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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章九話 葛の命 * 元治元年 十月
124/203

互いの願い

「――ってことで、父上からの言伝(ことづて)なんだけど。『許容の余地はあるが、過去をなかったものかのように扱うのは、やはり逃げではないかと思う。逃げはならぬ』だそうでして」


 先までと変わらぬ凝華洞屋敷の最奥にある、容保(かたもり)の私室にて。しかし上座に立っているのは四半刻ほど前に退室した容保ではなく、今しがた現れたばかりの愁介その人だった。


 ――手渡したい書簡があるから待てと言われて待っていれば、よもや。


 斎藤はわずかに目線を泳がせ、それから改めて上座を見上げた。


 愁介もまた、どこかばつ悪そうな苦笑いを浮かべている。


「いやぁ、うん……何か、改まると気まずいね」


 互いに目を合わせられないまま、それでも愁介が斎藤に向かい合う形で腰を下ろす。


 気まずい。それは、そうだ。


 かつての『(かづら)(はじめ)』ではない。かと言ってこれまでの『愁介と斎藤』でもない。


 今ばかりは、心の片隅で容保に恨み節を呟いても許されそうな気がした。


「……これまでのこと、誠に、申し訳もございません」


 沈黙が重苦しくなる直前、斎藤は淡々と、しかしいつもとは異なった少々掠れた声で、畳に両手をつき深く頭を下げた。


「……何の謝罪か、聞いてもいい?」


 頭上から、心なしかムッとしたような声が返ってくる。


「……葛様との約束を果たせなかったこと。『生きて欲しい』と願われた葛様の言葉に背くような日々を送っていたこと……を、内省しています」

「驚いた。大正解だけど、嬉しい反面、複雑だ」


 言葉尻にこぼれたような笑みが含まれていた気がして、斎藤はその上ずった声に引かれるように顔を上げた。


 愁介は懐かしむように、また同時に、斎藤以上に何かを反省でもしているかのように眉尻を下げ、目を細めていた。


「俺がどれだけ言って、どれだけ願ったって、一は俺を守ることしか考えず、俺の言葉を受け止めようとはしてくれなかった。でも、ようやく届いた俺の願いは、父上と新選組がいなければ、今もお前には絶対に届かなかったんだろうね」


 喉が焼けるような、熱い感情が渦巻いた。


 今更で、当たり前の、『目の前に葛がいる』という事実を、ようやく目の当たりにしたような心地だった。


「……それは、葛様も、お互い様ではないかと思います。ずっと『生きて欲しい』と言葉にし続けていた私の願いも、きっと……あなたが土方さんと出会わなければ、届かなかったのではないですか」


 不敬で、しかしそれ以上に敬愛を込めた取り繕わない物言いを、斎藤も返す。


 やはり愁介も似たような心地なのか、くしゃりと笑みを深めて喉元を撫でるような仕草をした。


「土方さんのことを知ってるってことは……下手人は総司だな」

「細かなことは伺っておりませんよ。ただ……婚約、をされていたという話は、随分前に土方さんから伺っていました。その相手があなただと知れたのは、つい最近ですが」

「婚約なんて大層なもんじゃないよ。あれは、単なる子供に対するおためごかしだった。一と引き離されて死にていだった『葛』を生かすために、代わりに傍にいてやるからって……そんな程度の、口約束でしかなかった」

「けれど葛様は……その口約束に、救われたんですね」


 当時の二人の状況など、斎藤には知り得ないし、知って良いものでもないような気がする。ただ、本当にただの子供でしかなく、実際守ることのできなかった斎藤の「迎えに行く」という指切りよりも――……当時から十二分に大人であった土方の口約束のほうが、葛にとっては身近で、力強く、希望を見出すに値する『現実』だったのだろう。


 口惜しくないと言えば、それは嘘になる。当時、斎藤は斎藤なりに約束を守らんと必死だったからだ。


 とはいえ、土方への感謝がないわけではない。己にできなかったことを彼の人が務めてくれたお陰で、今、葛は――愁介は、ここにいる。その因果もまた、事実だ。なればこそ。


「……確かに、複雑ですね」


 呟けば、愁介はようやくふふ、と小さな声を転がして笑った。


「斎藤。もうひとつ、父上から言伝がある」


 明るい表情ではにかみながら告げられて、斎藤は慌てて再び頭を下げようとした。


 が、それを片手で制して、愁介は随分あっけらかんと、


「『いざという時、一度だけ、会津ではなく愁介の(めい)に従うことを許そう。それをもって、互いの誓いを果たすがいい』……だってさ」


 悪戯っぽく小首をかしげられ、斎藤は言葉を失って息を詰めた。


「……斎藤。俺には、お前との『(いち)からの関係』なんてないよ」


 瞬きも忘れていた斎藤を、愁介は真っすぐ見据えて言葉を続けた。


「物心ついた時から傍らにいたお前との関係に、零も(いち)もない。俺は……(はじめ)を忘れたことなんて、一度たりとて、一日たりとてなかったよ」


 膝の上に置いていた己の手が、かすかに震えるのを感じた。


 同じように、葛の肩もまた、かすかに震えたのが見て取れた。


「俺が一と離れてからも、自ら命を絶たなかったのは……一が必ず、いつか迎えに行くと言ってくれたからで、その事実だけは、嘘偽りなく、お前のお陰なんだよ」

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