままそっと肩を下ろした。
「さすがに……やはり、あなたに害を為されると、私も冷静ではいられませんが」
「はは。ほとんど条件反射みたいなもんでしょ、それ」
「まあ……。しかし、それでも……藤堂さんの気持ちのほうが、恐らく私は、よほど理解できてしまいますので」
とつとつと返せば、愁介はひとつ、二つと目を瞬かせ、改めて斎藤を見た。
「……だよね」
困ったような、申し訳なさそうな、そんな表情で苦笑いを深めて愁介は眉尻を下げる。
「行ってあげて……って、オレが言うの、変かな」
「おかしいかどうかはさて置き、沖田さんが戻るまでは、あなたを置いて行けませんよ」
「いや、咳も止まったし。鼻血は自分で押さえてられるから、ここに斎藤が残ってたところでって話じゃない?」
「……お役御免ですか」
思わず嘆息交じりに切り返すと、「とんでもない」と今度は明るい笑みが返ってきた。
「助かったよ。いつも助かってるよ。……だからこそ、藤堂さんが『一』みたいになっちゃう前に、今は行ってあげて欲しいかなって」
「……山南さんの代わりなど、どこにもいません。あなたの代わりが、どこにもいなかったのと同じように」
「でも、今があるのって、オレがまだ生きてたからって理由だけじゃ、なかったでしょ」
斎藤は言葉なく、溜息を返した。
――まったく、好き勝手言ってくれる。
そうは思うが、愁介の言も嘘ではないのだから、頭ごなしに否定はできない。
小さな小さな、自分達だけにしか聞こえない、ささやかな会話だった。だからこそ、不意にパタパタとこの部屋に近づいてくる――恐らく、沖田が戻って来たのであろう足音が聞こえたところで、斎藤と愁介は無意識に寄せていた上体を伸ばし、互いに距離を取った。
「行って」
「……そうします」
屯所内で交わすには、危うい会話だったかもしれない。それでも、誰も彼もが山南と藤堂のことに意識を向けている今にしか、交わせないような会話だったかもしれない。冷静に、それぞれの立場を見つめ直すような会話は、今後とてあまりする機会もないような気もするから。
斎藤は軽く愁介に一礼して、腰を上げた。
部屋の外に出ると、水桶を手にした沖田が廊下の先から「あ」と声を上げる。
「斎藤さん……」
「沖田さん。愁介殿の手当ては、任せる」
「えっ、でも……」
「藤堂さんに、渡すものがあるから」
言い置いて、斎藤は沖田に背を向け、藤堂が向かったであろう場所へ向けて足を踏み出す。後ろでまだ沖田が戸惑っているような気配を感じたが、「総司、任せとこ」と変わらずくぐもっている愁介の言葉が聞こえ、改めて背を押されたような気がした。