第三章1
第三章 迷宮への挑戦1
何となく気を抜きやすい金曜日という日に俺はレファナートと一緒に肩を並べて通学路を歩いていた。
この時間の通学路には学生が多いので、麗しい金髪を腰まで伸ばしたレファナートはとにかく目立つ。
現に男子たちなんて俺の顔を見てはニヤニヤしているし、きっと俺たちは吊り合いの取れていないカップルだとか思われているんだろうな。
まあ、レファナートは見た目だけなら極上の美少女だし、カップルと思われるのは悪い気はしないが、って何で俺がこいつとカップルなんかにならなきゃならないんだよ。
そんなの死んでもご免だね。
俺は隣を歩くレファナートの顔をチラチラ見ながら、こいつは学校の勉強についていけるのだろうかと心配する。
当のレファナートはアグナスティア王国にいた時は《ヴィングリット学園》という名門の六年制の学校に通っていたらしい。
ただ、ヴィングリット学園は現代のイギリスの学校とは学ぶ内容がまるで違うとは言っていた。
それが本当ならどうあがいてもレファナートがアーヴィニア学園の勉強についていけるわけがないのだが、こいつは心配無用だと言い張った。
そういう部分はあのイビルナートの神にも等しい力がフォローしてくれるから大丈夫らしい。
どうも、イビルナートはこの世界の情報をレファナートに植え付けたようで、こいつも学校の勉強も含めて、この世界のことはある程度、理解しているという。
アグナスもイビルナートは人間の心や記憶だけでなく、時には世界の事象すら操作できると言っていた。
それがとれほど凄いことなのかは今一つ、ピンと来なかったが。
まあ、レファナートはアグナスティア王国を救うためにそう遠くない日に行動を起こすと言っていたので、学校の勉強などどうでも良いのだろう。
「今日、学校が終わったら、さっそく王都に行って貰うからね。手っ取り早くあんたの身も心も鍛える良い方法が浮かんだから、せいぜい気合いを入れなさいよ」
仏頂面で俺の横を歩いていたレファナートはそう言い出した。
「でなきゃ、あんたの愛して止まないこの平和な日々は守れないわ」
その声と同時に薄桃色の花びらが俺の頬を掠める。平和な日々を壊そうとしているのは邪神などではなく、この鼻持ちならない女だ。
「そこまで発破をかけられたら、俺としても引き下がれないが一体、何をするつもりなんだ?」
俺は日本という国からの贈り物だという、すっかり花が散ってしまった桜の街路樹を見ながら言った。
満開の桜を目にした時、確かに俺は何かが変わると思っていたが、それがこんな形で実現するとは予想していなかった。
「それは行ってからのお楽しみよ。でも、あんたの性根を叩き直すには良い経験になることは確かね。これを乗り越えられないようじゃ次のステップには進めないし」
レファナートは相変わらず不躾な物言いで俺を不快にさせた。
「何か物騒なことを俺にやらせようとしているな。何度も言うようだが、俺の平穏な生活を脅かすようなことは止めてくれ」
俺は心底、うんざりしたように言った。本当の脅威はこいつの精神構造にある。
「そんなの無理に決まってるでしょ。とにかく、あんたには戦いに対する心構えのようなものを持って貰うわ。アグナスティア王国を救う云々はそれからよ」
レファナートは俺に、一体、どんな試練を課せようとしているんだ?
