第二章:待ち伏せの街
2.1 不安の増大と不意の停止
再びカラスの首を絞めるような甲高い不協和音の鳴き声が聞こえた。今度は斉藤が田口に言った。「分隊長、半分ほどきましたが、ここらへんで左右の家をチェックしたほうがいいのでは、発砲してこないということがここに敵がいないという証にはなりませんよ。」
「必要ない」田口は短く言い放った。実際、セオリーでは左右の家をクリアリングしながら進出していくのが常套手段だった。だが今回の任務はそれが別働隊が行う。我々はこの街に展開している兵力を測定する、いわゆるおとりがその任務だった。複数のタンクを前面にして重装備で駆逐していく必要のある火力がこの街に配備されているかどうかそれさえ分かれば司令部はよかった。我々はそのための敵の鼻面にぶら下げる餌だった。
3分隊は前後に距離を置きながら、2列縦隊で中央通りを前進していった。深見の胸には、言い知れぬ不安が募っていた。この不自然な静けさ、そして先行するIFVの存在が、まるで自分たちを罠へと誘い込んでいるかのようだった。
その時、すぐ前をいくIFVがきしみ音をあげて急停車した。後続の分隊と3号車も合わせて停止する。田口がIFVの後ろの無線機を取る。「了解、すぐにチェックする」言い終わるとボックスに受話器をしまい、後ろを振り返った。「お前たちのご要望どおりだ。前方右側の建物の2階に銃身が見えたらしい、しかもRPGの弾頭の形状に似ているとのことだ。車長としては歩兵にチェックしてもらわない限りは、これ以上前進はできないそうだ。」
「それが正解です、分隊長、命令とはいえ、市街戦で左右の建物チェックをせずに奥深くまで進入するのは極めて危険です。一気に敵に囲まれ、十字砲火を浴びて全滅ということにもなりかねませんから」ベテランの兵士である斉藤の言うとおりだった。
我々がおとりにすぎないということは口が裂けても言えない。先頭をいくIFVにしても、本当に銃口が見えたのかどうか怪しい。彼らは自分たちが盾にされていることを知っている。RPGがないことを歩兵が確認しない限りはこれ以上は一歩も進めないというのは筋の通った理屈だった。鉄板に囲まれている安心感が一見してあるように見えるが、ペラペラのアルミ合金の板でしかない。つい先ほどの生々しい2号車の大破の状況が記憶に新しい。次は自分たちがああなるという切迫感は彼らにしかわからない。
「第2分隊は左、第3分隊は右、第1分隊は中央、それぞれに散開、建物の1階、2階をクリアリングしながら進撃する。」田口は進撃の速度がこれで大幅に落ちることを懸念した。だが仕方がない。これが実際常道手段だった。ここまでの進撃がある意味無謀だったのだ。包囲攻撃を受けなかっただけ幸運だったといえるだろう。本当にここにゲリラはいるのだろうか。彼はもしかしたらという期待を抱いた。そこがひとつの落とし穴だった。
2.2 室内突入と奇妙な静寂
戦闘のステージは、ネクストステージに入った。
室内は薄暗く、ひんやりとしていた。日差しが遮られるだけでこれほど涼しくなるものかと野間は驚いた。実際は緊張のため余計にそう体が感じているのだったが、首筋や背中に滲んだ汗が急速に引いていった。各自銃のグリップに装着したフラッシュライトを点灯させた。ライトを使わずに暗闇に目を慣れさせる方法もあったが、場合によっては外部での戦闘も同時に予測されたため、逆にぎらぎらと照りつける真昼の日差しに幻惑されないよう、視覚を暗順応させない状態で戦闘を継続することに分隊長の田口が決めたのだった。
各自の装備している銃は屋外戦闘用の通常の歩兵銃だった。銃身の短いカービンではないため取り回しに苦労した。ましてや彼は背中に対戦車用のパンツァーファウストと呼ばれる対戦車ロケット弾を背負っている。狭いドアをくぐる度に引っかからないように注意しなければならない。
「斉藤、ちゃんと後ろから援護してくれよ。俺を単なる盾がわりにするんじゃねえぞ」野間は後ろを振り返り、冗談めかしていった。
「近距離戦闘だ。相手がAK47をぶっぱなせば、いくら分厚いお前の胸板でも軽く貫通し、こっちも串刺しでおだぶつだ。心配するな。お前の方越しに撃ちまくってやるから、耳の鼓膜が破けねえ用に煙草のフィルターでも突っ込んでおくこったな」斉藤は笑いながらも、周囲に抜け目なく警戒の視線を配った。
