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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇ 二章四話 太陽の別れ * 元治二年 二月
163/203

重い文

 その懸念が、今この状況で、斎藤にとって一番腹の底に溜まる澱の正体なのだ。


「……山南さんは、今回のことを、新選組のための脱走だとおっしゃいました。その信念と覚悟は疑いません。しかし、つい先ほど、あなたはご自身の口で『新選組に対して盲目にはなれない』とおっしゃったではないですか」


 斎藤は相も変わらず抑揚のあまりない声で、それでもじっと山南を見据え、言い募った。


「それは要するに、山南さんにとって、新選組よりも重きを置くべきモノが別にあるということではないですか。それは、藤堂さんのことではないのですか」


 ――これまで幾度か、このようなことに至るとは思いもよらず、それでも折々、山南の苦悩を垣間見ることがあった。ただ、そうしてどれほど悩んでいても……己の腹を、傷つけていても。藤堂のことを口にする時だけは、山南の表情からは陰が薄らいだ。山南と親しくなり切れない関係であった斎藤であっても、それだけは見逃すことはなかった。


 けれど、それなのに。


 今ほど山南が口にした諸々の言葉の中には、藤堂に対する配慮なんてものは、欠片も見受けられなかった。そのような状態で、すべてにおいて「なるほどそうですか」とは、呑み込み切れなかった。


「……今回のこと。藤堂さんには、どう、伝えれば良いのですか」


 斎藤は、黙したままこちらを見返している山南に、半ば乞うように問うた。乞うように、と言ったとて淡々とした話し方は変わらないし、表情だって普段とそう変わらない、変えられない自覚もある。


 それでも山南は、そんな斎藤の問いに少しばかり驚いたように目を瞠り、再びふっと、おもむろにまなじりを下げた。


「……そうだね、本当に……胸を張って迎えてくれと、言われたのに」


 山南は、独り言つように呟いて、吐息と共に視線をわずかに下げた。


「胸を張って……?」

「平助自身は江戸で頑張っているから、帰ったら胸を張って私に迎えてくれと」


 山南はまぶたを閉じ、しかし今度はあごを上げ、想い馳せるような呼気交じりの声で言う。


「けれど、自傷して現実から逃げている私に、胸が張れるわけもない」


 斎藤は一瞬、言葉に迷い、それでも改めて問いを重ねた。


「……山南さん。胸を張る張らないの問題ではなく……」


 言いかけて、ただ、やはりまた言葉に迷って、口をつぐむ。


 山南は斎藤の過去を、藤堂ほどには知らない。かと言って、今さら打ち明けたとてどうなるわけでもない。今問い重ねていることとて、結局は己の二の舞になるやもしれない藤堂への同情でしかなく、藤堂のためというよりは、それを目にする己の心積もりのためのものなのかもしれない。


 ――ああ、何をしているのだろう。


 急速に、氷水の中に音も立てず小石を滑り入れたかのように、思考が冷える。


 斎藤は会津の間者だ。会津からの通達が間に合えばまだしも、間に合わなければ実にそれまで。斎藤では、藤堂に寄り添うこともできないし、そのような役目が己に務まるわけもない。ここで山南に対してあくせくして言葉を募ったところで、それが何になるというのだろうか。


「……申し訳ありません。私が立ち入るべき話では、ありませんでした」


 斎藤はわずかな沈黙の後、静かな深呼吸を挟んで頭を下げた。


「忘れてください」

「……うん、そうだね」


 何の相槌か、山南は吐息を揺らし、妙に改まった様子で「斎藤くん」と呼んだ。


 顔を上げれば、山南が懐からそっと取り出した一通の文を、斎藤に差し出してくる。


「誰に預けようか悩んでいたんだけれど……君に預けるよ」


 差し出されたそれに目を落とし、斎藤は眉根を寄せた。


 ――平助へ


 やわらかな文字で書かれた宛名に、言葉なく山南を見返す。


「この文は、斎藤くんが先に読んでくれてもいい。……いや、むしろ平助より先に目を通しておいて欲しい、かな。もし君が目を通して、あまりにも勝手だと思うなら、平助には渡さず焼き捨ててくれればいい」

「何を……そのようなこと」


 できるわけがないと言いかけた斎藤の言葉を遮り、「いいや」と山南は首を横に振った。


「そうして欲しい。君だから頼むんだ。どうやら君は、私よりも平助のことを心配してくれているようだから」


 いっそ嬉しそうに言葉を弾ませ、告げられて、斎藤は二の句を告げられなくなる。


「どうか、読んでおいてくれ。君が知りたいと言った私の『本音』も、書いてあるから」

「……いえ、しかし……」

「お願いだ。もし、これを読んだ平助が……万が一にも、土方くんを恨んでしまいそうだと思ったら。あるいは、平助が自身を責めてしまいそうだと思ったら。その時には、平助には渡さず、焼き捨てて欲しいんだ。頼むよ」


 切な声で願われ、だからこそ斎藤が戸惑い、動けずにいると、山南は膝を進めて距離を縮め、斎藤の懐へ強引にその手の文をねじ込んだ。


 ただの紙のはずのそれが、とてつもなく重く感じて、ずしりと懐が沈んだ気がした。


「……切腹の時刻は、暮六つです」


 しばらくの無言が漂った後、斎藤は懐をそっと手で押さえ、短く告げた。


 山南は、実に満足そうに晴れやかな笑みを湛え、頷いた。


「わかった。ありがとう」

「感謝など……」

「いや、さっき原田から聞いたよ。斎藤くん、ありがとう」


 斎藤は無意識に顔をしかめた。


 眉根を寄せ、障子の向こうに――副長室のほうへ、視線を流して。


「……発案は、土方さんですよ」


 言葉を返すと、山南は笑顔のままに小さく肩を揺らし、固まった。


 かと思えば、それも一瞬のことで、すぐに片手で口元を覆う。


「……そう」

「……はい」


 深く俯いたその表情が、斎藤からは窺い見れなくなる。


「……すまない、斎藤くん。最後にもうひとつ、我侭を言っても構わないかな」


 かすかに震えたようにも聞こえる声に、斎藤は「何ですか」と先を促した。


 山南は浅い呼吸をひとつ挟むと、ゆっくり、噛み締めるように言った。


「介錯を、沖田くんに頼みたいんだ。彼に最期を飾ってもらえるなら誉れだし、それこそ悔いも残らない。それで、検分を……土方くんに」

「……伝えましょう」


 斎藤がしかと頷くと、山南は顔を上げず、そのまま改めて深く、深く、頭を下げた。


「恩に着るよ」


 斎藤は一礼を返し、立ち上がった。


 部屋を出て、後ろ手に障子を閉める。


 顔を上げて振り向くと、傾きを見せ始めた日の光が、嫌に眩しく感じられた。


 目を細め、半ば無意識に、改めて懐をそっと押さえる。


 やはり、ずんとした重みを感じた。


 はぁ、と深い嘆息が漏れ出る。心なしか、己のそれが小さく震えていた気がした。

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