「どういう計画を立てているのかは知らないが、危険だと思ったら俺はすぐ止めるからな。自分の命を擲ってまで、お前の国を救うつもりはないし」
冷たいようだが、それが俺の偽らざる本心だ。
大体、母国のイギリスのためであっても、戦争に行くなんてご免なのに、どうして住んだこともない国のために戦えると言うんだ。
「なら、昨日も言った通り、あんたには本当に死んで貰うわよ。そしたら、その死体からアグナスの魂も無理やり取り出せるし、そうなったらあんたには用もなくなるけど」
レファナートは何とも涼しげな顔で、こっちがゾクッとさせられるような言葉を平然と口にした。
なので、俺もアグナスの魂を取り出すのに俺を殺す必要があるのかと言いたくなる。が、俺の言葉を待たずにレファナートは更にこう言い募る。
「言ったら悪いけど、そんな覚悟じゃ到底、あのザナルカダスとは戦えないしね?それともあんた、戦わないですむ方法がないかとか、甘いこと考えているわけじゃないんでしょうね?」
これには俺もウグッと言葉に詰まった。
「まあな」
俺はレファナートと視線を合わせることができず俯きながら言った。
「だとしたら、その認識はすぐにでも改めた方が良いわよ。今のアグナスティア王国の置かれている状況は戦いを避けられるほど緩いもんじゃないし」
そう言ったレファナートはどこか眩しそうな目で桜の木を見上げた。それを横目にしていた俺はレファナートにも満開の桜を見て欲しいと思った。
そうすればその荒んだ心も少しはマシなものになるかもしれない。
「でも、真っ向から戦いを挑んでも勝てる相手じゃないから、お前だって困ってるんだろ?なら、戦わずに相手を出し抜ける方法を考えたって悪くはないんじゃないのか?」
レファナートの言葉は図星だったので、俺もあまり強気な発言はできなかったが。
「確かにあんたの言う通りだわ。でも、それを考えるのはあんたじゃなくて私の役目よ。敵を知らないあんたがいくら空論を並べたところで、事態は好転しないんだし」
その言葉は正論だ。
俺はまだザナルカダスがどれほど恐ろしい奴か理解できていない。なのに、想像だけであれこれ考えたところで詮無きことだ。
「少なくとも、今の段階では戦わないという選択肢はあり得ないわ。あんたもその現実はしっかりと頭に叩き込んで起きなさい」
レファナートは俺の甘さを打ち砕くようにぴしゃりと言った。
「そうかい」
これには俺は暗澹たる気持ちになった。
「この際、はっきり言っておくけど、中途半端な気持ちで戦われるのは迷惑だし、そんなことだと命を擲つどころか、私の足手まといになって犬死にするだけよ」
犬死にという言葉は単なる脅しではなく、厳然たる事実なのだろう。だけど、その足手まといにレファナートは何を望んでいるんだ?
「しょうがないだろ、俺はそもそも戦いたくなんてないんだから。ましてや邪神から国を救うなんて俺のような子供には過酷すぎるよ」
俺は何度も言わせるなと不平を垂れたくなる。
「まだ、そんな情けないことを言うつもりなの。あんたはあの凶暴なグリフォンだって倒したんだし、私も少しは期待してたのよ。なのに、なのに・・・」
レファナートは唇を噛みしめた。
「情けなくてけっこうだ。アグナスだってできる範囲で力を貸してくれれば良いって言ってるんだ。だから、そうさせてもらうだけさ」
ちょっとずるい言い方だなとは思ったけど、この場合は仕方がない。
「やっぱりあんたみたいな腑抜けた奴には荒療治が必要なようね。まあ、だからこそ今日という日はあんたにとっても正念場になるんだけど」
「腑抜けてて悪かったな。しかも、正念場って言葉はかなり怖いんだが」
ま、腰抜けと言われなかっただけマシだと思おう。
「本当に怖い思いをするだろうから、覚悟しておくことね。ったく、私も王の魂を受け入れた奴を何人も見てきたけどあんたはその中でも最低の奴ね。ここまで、うじうじされると怒りを通り越して呆れるしかないわ」
レファナートは歯に衣着せぬ言葉を発した。もちろん、最低だと言われた俺も怒りが込み上げてくる。
