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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章八話 紫苑の病 * 元治元年 十月
112/203

沖田の取引

 視界が揺れて半歩後ろにたたらを踏む。一拍置いて痛み出した額を反射的に左手で押さえる。


 頭突きをされた、と気付いたのは、生理的に滲んだ目に、同じく手で額を押さえて顔を歪めている沖田の姿が見えてからだった。


「な、ん……っ、沖田さん、あんたな――!」

「言わないで下さい! お願いです、近藤先生と土方さんにだけは……ッ!」


 かい付くような声で訴えられる。


 斎藤は唇を引き結び、きつく眉根を寄せた。


 乾いた咳。うつる病。近藤や土方に言われては、沖田にとって困ることになる病――。


「……労咳(ろうがい)、か……?」


 斎藤の呟きに、沖田は答えなかった。ただ唇を噛み締めてうつむく。だからこそ、それが答えになっているようなものだった。


 労咳は、不治の病だ。病魔に肺を侵され、次第に痩せ衰え、やがて死に至る。


 折々、沖田が空咳をしていたことは知っていた。


 が、沖田が昔から咳風邪をよく引くことだって知っていたから、葛のことを思い出すなんて余計なことを考えるばかりで、目の前の事実から目を背けすぎていたのだ。思い出すというなら、思い出したなりにもっと――……


 斎藤は拳を握り締め、沖田の隣をすり抜けて部屋の外へ足を向けた。


 が、沖田に腕を掴み止められる。


「どこへ、行くんですか、斎藤さん……」

「土方さんのところへ」

「駄目です」

「駄目じゃない。労咳は不治の病だが、体を労われば寿命をまっとうできることだってある。血痰を伴わない空咳をしているだけの今なら、まだ――」

「そんなの意味ない!」


 切羽詰まったような声だった。


 周囲に漏れ聞こえることを警戒しているのか、大きな声ではなかったが、それでもすぐ傍らで訴えられたその言葉に、鼓膜がキンと震えた。


 斎藤は顔をしかめ、強く沖田を睨み返した。


「馬鹿を言うな、死ぬぞ……!」

「死にません」

「何言ってる。労咳は」

「死にません!」


 沖田は、ぼんぼり髪が乱れるほどに大きくかぶりを振る。


「ここを追い出された方が、私は生きられない……!」


 鋭く睨み返される。爛々とした目だ。が、潤んでいる。


「お願いします、うつさないようにだけは必ず気をつけます、ですから」

「俺は……俺のことじゃない。そうじゃなくて……もし、あんたが死んだら」


 土方さんと、愁介殿が。


 言おうとして、思わず口をつぐむ。何故、土方のみならず彼の人のことまで浮かんだのかと、その疑問には気付かないふりをした。


「とにかく駄目だ。土方さんに」


 言いかけた瞬間、足を払われ腹の底がふわりと撫でられたような浮遊感に見舞われた。直後、ダンッ、と背中が畳に叩きつけられて、息が詰まる。その直後、目にも止まらぬ速さで首元に刀を添えられる。


 ――けれど、そうした沖田の手はわずかに、震えていた。


「……俺を殺せば、どの道あんたは新選組にはいられない」

「……っ……」


 沖田は傷になりそうなほど強く唇を噛み、刀を納めた。


 それでも改めて斎藤の襟元を掴み、斎藤が起き上がれないよう押さえつけて圧し掛かったまま、声を震わせて言った。


「……私は、まだ生きられる。まだ役に立てます」

「馬鹿を言うな」

「馬鹿だと言うなら、斎藤さんに、決闘を申し込みます」

「……何?」


 さらに眉根をきつく寄せた斎藤に、沖田は真っ直ぐ、無表情にすら見える凪いだ視線で斎藤を見下ろした。


「私は、あなたには負けませんよ。私のほうがあなたより強いですから」

「病人が何を」

「病人だと思って私を役立たず扱いするのなら……直に確かめていただきたいだけです」


 普段から抑揚のほぼない斎藤の言葉以上に、沖田は淡々と、静かに言い募る。


 斎藤は息を吐き、全身から力を抜いた。


「……あんたが勝ったら、黙っていろと言うのか」

「はい。代わりに……」


 沖田はそこで言葉を止め、何やら腹を括るように一度目を閉じた。そうして深呼吸をし、斎藤の襟元からそっと手を離すと――……いつもの、やわらかな微笑みを浮かべて告げた。


「代わりに――あなたが勝てば、『葛さん』のことを、お教えしますよ」

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