9.後片付け
「初美先輩、これどうしたらいいですか?」
「ここはあまり派手な彩色よりも淡いパステル系の彩色が多いから、その方向性でいいと思うわ。それからここの担当者、締め切りに余裕が無いから他の仕事とバッティングしたときは優先してあげて」
「こっちのは?」
「これは先方から指示が来るから、それを元にモックアップ作って。それから……」
東京に戻ったアタシにはやることが山積みだった。まず最初にアパートの契約を解除して、それから引っ越し業者の手配とライフラインの解約の連絡、そして必要最低限の日用品以外全ての荷造り、いくら時間があっても足りないくらいだったけど、これはシェリーちゃんと暮らすための試練なんだと考えれば全く苦にならなかった。
アパートの大家さんもいい人で、急遽実家に戻らなきゃいけなくなったって話したら、快く契約の解除に応じてくれた。それどころか先立つものもいるだろうって敷金は全額返してくれるらしい。それから念のためにアタシの転居先を聞いてくる奴がいても絶対教えないでくれって言ったら気の毒そうな顔をされたんだけど、もしかしたらストーカー被害に遭ったとでも思ってるのかもしれない。絶対に教えないから安心していいよ、って言ってくれたから、もしアイツが訪ねてきても大丈夫でしょ。
で、今は会社での引継ぎの真っ最中。幸い進行中の仕事はほとんど目途がついてるし、後は先方の要望を聞きながら仕上げるだけなので問題ないはず。同僚や後輩は以前からアタシの独立に協力的だったから、皆自分の仕事そっちのけで引継ぎに付き合ってくれた。唯一例外だったのは……
「初美ちゃん、本当に辞めるの?」
「しつこいよ、男だったら元カノの新しい門出を祝うくらいの気概見せてよ」
「僕はまだ別れるつもりはないよ!」
「そっちには無くてもこっちにはあるの。っていうかあれだけ言っても浮気止めないし、いい加減にこっちも疲れたのよ」
社長が他の社員がいるのに臆面もなくそんなことを言ってくる。アタシたちが付き合っていたことはもう社内の人間はおろか得意先だって知ってる。付き合っていた、というところは強調させてほしい。何故ならもう一月以上前に別れを伝えてあるから。向こうは納得してないみたいだけど、そんなのアタシの知ったことじゃない。
「あれは……その……仕方ないじゃないか……」
「何が仕方ないのよ、アンタが我慢すればいいだけでしょ? もうそんなのに付き合ってられないのよ。アンタ程度に使う時間は無いの」
「そんな……初美ちゃんに辞められたら……」
「アンタが昔みたいに働けばいいだけでしょ? 打ち合わせと称して飲み歩いたりするのを止めればいいのよ。グルメブログなんかやってないで仕事しなよ、経理の子が愚痴ってたわよ? うちの会社の交際費全部アンタが使っちゃってどうしようもないって。自分の昼ごはんくらい領収書回さずに自腹切りなよ」
辞めると決まってから、社内の至るところからコイツに対しての苦情がアタシのところに来た。それはつまり、近しくて尚且つ後腐れの無くなる人間に悪者になって欲しいってことだと思う。いきなり辞めて迷惑かけるのは間違いないし、コイツに対して悪者になるくらいどうってことない。ていうかそもそももうコイツには何の未練もない、というより嫌い。
「どうして? 僕は社長なんだよ?」
「だから? それなりに高給貰ってんだからいいでしょ? いい加減にしないと得意先から見限られるよ?」
これは本当のこと。こいつの給料については付き合ってた時に明細を見たことがるけど、アタシたちより桁が一つ多かった。アタシたちは残業しまくって、休日出勤しまくっても大した給料はもらえない。それでも皆この仕事が好きだから続けてこれた。それを理解してないから、今社員がどういうことを考えてるか把握してない。
「さて、アタシは昼休憩に入るから。社長だって言い張るならもっと社長らしいことしないととんでもないことになるからね」
無言で立ち尽くす社長をそのままにして、後輩たちとランチに向かう。そういえばこうやって皆で食事に行くなんていつ以来かな……
「先輩、ウチってやばいんですか?」
「ん? どうして?」
「先輩が休んでる間、取引先から心配されまくりだったんですよ。お宅の会社大丈夫かって」
女子のランチ会には似つかわしくない定食屋でコロッケを頬張るアタシに後輩たちが神妙な顔で聞いてきた。得意先に辞めるって連絡入れた時にアタシも初めて聞いたんだけど、実はウチの会社は相当やばい。というのも本来不測の出来事のための内部留保がほとんど無いらしい。原因はもちろん社長の浪費。女に車、一時期は馬主になりたいなんて言ってたっけ。
でも得意先はそんなアイツのことをほぼ見限ってる。出来るだけ取引を続けてくれるようにお願いしたけど、そこはビジネスの世界、情けをかけたいけどかけられない。ただ色々と裏で動いてくれてる人もいるから大丈夫だと思うけどね。
うちの社員は皆能力が高い。今まで一度たりとも納期を遅らせたことはないし、クオリティだって落としたことはない。そんな逸材を他の会社が見逃すはずがないから。
「大丈夫かどうかって言えば怪しいけど……まぁ大丈夫じゃないかな? 皆で転職でもしちゃったら?」
「そんなの出来るはずないですよ。先輩みたいに独立してフリーになる勇気も技術もないし。先輩だったら田舎にいても十分仕事取れるんじゃないですか?」
「一応今の取引先からいくつか仕事を回してもらうことになってるよ。それをこなしつつ方向性を決めないとね」
「いいなぁ……あたし達先輩の下で働きたいなぁ……」
「ド田舎暮らしが我慢できるならいいけどね」
そもそもあの家には誰も入れるつもりはないんだけどさ。あの家はアタシとシェリーちゃんの聖域、絶対に護らなきゃいけない心のオアシスだから。それにこの子たちがコンビニに行くのに車で三十分以上かかるような田舎に適応出来るとは思えないし。その証拠にアタシの一言で皆黙り込んでる。
やっぱり会社が無くなるかもしれないっていうのは不安なんだろうと思う。結果的にアタシは沈みかけの船から逃げ出すような形になっちゃったし、申し訳ない気持ちもある。だから色々と根回しはしておいた。もし社長が変わる気配が無かったら、いずれ動き出すはず。
「……あれ? アタシ電話どこやったかな? そうだ、デスクの上に置きっぱなしだった」
「じゃあ早く戻りましょう」
「そうだね。ま、今後のことについてはなるようにしかならないからさ。でも早まって望んでない方に行かないでね」
「……わかりました」
会社に戻る道すがら、今まで当たり前のように見ていた風景を目に焼き付けていると、不意に後輩が話しかけてきた。
「先輩、本当に田舎に帰って大丈夫なんですか?」
「ん? 大丈夫に決まってるじゃない」
「それならいいんですけど、先輩昔あたしの家であったこと憶えてます?」
「んー……何だっけ?」
「いや、憶えてないならいいんですけど……田舎暮らし、頑張ってくださいね」
「うん、ありがと」
この子たちは何を言ってるんだろう。アタシとシェリーちゃんの夢のような生活が待ってるのよ? むしろこっちからお願いしたいくらいなのに。ギスギスした都会での生活なんかよりもずっと充実した生活が送れるのは間違いない。そのためにはどんなことだって頑張っちゃうからね。
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