「そりゃそうだろ。俺はお前とは違う世界の人間なんだから。しかも、国王とはかけ離れたただの一般庶民なんだぞ。いい加減、その事実は分かれ」
俺は捻くれたように言った。
レファナートは俺に多くの物を望みすぎている気がする。とはいえ、それに応える力が俺にはあるという信頼の裏返しかもしれないが。
「そういう部分を差し引いても最低だって言ってるの。特にわざと自分を小さく見せようとする卑屈さなんて、最低の人間の証拠よ」
その言葉には俺も少し傷ついた。
「そいつは言ってくれるね。こう見えて、俺は学校じゃ優しくて、真面目な人間だって思われてるんだぞ。最低の人間だなんて言われたことは一度もない」
俺は最低なのはむしろお前の方だろ、とどう考えても人格的に問題があるレファナートに言いたくなった。
「なら、王として最低だって言った方が良いわね。それに誤解しているようだけどアグナスティア王国の国王になれたのは、血筋や家柄に恵まれてた奴だけじゃないわ。要は王としての器があるかないかよ」
「どうせ俺は王様の器じゃないさ。だけどそんな俺を選んだのはアグナスなんだから文句があるならあいつに言えば?」
全てはアグナスが悪いと俺も言いたかったが、アグナスの心の内も少しは理解できるのでそういう言葉はグッと呑み込んだ。
「そうね。機会があればそうするわ」
レファナートは金色の髪をふわりと風に靡かせながら言った。
☆
教室に入り、席に着くとすぐさまミックが声をかけてきた。その顔はいつになくニヤニヤしているので、俺も気持ち悪さを感じる。
だが、そんなことはお構いなしにミックは俺の肩を掴む。
暑苦しいからあんまり体を近づけるなよと俺は言いたくなった。どうせ体を近づけるなら可愛い女の子に限るし。
「朝から仲良くご登校とは羨ましい限りだし、みんなから注目されて大変だったろ。それで昨日はどうだったんだ?」
そう尋ねるミックの口調には品性が欠け落ちていた。
「どうだったって?」
俺は素知らぬ顔で言った。この手のからかいは慣れているが、それを許せるのはレスティーのことだからだ。
レファナートの事になると、俺も穏やかではいられない。
「惚けるなって。あのレファナートさんと一つ屋根の下で過ごしたんだろ?何か嬉しいことがあったんじゃないのか?」
「そんなのあるわけがないだろ。昨日はレスティーのコロッケだって食べ損なうし、はっきり言ってついてなかったぞ」
俺の言葉にミックは女の子よりコロッケの方が大事なのかと呆れながら言った。こいつにエイミーさんの作るコロッケの味は分かるまい。
「そうか。ま、お前みたいなお子様じゃ、女の子と良い関係になんてなれるわけがないよな。期待した俺の方が馬鹿だったぜ」
だが、言葉とは裏腹に俺のそういう部分にはミックもほっとしているようだった。
もし、俺に彼女なんてできたら、ミックも自分との心地良い関係が変わってしまうと思ったのかもしれない。
そんなことで変わってしまう柔な人間関係をミックと培ってきたとは思いたくないが。
「どうせ俺はお子様だよ。でも、そういう意味じゃ女の子と付き合ったことがないお前だって同じだろ?とにかく、俺にだって女の子を選ぶ権利くらいはあるってことさ」
選べるような身分じゃないだろ、とは思ったが。
「レファナートさんが相手じゃ不満だって言うのかよ?そんな言葉を聞かれたら、他の男子からナイフで刺されるぞ。もし、俺だったら強引に押し倒すくらいはしたはずなのに」
ミックはできもしないことを豪語した。
「そんなことはお前にだって無理だろうが。まあ、不満だという言葉は否定しないけどな。もっとも、完全に俺とレファナートの仲は誤解されていると言って良いし、いくら言い訳しても信じてはもらえないだろうけど」
俺はどうしてもレファナートを普通の女の子としては意識できなかった。いや、そういう風に意識することを恐れてさえいた。
確かにレファナートは横暴なところもあるが、俺もそれを心底、嫌っているわけではない。
逆に、そういう部分には惹かれてすらいたのだ。