「訓練で習った通りにするんだ。いずれは経験しなけりゃならない室内戦闘だ。米軍に頼りっきりじゃ情けねえ。」確かにその通りだった。市街戦ではもっぱら自衛隊は屋外戦闘担当、経験豊富な米軍が建物内部のチェックを担当した。これについては日米間での政府レベルでの申し合わせがあるようだが、現場ではお互いに不満の種になっていた。自衛隊でも特殊部隊レベルでは室内のクリアリング任務に多数出動しているが、一般部隊レベルでは公式には米軍の歩兵が担当していた。だが現場の指揮官の判断でいかようにもすることができた。「そろそろ俺たちの分隊もデビューのときだろう」最後尾の水島が気障っぽく言った。
「杉山、ちゃんと俺の後ろについてこいよ。心配するな。ちゃんと生きてまた基地に戻してやるから。」青ざめたままの杉山がただ頷くだけだった。やつは戦力にはならないと諦めていた。「水島、後方と右サイドの防御は任せるぞ」田口は最後尾の水島に後方の警戒と同時に、杉山の本来担当するサイドの防御も同時に任せた。
「了解、任せとけ、おい、水島俺の前でちょろちょろすんなよ、射界がふさがっちゃ撃ちようもないからな、俺が叫んだらすぐに地べたに這いつくばるんだ。お前はそれさえ守りゃいい。後は目をつぶらずによーく見ていろ。そうすりゃ次からはちっとは分隊の役に立つことができるようになる。いいな」水島の言葉にもやはり、杉山はうつろな怯えた目でただ頷くだけだった。
「野間、斉藤、ドアの左右で待機。俺が蹴破るからすかさず突入、部屋の両サイドに展開して一気に奥までクリアリングだ。正面からは俺が入る。いいな」
「了解」「了解」緊張した声が、だがはっきりと返ってきた。
誰もいない。そう思えたが。だがもしかして。すでに我々がこの部屋に飛び込もうとしていることを探知し、手ぐすね引いて待っているのかもしれない。いくつもの銃口がこのドアに向けられ、飛び込んだ途端、蜂の巣にされる運命が待ち受けているのかも。大丈夫、誰もいやしない。少なくとも最初の部屋には。田口は揺れる心の中、思いっきり右足でドアを蹴破った。木製のドアについていた真鍮製の鍵は簡単に弾け飛び、跳ねるようにドアが奥へと開いた。
「ゴーゴーゴー!」間髪を置かず田口が号令をかけた。野間と斉藤はしっかりと銃を肩の高さに構え、部屋の内部へと飛び込んだ。左端から入った野間はそのままドアの左側に壁沿いに滑るように進んだ。同じく斉藤は右側から進入し、そのまま部屋の右側の壁を背に部屋の中を移動した。銃身の下につけられたフラッシュライトが部屋の中を錯綜した。めまぐるしく動き回るその丸い光の輪は、舞台の幕が開いたにもかかわらず誰も登場しないステージの上を、主役を求めて動き回るスポットライトだった。
正面から突入した田口が飛び込むと同時にドア脇で片膝撃ちの姿勢をとり、部屋全体を射撃の視野に入れた。戦法的には「ボタンフック」と呼ばれる標準手順の変形版だった。ドアの左右で待機していた兵士が、そのまま同じ壁側を背にして内部へと進入していく方法だった。ただ田口の進入方法だけは例外だった。正面に体を呈することは極めて危険だとされていた。待ち伏せされた場合はほぼ間違いなく被弾し、死傷する。敵の絶好の射界であるドア正面では絶対に制止しないことが鉄則だった。だが、田口は分隊の指揮官として、自分の目でこの部屋全体を視野に入れておきたかった。彼は身をかがめながらもドア正面で支援射撃体勢を取った。ほんの数秒の出来事だった。
「クリアリング!」部屋の奥から野間の声が聞こえた。「クリアリング!」続けて斉藤の声がした。田口は早鐘のようになる心臓の鼓動が次第に収まっていくのを胸の内に感じた。「OK」次の部屋だ。
2.3 破られた静寂と絶望的な反撃
次第に緊張感は薄まってきた。10部屋目を捜索するときには、すでに体が機械的に動いていた。誰もいないだろうとは頭では思ってはいなかったが、心のどこかで慣れが生じていたのかもしれない。「この街には誰もいないんじゃないか」水島が呟いた。「そうだな、人っ子一人いねえな」斉藤がそれに答えた。
