暮六つ
――会津からの返答は、間に合わなかった。
「まだか」
暮六つが刻一刻と迫る中、繰り返しそう呟いて一番気を急いていたのは、土方だった。
己が暮六つと定めても、山南の願いを聞き入れて切腹の見分役を「わかった」とひと言で受け入れても。やはり、ある意味で一番山南の切腹を望んでいないのは、土方だったように思えた。少なくとも、斎藤の目にはそう見えた。
ゴゥン……とその時を知らせる寺の鐘の音が無情にも響いた時、既に切腹場として支度されていた庭先で、最も落ち着き払っていたのは、山南本人だった。浅葱の裃を身に着けてその場に控えていた山南は、鐘がひとつ鳴り始めると共に、見分役として軒下の濡れ縁に坐していた土方に、深々と頭を下げた。
それを伏し目がちに見つめていた土方の唇が、かすかに戦慄く。頭を上げた山南がそれを聡く見て取り、薄く穏やかに微笑む。
そんな二人の様子が、斎藤からはよく見て取れた。介錯は沖田に変わったが、斎藤も介添え役として山南、そして沖田の傍らに控えていたからだ。
介添え役は、万が一、介錯が粗相をした際、代わりに介錯を務める役である。
が、横目で沖田を見れば、彼は感情の読めない凪いだ瞳をただ静かに山南に向けていて、斎藤の出番は微塵もないであろうことがよく知れた。
「沖田くん、声をかけるまで待って欲しい」
姿勢を正した山南が、小さくささめく。
きっと苦しませる前に早々に終わらせようとしていたであろう沖田は、さすがにその瞬間、わずかに腕の筋肉を強張らせて柄にかけていた手を揺らした。
それでも、一度「ふう」と大きく呼吸を整えると、改めて無駄のない動きで抜刀する。
その静かな間に山南は満足げに口の端を引き上げ、一礼し、肩衣を袴から引き抜いた。
いっそ見惚れるほどに堂々とした所作だった。
肩衣を脱いで襟をくつろげ、諸肌脱ぎになる。目前に置かれていた短刀を手に取り、担当を乗せていた三方を尻に敷いて腹をもみほぐす。
……この間ずっと、着物や腕で『傷痕』が露わにならぬよう、意図されていることが斎藤には伝わっていた。
暮六つの、最後の鐘が響くと共に、山南はその手に握った刃を己の腹に迷いなく突き立てた。『傷』をなぞり、左から右へと刃を引き回し――……重ねられた『傷痕』がまるでなかったかのように、あるいはそれらが『稽古痕』だったかのように、わからなくなっていく。わずかな引っ掛かりすら見せず、突き立てる刃の深ささえ御して、見事な一文字を描いていく。
「……たのむ」
山南が、こみ上げる血でごろついた声をわずかに漏らしたのは、刃が右の腹へと到達した直後だった。
ふっと、沖田が息を吐く。
同時に、振り上げられた刃が、前方へ傾くように差し出されていた山南の首に落とされる。
山南の首が、無様に転がることはなかった。
まさに皮一枚残された首は、すとん、と山南の腕の中に納まる。斬撃すら体に響かせなかったようで、山南の身体はそのまま崩れることすらなかった。
首が落ちた、ことを除けば、そのまま呼吸すら続けていそうな凛とした居住まいのままだった。
念のため、己の刀の柄にかけていた手を、斎藤はそっと下ろした。
顔を上げて前方を見れば、土方が、瞬きすら惜しむように目を見開いて山南の姿を見据えていた。その目から、一拍を置いてぼろぼろと涙が零れ落ちてもなお、土方は呻き声ひとつ上げず、やはり瞬きすらせず、山南を見つめ続けていた。
隣を見やると、反対に沖田は目を閉じ、空を仰ぐように首を上向けていた。
涙も、震えもない。
ただ、直前に凪いでいた表情は苦悶に歪められ、眉間に痛々しいほどのしわが寄せられていた。
――静かだった。
誰も何も言わない。どこからも誰の話し声も聞こえない。暮六つともなれば日も落ちて、空にじわじわと藍闇が滲み、鳥すら鳴かなくなる頃だ。
本当に、静かだった。
斎藤は、沖田が握ったままの刀に手を伸べた。代わりに刃の血を拭うくらいは、してやろうと思った。
ところがそうして柄を沖田の手から取った直後、沖田が姿勢を変えないまま、刀を取った斎藤の手を反対に荒々しく掴み止めてきた。
さすがに驚いて、思わず肩を揺らしてしまう。
しかし同時に、そこでようやく――……沖田の腕の震えが、斎藤にまで伝わってきた。
先とは異なり力の加減ができなくなったのか、じわじわと握る手の力が強くなってきて、爪が食い込んでくる。いっそ骨が軋むような感覚すら味わわされてしまう。
けれど斎藤は静かに深呼吸して、逆に肩の力を抜いた。
引き取った刀を反対の手で取り、沖田から遠ざけ、逆に掴まれた腕は押し付けるように沖田へと寄せる。それが今、斎藤にできる精いっぱいだった。
後始末もある。
山南を長くこのままにはしておけない。
わかっているからこそ、今しばらくだけ。
……周囲から、嗚咽が聞こえ始めるまで。土方の後ろに密かに控えていた近藤が、出てくるまで。
「見事だった」
斎藤はひと言ささめいて、その場に寄り添い続けた。