ただ、俺はレファナートに対して好意のような感情が芽生えるのを無意識の内に避けていたので、心の中では意地を張ってしまっていたが。
「何という贅沢者だ。あんな可愛い女の子と暮らせるなんて、そうそうあることじゃないんだし、このチャンスを逃してどうする。男だったら、引いちゃいけない時があるんだぞ」
ミックは冷やかすように言うと、俺の胸を肘で突っついた。それに対し、俺も口を三角にして答える。
「俺にその気はないし、変に気を回すのは止してくれよ。少なくともお前だけは俺の味方であって欲しいんだから」
俺はにべもなく言って窓の外に視線を向ける。
今日も太陽はギラギラしているし、確実に夏が近づきつつあるのを感じた。この窓から差し込む光が、俺の心に届くことはなかったが。
「はあ、お前って本当に甲斐性なしだよな。そんなことじゃ一生、彼女なんてできないぞ。特にレファナートさんと比べたら他の女の子じゃ激しく見劣りしちまうし」
「かもな。だけど俺は恋の相手に彼女を選びたくはないんだ。それに女の子は外見だけが全てじゃないだろ。俺は性格を重視する派なんでね」
そもそも、恋愛という言葉そのものがレファナートには似つかわしくなかった。
「確かにレファナートさんの性格に問題があることは認めざるを得ない。となると、やっぱりお前はレスティーのことが好きなのか?」
「レファナートよりはな」
俺も早く女の子を好きになれるような大人になりたい。その相手がレスティーだったら、素直に喜べるだろうか。
「なら、幼馴染みという関係に甘えてないで、もっとレスティーを大切にしてやれよ。恋愛って言うのは中途半端な馴れ合いが、一番、駄目なんだ。それすら分からないなら、俺が奪っちまうぞ」
その言葉には俺も心がズキッとする。
前に、もし俺がレスティーと付き合うなら、その時は応援してやるぞとミックは言っていた。
でも、本当はミックはレスティーのことが好きなのかもしれない。
もっとも、例えそうだとしても俺が口を挟めることじゃないが。結局のところ、俺は恋愛というものから逃げているだけの臆病な子供なのかもしれないな。
「分かってるよ。心配しなくてもレスティーとは上手くやるさ。そして、いつかはレスティーに対する想いにも答えを出したい。それがあいつにしてやれる唯一のことかもしれないからな」
俺がそんな言葉を口にしたその時、ちょうど話題に上がっていたレスティーが背後から声をかけてくる。
昨日とは違い、その顔にはいつものような柔らかさがあった。
「何か熱心に話しているところを悪いんだけど、ちょっと良いかな、テッド?」
レスティーはほんわかした声をかけてくる。その手には見覚えのある包みが握られていた。
「ど、どうしたんだ、レスティー?」
俺はすぐに真顔になる。ミックとの会話を聞かれていたら、かなり恥ずかしい。
「テッドったら、そんなに引き攣った顔をしてないでよ。私はただ、またお弁当を作ってきてあげただけなんだから。はい、これ」
レスティーは俺の胸に包みを押しつけてきた。包みからはまだ熱が伝わってくる。作られてからあまり時間が経ってないみたいだな。
俺はじわじわと胸の内に嬉しさが広がるのを感じつつ口を開く。
「ありがとう。もしかして、昨日のことで余計な気を遣わせちゃったか?でも、一緒に暮らすことになったからって、あいつとは何にもないから安心しろよ」
何を安心するんだと俺も自分に突っ込みを入れていた。
俺とレファナートが一緒にいることでレスティーの心がかき乱されるとでも思っているのか。
そこまで想われているという自惚れは本当に滑稽だ。
「昨日のことは関係ないよ。それに私もレファナートさんと仲良くなることを諦めたわけじゃないから。とにかく、今日のお弁当には美味しいコロッケがたくさん入ってるから、心して食べてよね」
レスティーは溌剌とした声で言った。これには俺も引っかかっていた魚の骨が取れたような気分になる。
どうやらレスティーもレファナートのことについてはもう気にしてないみたいだな。
脳天気というか、一日経ったら嫌なことも忘れてしまうのが、レスティーの良いところかもしれない。
「ああ」