11件目の部屋の捜索が完了した。次がこの建物の棟の最後の部屋だった。「さっさとかたづけようぜ」野間はそう言いながら最後の部屋の前に移動した。「俺たちだけが一人芝居をしているんじゃないか。誰もいない街で。情報部はまたいいかげんな情報を送ってきやがったじゃねえか。まあ、敵がいるのに、安全だという情報よりはましだな」すでに野間は緊張の糸が切れているのがありありと伺えた。
「まだ安心はできん。米軍側と街の中央で会合するまでは油断するな。」田口は部下に向かってそう言いながらも、やはりこの街には誰もいないじゃないかという思いにとらわれつつあった。野間はドア口のすぐ横で壁を背にもたれかかった。
「暇でしょうがねえや。一本吸わせてもらうぜ」彼はそう言うと胸ポケットからマルボロを1本取り出し、尻のポケットから取り出したオイルライターで火をつけた。肺一杯に吸い込まれたニコチンたっぷりの煙は、彼の緩みかけていた神経系の最後のタガを外した。不覚な行動だった。
野間は知らぬ間にドアの前に立っていた。後ろが石の壁だとばかり思い込んでいた彼は、思い切り体を後ろへと倒した。**バタン!**という音が周囲に響き渡った。誰もがその方に振り向いた。田口の凍り付いた表情が皆の視界に浮かび上がった。彼は慌てて体を持ち上げ、ドアの前から身をずらそうとしたその時、ものすごい音響が建物内を震わせた。同時に野間の後ろの木のドアが木片を四方に飛散させながら弾け飛んでいった。野間は凍り付いたその顔に苦悶の表情を浮かべ、スローモーションのように床へと倒れ込んでいった。
誰もがその銃声と同時にその場に伏せた。銃声は続いた。床に倒れ伏した野間の腹の下から、どす黒い液体がみるみるうちに乾いた土の上に広がっていく。げぼげぼという音を立てて肺が鳴っている。彼は声にならない声でこちらに向かってなにかを言おうとしているようだった。
「しゃべるんじゃない!」田口が叫んだ。「斉藤、支援しろ!」田口はそう言うと、銃声の鳴り響くドア口に、地べたに這いつくばったままにじり寄っていった。ドアを貫通し、向かいの石の壁に当たった弾丸は再び跳ね返り、廊下沿いを跳ね回った。ビュンビュンという跳弾の音が耳元で鳴る。彼は胸のリングから手榴弾を2発むしり取ると、前に置いた。銃声がやんだ。カートリッジの交換をしているのか。
彼は続けてピンを引き抜いた。スリーカウントと同時に一発は高く、もう1発は低く部屋の中に投げ込んだ。「伏せろ!」大声を張り上げると同時に田口もヘルメットを片手で押さえ、顔を地面に擦りつけるようにして頭を下げた。
「ドーン!ドーン!」耳を聾するような轟音とともに、ドアから白煙が噴き上がった。
「ゴーゴーゴー!」田口は叫びながら、立ち上がり白煙がまだ舞う部屋の中に突入した。すぐに目に入ってきたのは土嚢を積んだ上に置かれた機関銃だった。7.6ミリ弾の見慣れた重機関銃だった。敵に西側の兵器が流れている。今まで見てきた敵側から捕獲した銃の多くは東側のものだったが、初めて見る西側の兵器だった。土嚢上で二人の民兵が体中から血を流して息絶えていた。
田口はすぐに何かおかしいことに気づいた。すぐには分からなかったが、その機関銃座に再度目を移したとき、それが何か分かった。だが、すでにその時は遅かった。機関銃座のすぐ目の前の窓の外で爆発が起きた。窓枠は吹き飛び、室内に飛び散った。田口は爆風で引き飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられた。
耳ががんがんと鳴った。かすむ目の前になにかが映った。人の目だった。見開かれたまま、ピクリとも動かない眼球がそこにあった。呻き声をあげながら反対側を振り向くと、そこにぽっかりと眼窩が開いた人の顔があった。彼は絶叫しながら立ち上がりドアの外に出ようとして何かにつまずいた。地面についた手が生暖かいものに触れた。ぶよぶよとしたそれは、人の内臓だった。すぐ横に、苦悶の表情を張りつかせたまま絶命した野間の顔があった。
「分隊長、分隊長しっかりしてください!敵が中央通路から発砲してきています。第3分隊は壊滅状態です。どうしますか。指示してください。隊長!」
