流れる血
「――局長か副長呼んだほうがいいんじゃないか」
「いや、火に油じゃ……」
「永倉先生は? 永倉先生なら何とか――」
「無理だって。今は巡察番で出てるよ」
玄関の奥、そして入ってすぐの中庭の先と、あちこちから戸惑いがちなささめきが耳に届く。
斎藤と愁介は眉をひそめ、互いの顔を見合わせた。
「……何ごとだ」
玄関を上がってすぐ、最も手近にいた隊士に低く問いかければ、相手はびくっと大きく肩を揺らして斎藤らを振り返った。
「あっ、斎藤先生……あの、あ……いや……」
何とも歯切れの悪い答えに、無意識に眉根を寄せてしまう。
と、隊士は一層びくついて軽く首をすくめ、「その」ともごもご言葉を濁し、助けでも求めるように傍らにいた数名の隊士のほうへ視線を泳がせた。
それを知ってか知らずか、そんなまごつく隊士の後ろからは、一層小さく抑えた会話が聞こえてくる。
「……斎藤先生なら、まだましなんじゃ……?」
「いや……でも、斎藤先生も介添え役だったんだろ……?」
かろうじて聞き拾うことのできたそれらから、現在、多くの隊士らが戸惑いを抱えている原因が山南関係であることが察せられた。
斎藤はさらに眉間に皺を寄せ、短くひと言「迷うくらいなら報告しろ」と言い伏せた。
途端、隊士らは背中に氷でも放り込まれたように背筋を伸ばして、
「じ、実は先ほど、藤堂先生が江戸から戻られて!」
「や、山南総長のことを聞いて、沖田先生のところへ……」
「介錯をしたのが沖田先生だからと知って、先ほどから沖田先生に詰め寄っているとのことで……!」
かいつまんだ、しかし状況が一発で理解できてしまう冗長な報告に、斎藤は思わず目を見開いた。
――まだ帰還予定は先のはずの藤堂が、何故、今。
驚きまぎれにそんな疑問が頭の隅を掠めた次の瞬間、斎藤が動くより早く、視界の端を濡れ羽の髪がひらめいて奥へ駆けて行った。
斎藤は即座に思考を放棄し、無心に足を踏み出して一歩先を行った愁介の後をすぐさま追いかける。
そう、考えるのは後だ。
じわじわと焦りの感情が後を追うように背を上ってくるが、それにも気付かないふりをして自室へ向かった。
「――なあ……なぁッ! オレは訊いてるだけなんだよ! 訳がわかんないだけなんだよ! なんで何も言わないんだよ!!」
廊下の角を曲がって自室が見えてくると、多少の距離があっても、久しぶりに耳にする藤堂の声が本当に聞こえてきてしまった。荒らげる、というよりは、ただ悲痛に震えている言葉に喉が絞まるような感覚がして、斎藤は愁介を一歩追い越し、開いていた部屋の障子に手をかけた。
「藤堂さん!」
「なんで……なんで、お前が山南さんをッ!!」
「……そう、乞われたので……」
斎藤が声をかけた瞬間、それまで黙っていたらしい沖田が、とんでもなく言葉の足りない小さなひと言を口からこぼれ落とした。
――山南の件の成り行きと今の沖田の状態を理解できている者であれば、沖田の言葉が、沖田自身にも言い聞かせるための『事実』でしかなかったことは、間違いなかった。
が、何も知らない藤堂からすれば、その言葉足らずなひと言が、どんなふうに聞こえるのかなんて、容易に想像ができてしまって。
「ふざけるな!!」
恐らくそれまでは、藤堂もどうにか平静を装おうと、己を抑えていたのだろう。
しかし投げやりにも、得てして無責任にさえ聞こえる沖田の口からこぼれた『事実』に、藤堂は一瞬にして顔を真っ赤にして沖田の胸ぐらに掴みかかった。
「待っ――!」
斎藤は、あくまで藤堂を止めようと腕を伸ばした。
けれどその腕は藤堂の袖先を掴むしかできず、振りかぶられた腕を止めるまでは至らず――……
そんな斎藤の脇をくぐるように、愁介が藤堂と沖田の間に身を滑り込ませたのが、視界の端で見て取れた。
ぼぐ、とも、めしゃ、とも取れるような、酷く生々しい音が室内に響く。
振り下ろされた藤堂の拳は、間に入った愁介の目元と頬骨の間に、真っ直ぐ入ってしまった。
「っ、愁介さん!?」
「なっ……!?」
「愁介殿!」
我を取り戻した沖田と藤堂が息を呑み、斎藤は己の全身から血の気が引くのをまざまざと感じた。
反射で藤堂を突き飛ばすように後ろへ下がらせて、沖田に受け止められながらへたりこんだ愁介の傍らに膝をつく。
「う……へいき……平気」
愁介は軽く片手を振りながらそう言ったが、殴られたところを押さえていた手指の隙間から、たらりと鼻血が流れ落ちてくる。
それを見た瞬間、下がった血の気が一瞬で頭に上り、斎藤は無意識に呼吸を止めた。
しかし、そんな斎藤が藤堂のほうへ振り返るよりも先に――……藤堂を、殴り返そうとするよりも先に。己よりひと回り小さな愁介の手が、斎藤の腕を掴み止めた。
「藤堂さん……総司は、悪くないんだ」
鼻血が喉にも流れたのか、愁介はごろついた声で言った。
「っ、じゃあ、山南さんが悪いって言うのか!!」
斎藤が背後に突き飛ばした藤堂は、愁介を殴っても冷静さは取り戻せなかったのか、あるいは再び頭に血が上ったのか、またも声を荒らげる。
その時、さわさわと……すっかり忘れていた部屋の外に溢れていた戸惑いのささめき声が、改めて室内にまでかすかに入ってくる。
「いや、誰が悪いって、そりゃ……」
「脱走、したのは、山南総長だったし……」
「――誰も山南さんを責めたかったわけでもない!!」
愁介は、有象無象の声を遮るように、さらに声を大きくした。
しん、とそれまでの喧騒が嘘だったように静寂が訪れる。
少しして、「んぐ……」と、声を張ったせいで血が肺に入りかけたのか、愁介が軽くむせて咳をした。
斎藤は懐から手拭いを出して、頬と鼻を押さえていた愁介の手を除けさせ、代わりに手拭いを押し付けた。上向いていた愁介の顔を軽くうつむかせ、そのまま押さえていた手拭いを愁介に任せ、己は代わりに咳をしている華奢な背を撫でさする。
ほとんど、無意識で取った行動だった。
先ほど一瞬にして頭に上った血は、既に落ち着いていて、今は斎藤自身もどういう感情をどこに向けて良いものかわからなかった。それを誤魔化す形で、葛に昔そうしたみたいに、愁介の世話を焼いただけのことだ。
ただ、それがどうも冷静な行動に見えたのか。
斎藤の背後から、怒りを忘れたような力のない足音が離れていき、部屋から出ていった。
同時に愁介の後ろで一緒にへたり込んでいた沖田も、はたとした様子で我に返り、「あ……冷やすもの……お水、汲んできますね」とたどたどしく言って立ち上がる。奇しくも藤堂の後を追うような形で、同じように部屋から出ていった。
が、目の端に移った二人の姿は、部屋を出てすぐに別々の方角へ向かっていった。
斎藤はただそっと、小さな溜息を吐くしかできなかった。