心してという言葉の意味を考えながら、俺は頷いた。
「私もこんなことは言いたくないんだけど、レファナートさんって素直になれないだけで本当はとっても良い子だと思う。だから、テッドもあんまりレファナートさんに辛く当たったら駄目だよ」
レスティーの言葉には俺もボリボリと頬を掻きたくなる。
あのレファナートが良い子に思えるなんて、レスティーの目はとんだ節穴だな。
と、いつもなら言ってしまうところだが、それがレファナートに対する逃げたと言うことは俺も理解している。
「分かってるよ」
俺はそっと囁くように言った。
そんなの言われるまでもなく、分かりきっていたことだ。そして、レスティーの言いたくなかったという言葉の意味も察している。
それに気付かない振りをする俺は本当に男として情けない。
「なら良いよ。でも、一緒に暮らしているからって、くれぐれもレファナートさんに変なことをしたら駄目だよ。溜め込んだものを吐き出したくなっても、エッチな本とかで我慢するんだよ」
レスティーの言葉に俺は下半身に血が流れていくのを感じる。それは顔を赤くしながらモジモジしているレスティーも同じようだった。
「って、何を言っているんだろうね、私ったら。昨日は恋愛物の映画とか見たから、それに影響を受けちゃったのかな。と、とにかく、じゃあねー」
そう言い残して、レスティーはすぐに踵を返すと自分の席に戻っていった。そして、何事もなかったように友達と和気藹々とお喋りを始める。
俺はレスティーがどれ程の勇気を振り絞って、こんなことを言ったのか考えていた。
「この果報者が。どうしてお前ばっかり女の子と縁があるんだろうな。ま、何となく分かってしまうところが俺としても悔しいんだが」
ミックは自嘲するように笑うと、俺の首に手を回した。
☆
昼休みになると、弁当を食べ終えて手持ちぶさただった俺は部室へと向かう。ちなみに、レファナートは図書室で本を読むと言っていた。
俺が意外と読書家なんだなと言ったら、レファナートは俺の頭をコツンと叩いたが。
まあ、あいつだって小さな子供じゃないんだし、四六時中、俺が一緒に付いていることもないだろう。
それにこのままこの世界にいれば、レファナートも何か得るものはあるかもしれない。イギリスにだって、アグナスティア王国に負けないくらい良いところはたくさんあるからな。
そこら辺は、是非とも分かって貰いたい。
そして、もしイギリスのことを学んで、それに理解を示してくれたら、少しはレファナートのみんなに対する態度も軟化するかもしれない。
都合の良い期待をかけているのは理解しているが。
昨日は部室に顔を出さなかったので、俺は少しだけ気まずいものを感じながら部室の扉を開けた。
「よっ、テッド。そんなに浮かない顔をしてどうした?昨日は部室に来なかったが、ひょっとして、あれから何か悪いことで起こったか?」
部長は机でパンをもぐもぐと食べながら言った。
そのいつもと何ら変わらない様子を見る限りでは、部長が何かに気付いたわけではなさそうだ。
「そんなところですよ。ま、部長にとっては取るに足らないことだと思いますけどね」
俺はほっとしたように部室に入ると、長机の上にあるティーポットを手にする。何だか無性に紅茶が飲みたい。
「例えそうであっても、包み隠さず話して貰おうか。正直、色々と調べてはみたが、この魔方陣のことについては分からないことだらけなんだ。だから、この際、どんな些細なことでも良いから知っておきたい」
部長の熱意は伝わってくるが、今の段階じゃ、俺の身に起きていることは話せないよな。
「あいにくと、俺が言ったのは魔方陣のこととは関係ありませんよ。なんて言うか人間関係的なものですし」
思い悩んでいるのはレファナートのことなので、魔方陣と全く関係ないとは言えないが。
「そうか。それでも、遠慮せずに話すが良い。相談には乗ってやるぞ。ただし、色恋の話なら力にはなれんからな。自分で言うのも何だが、俺はそういうことには疎いし」
部長に色恋の話をするほど、俺も耄碌していない。
