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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
102/203

まどろみの午後《過去》

「なして殿は、あだ(あんな)子供()(かづら)様をお任せになるのですか」


 鶴ヶ城を遠くに臨む離れ屋敷で、一が昼下がりの裏庭の掃き掃除をしていた時だった。


 表の玄関先から声を潜めた耳慣れぬ会津訛りが聞こえ、つい手を止めて耳を澄ませてしまう。


「世話役にしては幼ぐ、どうにも愛想もねえ。なんぼ病の療養中で言えども、養育()良いどは思えねえが」


 自分のことを言われているのだと気付くと共に、先ほど訪ねて来た年若い医者見習いの男の声だと理解する。


「悪い子ではありませんが、まあ、都合がよろしいのでしょう」


 葛のため、ほぼ毎日朝から晩まで離れ屋敷に顔を出しているいつもの医者が、感情の窺えない割り切った声で答えた。


「都合がいいどは?」

「今後また、殿のご下命にてこの屋敷へ出入りなさるなら、覚えておくとよろしい。どこのとは申せぬが、あの子供は、ご公儀の御為に働く家の子供ですよ」


 医者の教えに、見習いは何かを察したように「ああ」と唸る。


「どうりで普通どは違う、妙な子供だで」


 一は静かに目を伏せて、唇をきゅっと引き結んだ。


 いつまで経とうと、忌避の目で見られることは慣れないと思う。何より一がそう(ヽヽ)見られることは、どうしたって葛にも悪影響を及ぼすため、結局は何も言い返せないことがとにかく悔しかった。


 兄ほどに出来が良ければ、このように比べられることもなかったのだろうか、と情けなくなってしまう。


「――ねえ」


 密かに歯噛みしながら、手にしていた箒を握り締めた時だった。


 玄関先によくよく知った、凛とした幼声が屋敷先に響く。


「先生。それって、ここで話さなきゃならないことですか? 子供のかげ口を言うことが、先生たちのお仕事なんですか」


 冷たい一蹴に、大人達が揃って息を呑んだのが伝わる。


「葛様。ご無礼を致しました」

「もう用がないなら、そっちの人は帰って、二度と来ないでください。父上にもそう伝えておきます」

「っ……!」


 あしらわれた見習い男が、何かを言い返そうとした気配が伝わった。


 しかし医者が引き止め、「お帰りなさい」と促したことで、足音がひとつ遠ざかり木戸門から出て屋敷から去っていく。


「先生も。先生が、おれや一を、他の大人よりまだマシな見方してくれてるのは知ってますけど。でも、一をないがしろにする話は、やめてください」


 葛が淡々と言えば、医者が物静かな声で「肝に銘じます」と詫びを入れる。


 一は箒を握り締めていた手から力を抜き、思わずふっと頬をゆるめた。


 直後、ぱたぱたと玄関先から回ってくる軽い足音が聞こえる。顔を上げれば案の定、一の存在に気付いていたらしい葛が、無邪気な笑みを浮かべて駆けてくる。


「葛さま! 走っては御身に響きます」

「ちょっとくらい、へーき!」


 言うなり、葛は両手を広げて一に力いっぱい抱き着いてきた。


 一はすぐさま箒を手放し、体全体、腕全部で葛の小さな身体を受け止める。


「……葛さま。ありがとうございます」

「別に。おれ、ああいう大人きらいだもん。一のこと、なにも知らないくせに」


 盗み聞きを咎めもせず、葛はぐりぐりと一の胸に額をこすりつけてくる。


 くすぐったさについ笑えば、葛もふふっと喉をやわらかく震わせた。


「葛さまは、ご自分が陰口を言われても怒らないのに、俺の陰口はいつもかならず怒ってくださいますね」

「だっておれ、自分より一のほうが大事だもん」


 何を今さらとでも笑うように、葛は堂々と言う。


 胸の奥が温かくなり、一も葛の背に回した腕に力を込めながら答えた。


「俺も、自分より葛さまの方が大事ですよ」

「それは駄目ぇ」

「ええ?」

「一は一番大事だから、一番大事な一が、一を一番大事にしないっていうのは、ヤだ」


 思いがけない反論を食らい、一は思わず顔をしかめてしまう。


「待ってください、葛さま。それは不公平ですよ」

「いいもん、おれの方が主だから。主の命令は絶対でしょう」

「……そういうのを、横暴って言うんです」

「おうぼう?」


 一の胸元から顔を上げた葛が、どんぐり眼がぱちくりと瞬かせて見上げてくる。


「先日、習ったでしょう。横の字に――」

「ああ、これが横暴」


 復習交じりの説明に、葛は素直に納得しかけて、


「じゃなくて、違うもん! ダメなものはダメなの!」


 ハッとした様子で、慌てて首を大きく横に振る。


 と、興奮しすぎたのかすぐさまいくつか咳が出て、一は慌てて小さな背をさすった。


「苦しいですか? お部屋に戻りましょう」

「けほ、っ、こほ……うん」


 促して葛の前に背を向けてしゃがめば、葛は強がることもなくあごを引いて、一の両肩に腕を回して身を預けて来た。


 よいせと背負い、裏の濡れ縁からそのまま屋敷に上がる。


「……一の背中は、あったかいね」


 部屋に入り、布団の傍らに膝をついたところで、離れるのが嫌とでも言うように葛がきゅっと細い腕に力を込めた。咳はあれきりすぐ治まったようで、一は無理に引き剥がすこともなく葛の腕にそっと頬をすり寄せた。


「葛さまも、あったかいですよ」

「おれ、一と一緒にいる時だけは『生きてる』って思える」


 小さな呟きに、自然と浮かびほころんでいた一の笑みが、ふと引き込む。


 わずかな逡巡の後、一はそっと肩越しに振り返りながら答えた。


「……葛さま。『生きる』って、前を向くことじゃないのかなあと、ちょっと思うんです」

「前を向く?」


 互いの呼吸が触れるほどすぐ傍にある小さな顔が、こてんと首をかしげ返してくる。


 それに頷き返して、一はそっとまなじりを下げた。


「葛さまは、ちょっと、生きることに後ろ向きなので」

「ええ? それってつまり、おれはもう死んでるってこと?」

「違いますよ、『生きて欲しい』って言いたいんです」


 一は首を横に振り、改めて葛を背中から下ろして正面から向き直った。


「別に、つまずいたって、悔やんだって、何したっていいので……ご自身を投げ出すようなことだけは、言わないで欲しいなと、俺は思います」

「……一が難しいこと言う」

「そうですか? つまり、一緒に生きましょうって、それだけですよ」


 笑った一に、葛もふわりと瞳をたわませて微笑む。


「じゃあ、そのためにまず一緒に寝ようよ、一」


 ごろんと布団に身を横たえ、それこそ我侭を言うように小さな手を差し伸ばしてくる。


「いいですよ。でも、寝相で蹴らないでくださいね」

「大丈夫、今日はあったかいから!」


 何がどう大丈夫なのか、謎の理屈で胸を張って、葛は隣に身を横たえた一にやはりぎゅうっと抱き着いてくる。


 くすくす互いに笑い合うが、お互いの呼吸が、心音が心地良く、葛は間もなく静かな寝息を立て始めた。


 一も、腕の中の温もりがただ愛おしく――……


 気付けば、穏やかな昼寝にまどろんでいた。

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