痺れるような頭の芯が次第にはっきりしてきた。手榴弾を投げ込んだ直後の記憶が蘇ってきた。何かおかしいと気がついたのは銃座の方向だった。土嚢は窓際に積み上げられ、銃座そのものは部屋の内部から外の中央通りに向かって設置されていた。つまり、奴らが予定していた相手は、外の道を街の中央広場に向かって進行してくる敵だったのだ。ということは、ほかにも待ち伏せ部隊が配置されているということだった。そのことに気づいた時はすでに遅かった。おそらく外を進んでいた第3分隊は、待ち伏せの敵の十字砲火を浴びたに違いない。全滅に近い状況になっているだろう。
「野間と杉山がやられました」。やっぱりそうかと田口は思った。「即死か?」田口は死亡かどうかの確認をしたつもりだったが、斉藤はそうはとらなかった。「野間は最後まで呻きました。でもどうしようもないほどの銃創でした。2度目の爆発の衝撃で息絶えました。杉山は即死です。いずれ死ぬ運命にあったでしょう。野間よりも杉山の方が楽に死ねて良かったと考えるべきでしょう」
「敵討ちだ」斉藤は誰に言うでもなく低く呻いた。「とにかく向かいの第二分隊と連絡をとり連携を図ることです」水島がもっともなことを言った。冷静さにおいては彼はピカイチだった。クリスチャンである彼は死を基本的に恐れていない。
「生き残ったものだけでやる」。依然として外では激しい銃声と爆発音が鳴り響いていた。「銃声等からして、一個小隊規模はあります。それにRPGだけじゃない。窓の外で爆発したのは80ミリの迫撃砲です。」水島は、残りの分隊だけで対応できる敵兵力ではないと訴えた。だが、斉藤は執拗に反撃を具申した。彼は野間とは親友だった。敵を討ちたいという気持ちが冷静さを失わせていた。
「水島の言うとおりだ。第3分隊と合流したとしてもわずか10名足らずだ。とてもその兵力では無理だ。」
「撤退するんですか」斉藤が抗議するような強い口調で言った。「いや撤退はしない。米軍との合流を図る。彼らもすぐそばまで来ているはずだ。」
水島はリップマイクで第二分隊を呼び出している。「フォクスロット1からフォクスロット2へ、聞こえますか、フォクスロット1からフォクスロット2へ聞こえますか」。繰り返し何度も何度も呼び続けた。田口は肩に装着していた無線機本体を取り外し、そばに置いた。
彼は個人装備用の小型トランシーバーのアンテナを一杯に伸ばし、赤いダイヤルを回した。緊急周波数帯だった。「こちらサザンクロス、こちらサザンクロス、敵の集中砲火を浴びています。至急ヘリの支援をお願いします」彼は何度も無線機で呼びかけた。司令部には届かないが、前方に展開している米軍には届くはずだった。
4度目の呼び出しをかけたときだった。「サザンクロス、こちらフォクスロット、状況を報告してくれ」。共同作戦中の米軍部隊だった。「フォクスロット、こちらサザンクロス、街の第5ブロック西の建物内にて十字砲火を浴び、3個分隊のうち1個分隊全滅、残り1個分隊とは連絡がとれず。前方および東側の建物内より重機関銃、RPG、迫撃砲弾により攻撃を受けている。ヘリによる上空支援を請う。」
「サザンクロス、こちらフォクスロット、了解。こちらは街の中心部から北に2キロの地点。銃声と黒煙を視認、米軍司令部にヘリの支援を要求する。こちらも分隊を二手に分け、街の東と西から攻撃態勢に入る。」
「了解、それまでなんとか持ちこたえる。以上」
「幸運を祈る」それっきり、ぷつんと無線は切れた。米軍の地上部隊の支援よりもヘリのほうがおそらく早いだろうと彼は踏んだ。ブラックホークヘリが1機でも来てくれれば反撃に出ることができる。それまではここで防戦態勢を敷くべきか、外に撃って出るべきか、彼は迷った。
通りの状況も凄惨だった。田口の想像どおり、第3分隊は全滅だった。敵は正面と右側の建物から十字砲火を浴びせていた。特に正面からの火力は強力だった。50口径の重機関銃と迫撃砲弾が雨あられのように降っていた。窓の隙間からIFVが横転しているのが見えた。正面からRPGの直撃を受けた上、50口径弾の集中砲火を浴び、蜂の巣にされている。ハッチは開き、中から炎がめらめらと上がっている。乗員は脱出する暇もなかっただろう。つい先ほどの対戦車地雷の被弾の光景が目に浮かんだ。今はこのままこの鉄の箱の中で火葬にされ、灰になっていくに任せるしかない。棺と化したIFVを横目に、田口は現在の状況を頭の中で再確認した。