「なら、止めておきます。何か恥を晒すようで嫌ですし、たぶん今の部長には、雲の上の話だと思いますから」
「水臭いな。まあ、そこがお前らしいし、気が向いたら話してくれ。話すことで楽になれることもあるだろうからな」
部長は白い綺麗な歯を見せて笑った。
「はい」
部長に異世界のことを話す時には全てのケリが付いていると思いたい。
「それはそうと、聞いた話ではお前のクラスにとんでもない美少女が転校してきたと言うではないか。学校中で噂になっているぞ」
「そうなんですか?」
レファナートはあっという間に有名人になってしまったらしいな。まあ、あの常人ばなれした美しい容姿じゃそれも仕方がないか。
「ああ。俺も携帯で取った転校生の写真はある筋の人間から見せて貰ったが、確かに美しかった。上級生である俺たちのクラスの男子まで、色めき立つのも無理はない。だが、俺は気に食わん」
部長は険阻とも言える顔で言った。
「どうしてですか?その転校生は色々と性格に問題はありますけど超が着くほどの美少女なんですよ。いくら部長が女の子に興味がなくても少しは心を動かされるはずじゃ」
部長がろくに話しもせずに人を毛嫌いするなんて珍しいな。いつもなら、最低限、分かり合おうとする努力は必要だとか言うのに。
「確かに心は動かされた。たぶん、お前が言っているのとは別の意味でな」
部長は虚空を見詰めるように言うと言葉を続ける。
「それに気に食わないというのはただのフィーリングだ。どうにもあの透徹したような眼差しから、きな臭いものを感じるんだよ。何というか殺気だっているようにも見えるからな。だから、お前もあの転校生には気を付けた方が良いぞ」
きな臭いとは、相変わらず部長は良い読みをしている。だとすると、部長とレファナートを引き合わせるのは危険かもしれない。
「分かってますよ。ところで部長はイビルナートっていう邪神は知ってますか?羽の生えた蛇みたいな奴なんですけど」
俺は何とはなしに、そんな話を投げかけていた。
「知らん。ゲームに出てくるボスキャラか何か?」
「そんなようなものです。でも、世界中の神話を読み漁った部長でも知らないんなら、俺にその正体が掴めるわけがありませんね」
博識な部長に分からないことが、俺に分かるわけがない。
「かもしれないが、もう少し情報が欲しいな。そのイビルナートとやらは何か言っていなかったのか?」
「言ってました。七つのラッパが吹き鳴らされる時に世界を混沌に陥れる者だって。一体、どういう意味ですかね?」
あの勿体ぶったような言葉は俺も気になっていたのだ。
「それなら簡単だな。七つのラッパって言うのはヨハネの黙示録に書かれている言葉だよ。そんでもって混沌に陥れる者というのは、おそらくサタ・・・」
途中まで言いかけて、部長は「む、携帯が鳴っているな」と言って、無造作にポケットに手を突っ込む。
それから、携帯を取り出すと、それを耳に当てて何やら話を始めた。
「何だったんですか?」
部長が耳から携帯を放すと俺はそう尋ねた。
「生徒会にいる俺の友達からだ。何か目が回りそうなくらい仕事が大変だから手伝って欲しいとか言ってきやがったんだよ。ったく、こっちはまだ昼飯も食い終わってないのにタイミングが悪いな」
部長は交友関係も広いし、色々なところに人脈を持っている。なので、見返り付きで、人から助けを求められることも多いのだ。
「それで手伝いに行くんですか?」
「まあな。あいつには借りもあるし、今後のことを考えるとここらで恩を売っておいた方が良さそうだ。話を途中で切り上げるようで悪いんだが、そういうわけだから俺はちょっと行ってくる」
部長はがしがしと雲脂でも落とすように頭を掻くと食べかけのパンを口の中に放り込んだ。
紙パックのコーヒー牛乳もストローで一気に吸い上げる。
「頑張ってください。そんでもって、もう少し部費が増えるように生徒会には働きかけてくださいよ。やっぱり電子レンジは欲しいと思っていたところですから」
俺は話を中断されたことは気にせずに言った。
「おう」
部長は端正な顔で笑うと、そそくさと部室から出て行ってしまった。