恋に『落ちる』
すたこらさっ。
さっさっさっ。
翠狸は脇目もふらず、一目散に。
あっという間に、街で一等高い塔に駆けあがっていきました。
「絶景かな、絶景かな!」
そうして、塔のてっぺんの近く。
手ごろな棒に腰かけて、おでこに手をあてて吹きすさぶ風を遮り、そのちいさな足をぷらぷら揺らしながら、眼下の景色を得意げに眺めています。
「とうっ」
かと思えば、次には。
なんと、飛び降りてしまったではありませんか!
でも、大丈夫。
そのぽっこりお腹には、いつの間にやら、太いゴム紐がしっかりと結び付けられていましたから。
びよ、びよ、びよよよよん。
いわゆる、バンジージャンプというやつでしょう。
一定の間隔で、落下と浮上を繰り返し。
やがてそれも収まり、最後には、翠狸は吊り下げられたまま、くるくるまわっています。
「わははははっ! はー、楽しかったなあ。
でも……どうしよっかなあ」
紐の長さは、地面や塔の壁に頭をぶつけないように、中途半端な長さにしてあったものですから。
地面は遠く、塔の壁も遠い。そんな中途半端なところで、宙づりになってしまったのでした。
さすがは、筋金入りの阿呆だぬきです。
「左右に大きく揺らせば、壁まで届くかな?
ひっさつ! ブランコ式!」
必殺の使い方を間違えていますね。一体だれを殺る気でしょうか。
ああ――いや、間違えていなかったかもしれません。
「……ひょおおおおおお!?!?!?!?」
ブランコのように紐を揺らすことで、確かに壁には近づきつつあったのですが。
からだを捻るようにして揺すったために、なんと、しっかり結んだ紐から、ぽっこりお腹がするりと抜け出てしまったのです。
気づいたときには、真っ逆さま。
必殺、じぶん。といったところでしょうか。
ひゅるるるるん。
落ちてゆきます。
からだを平たくして、ハングライダーのように飛んでみましょうか。
いえ、ここは街中です。建物やヘリコプターや鳥など、ぶつかって破壊してしまわないとも限りません。
翠狸はあまり飛行はうまくないのです。カーブすらできません。
ひゅるるるるるるるん。
どんどん、落ちてゆきます。
からだをぷーっと膨らませて、風船のようになってみましょうか。
いえ、くどいようですがここは街中です。巨大化して地面にぶちあたり、ぽーんと弾んでどこかに激突してしまわないとも限りません。
いえ、弾むことすらできず、ずっしり鉄球のように落下してしまうやもしれません。
最近、おいもの食べ過ぎでまるまるしているのです。その重さたるや、かつての三十倍です。(※当社比)
怪獣があらわれたと勘違いされてはたまりませんので、却下です。
ひゅるるるるるるるるるるるん。
どんどんどんどん、落ちてゆきます。
地面はもう、すぐそこです。
「ふんぬっ」
くるくる、くるるん。
空中でからだを捻って三回、宙返り。
そうして足を下にして、華麗に着地しようとしたところに。
「……何してるの?」
赤いきものの、おきつねさんがおりまして。
翠狸は、その腕の中に、すっぽりと納まったのでした。
「検証そのいち。『落ちる』を体験してみたよ!」
曰く、恋に『落ちる』という表現があることから。
「そういえば、ぼく、ちゃんと落下というやつを体験したことってないなあって。
百聞は一見にしかず、っていうし、実際に落ちてみれば早いかな、って!」
危険も顧みず、というか大して考えもせず、バンジージャンプに挑んだというのです。
紅狐はとても心配したようで、翠狸の頬をぐにぐにと、変形するほど左右にぐいーっとひっぱり、無言の怒りをぶつけはじめました。
「いらひ、いらひふぉー!」
「どうしてそういう危ないことを、軽々しくやっちゃうかな……」
「あい、もうひまひぇん。ごへんははひ」
謝ったところで、許したのか紅狐は手を放してしまいました。
甘いです。この阿呆は、もう少し手厳しくしてやらないから、同じようなことを繰り返してしまうのですが……。
まあ、そんな事を言っても、詮のないことかもしれません。手厳しくしたところで、懲りないことも十分にありえます。
翠狸は、じんじんと痛む頬を両手で抑えながら、ぽろぽろと涙をこぼしています。
そんな様を見て、かわいそうに、そして少し申し訳なく思ったのでしょうか。
紅狐はぺろりと、労わるようにその頬を舐めてやりました。
「それで、何か分かった?」
一応は、検証という名目の行為だったものですから。
危険を冒した分、その成果はあったのでしょうか。
「わかった、かな?
んーとね、落ちる、といっても二種類あるんだ。『飛び下りる』と『不意に落ちる』の」
紅狐にやさしくしてもらって、泣いていたのもどこへやら、ご満悦になった翠狸は、ふんふんと鼻をうごかしながら、得意げに語り始めました。
「『飛び下りる』のは、この人を好きになる! って決めてかかるような、あるいは、恋をする!って決めて相手を探すような。最初の内は、浮き沈みも激しくて面白いけど、時間が経つと段々落ち着いていくんだ。
これは、『飛び下りる』、つまりは“恋をする”こと自体を楽しむことに通ずる、のかも。
一度収まった後には、新しい方向性を探す必要が出てくる」
どこかからチョークを取り出し、アスファルトに何やらよくわからない絵を描いてみせながら、翠狸は語り続けます。
「『不意に落ちる』のは、好きになるつもりなんて全然なかったのに、何かをきっかけに、あるいはいつの間にか、好きになってしまう、というような。
恋に“落ちる”という表現は、こちらの意味合いの方が強いかもしれないね!」
――ぼくの恋は、『不意に落ちる』方。
落ちた先には、大好きな相手がいて、すっぽりその腕の中に納まってしまう。
まさしく、そんな風に始まったのかもしれないなあ――
翠狸はそう思ったものの、なんとなく声に出してしまうのが面映ゆく、飲み込んだまま。
何も言わずに、ひょいっと紅狐に抱き着きついて、その想いを、大事に噛み締めたのでした。