無理解の重圧
副長室を出て、そのまま離れの奥にある山南の謹慎部屋に向かうと、手前でのそりと緩慢に歩く原田とすれ違った。
「……どういう結果でも、沙汰に任せるってよ」
母屋へ戻る足を止めることなく、原田は沈んだ顔のままそう斎藤に言い残して行った。もしかすると、永倉が間に合わないかもしれない、ということを改めて山南から諭されたのかもしれない。
斎藤が振り返る先を、原田は広い背中を少し丸めて、とぼとぼ去っていく。
――脱走も、帰還も。やはり一時の感情任せでおこなったことではないのだな、と……原田の様子を見ただけで、山南の覚悟をわずかでも垣間見た気がした。
「失礼します」
部屋へ入ると、山南がたおやかな動きで斎藤を見上げてきた。飾り気がまったくない六畳間の中央、下座に当たる位置に座すその姿は、背筋さえ曲がることなく凛としていた。
「やあ、今日は本当にお客さんが多いな。嬉しいものだね、こんな時に何だけれど」
やわらかくまなじりを下げ、穏やかに微笑む。
その言葉通り、帰還してからこの部屋にはひっきりなしに人が出入りしているようで、下手な見張りも近くには置かれていない。この部屋の出入り口を見通せる場所に配されているのみで――……それが『最期の別れ』のお誂えのようにも見え、自然と小さな吐息が漏れた。
「……山南さん。少し、話をお聞かせ願いたいのですが」
「ああ、構わないよ」
抑揚なくかけた言葉に、やはり微笑んだままうなずき返される。そうして、山南の正面に置かれていた座布団へ促された。
斎藤は軽く一礼して腰を下ろし、改めて真っ直ぐに前を見た。
「何故、脱走なさったのですか」
言葉を促されるより前に、顔を上げて早々に口火を切る。
「ははは、率直だね」
「先月の、あなた宛に届いた藤堂さんからの文には、何と書かれていたのですか? まさか、脱走してまで江戸に来いとは書かれていなかったでしょうに」
煙に巻かれる前にと畳みかければ、案の定、藤堂の名前を出した瞬間に山南は目元を小さく引きつらせた。その感情を斎藤が読み取る前に、瞬き一つで再び落ち着いた表情を取り戻して、ゆったりと息を吐く。
「……斎藤くんは知っていることだから、敢えて訊き返すけれど。私がどうして自傷していたか、わかるかい」
思いがけない問い返しに、今度は斎藤の眉間に少し力が入った。
「……いえ」
「そうすることでしか、自分を保って、自分を守れなかったからだよ」
山南は恥じるでもなく、むしろそんな感情はとうに過ぎたとばかりに、臆面なく言った。
斎藤はとっさに返す言葉を見つけられなかった。端的に言えば、理解できなかった。
……が、意味がわからないわけではなかった。
「何故」
数拍の間を置いて斎藤の口からこぼれ出たのは、先の問いかけよりも少し勢いを削がれてしまった、小さな問い重ねだった。
「……私には、幹部という役職が重かったんだよ」
山南はわずかに目を伏せ、それでも変わらず落ち着いた穏やかな声で、滔々と話す。
「私は新選組に対して、土方くんのように盲目にはなれなかった。初めこそ同じ熱量で向かい合っていられたけれど、月日を重ねるにつれ、そうでなくなりつつあることに気づいた」
「いつから」
「さあ。はっきりと自覚したのは池田屋辺りかな。役に立っていないなと感じた。何のために新選組にいるのかわからなくなってきた。そうして迷う内に、いつしか私は彼に耳すら貸してもらえない人間にまで落ちてしまっていたのに、それでも皆は、私を副長だ総長だと持ち上げてくれる。見合わない信頼を寄せてくれる。それが、とても重かったんだよ」
微笑みながら告げられる言葉に、斎藤は応とも否とも答えられなかった。今、思い至るのはどうしたって西本願寺への移転の件だったが、しかしそれひとつがどう、という話でないことは明らかだった。
何しろ。
池田屋辺り。
そんな頃から何かと思うところがあった、というその言葉が、斎藤にはとても嘘には思えなかった。ゆえに、押し込めきれない驚きが胸を占め――……池田屋から今に至る月日を思えばこそ、山南の感じていた『積み重ね』に返せる反論など、浮かぶはずもなかった。
――役に立たない。
重い。
その葛藤の表れが自傷だったのだと言われれば、そうか、としか言葉が浮かばなかった。そういった感覚は、斎藤にもわかる。わかってしまう。
……が、やはり、理解はできなかった。
「山南さんが役に立っていないとおっしゃるなら、隊士の八割九割ほどが無能どころの話ではなくなってしまうのですが」
つい、本心を吐露する。
しかし、この斎藤の考えすら重そうに、山南は自嘲めいた苦笑に眉尻を下げた。