不安
大学からの帰り道、駅に向かう道のりの川沿いを歩きながら、途中で少し広くスペースの空いている川原部分が目に入って、篠宮花月はそこに立ち寄った。そしてしゃがみ込んで、水切りをするのに丁度良い石を探す。昔、浩太に教えてもらったんだよね。確か、丸くて平たい、手頃な大きさの。重くても軽くてもダメって言ってたな。そんな風に、楠城浩太と一緒に川原で遊んだときのことを思い出しながら、花月は丁度良い感じの石を見付けて、昔教えてもらった通りに足を広げ腰を落とし、水面に平行になるようにスナップをきかせて思いっきり石を投げた。投げた石が、一つ二つと水面に波紋を広げ、ちょんちょんちょんちょちょちょと連続で水面を跳ねて行き、ドポンと沈む様子を眺め、花月はなんだか楽しい気持ちになった。これは自己最高記録な気がする。ここに浩太がいたら、花月ちゃん凄いって、やったねって、一緒に喜んでくれるかな。そんなことを考えると胸が暖かくなって、嬉しい気持ちがいっぱいに溢れてきて、花月は思わず顔がほころんだ。一緒にいなくても、浩太のことを考えるだけで楽しい。ここに一緒にいたらって考えるだけで、いつだってすぐ傍に彼を感じることができて嬉くなれる。でも、実際は居ないから、嬉しいことがあって、それを彼に伝えたくて横を見て、そこに彼が居ないって実感すると、なんか胸がぎゅっとして寂しい気持ちが溢れてくる。そんなことを思って、花月はしみじみ実際の彼の今に思いを馳せた。浩太。頑張ってるかな。今何してるんだろう。いつもメールでのやりとりばっかだけど。やっぱ声も聞きたいし、沢山話がしたい。でも、電話すると話が終わらなくなっちゃって。あまり長電話しちゃうとやっぱ色々あるから、電話はたまにだけって、特別なときだけにしようって、そう約束したから。だから、しょっちゅうはできない。できないけど、やっぱ声が聞きたいな。声が聞きたいだけじゃない。本当は会いたいと思う。昔みたいに、浩太と一緒にいたい。そう思うと感じた寂しいが余計大きくなって、胸が酷く苦しくなって、花月は前はこんなことなかったのにななんて思った。
浩太と一緒にずっと頑張ってきた。特に勉強は、本当にずっと一緒に頑張っていた。自分がまだ小学生で習う勉強をしていた頃から一緒に勉強を初めて、最初は浩太に勉強を教えてもらっていた。そのうち自分の方が勉強ができるようになって、自分が教えるようになって。一時はお互い同じような学力で、お互いに相談しながら一緒に考えながら勉強を進めていたこともあった。そして同じ大学に行こうと約束し、受験が終わるまでずっと二人で勉強をしていた。お互いに努力して、お互い学力もめきめき付けて。受験まで一年を残す所になった頃はまだ志望大学合格には絶望的と言われていた浩太も、模試で合格圏内を叩き出すことができるようになって。この調子でいけば本当に一緒に大学行けそうだねって、喜び合って。模試で良い結果出せたからって気を抜いちゃダメだって、本当に一緒に大学行くためにはここから頑張らないとって、浩太。わたしとの約束守るために本当に必死に頑張ってくれたんだよな。でも、結局、わたしだけ受かって、浩太はギリギリ落ちちゃって。浩太が浪人しないって言ったときは、一緒に大学行けないんだって思ってショックだったけど。でも、浩太は、勉強は苦手だからそれをムリして頑張るんじゃなくて、自分が楽しいと思えることを一生懸命やろうと思うって言って。一緒に同じ大学に行くっていう約束と一緒にしていたもう一つの約束、一緒にストリートパフォーマンスをやるっていうそっちの約束を、大学でじゃなくて、一緒にそれを生業にして世界中を飛び回ろうって、そんなもっと大きな夢と目標に変えて約束し直してくれた。そのために浩太は、一足先にイタリアで一ストリートパフォーマーから初めて、わたしが大学を卒業したらすぐにでも一緒に興行して回れるように土台作りを頑張るって言ってくれた。だからこれからも一緒に頑張っていこう。お互い違う場所にいてもずっと、一緒に頑張っていこうって、浩太は言ってくれた。そして、約束通り頑張ってくれてるって知ってる。お互いを励みに離れてたってずっと、同じ気持ちで頑張り続けてるって信じてる。だけど、なんで、最近凄く寂しくなるんだろう。なんかモヤモヤするんだろう。凄く、浩太に会いたい。前は、会えなくても全然平気だったのに。メールで近況報告をしあって、年に何回か遙が留学先のイタリアから帰って来るときに、向こうでの浩太の様子を教えてくれたり、浩太からのプレゼントを渡してくれて。それだけで、本当に幸せな気持ちになれたのに。なのに今は、凄く浩太に会いたい。傍にいて欲しい。浩太の声が聞きたい。ぎゅってして、もっと近くに感じたい。でも、そんなこと言ったら困らせるだけだもんな。浩太、向こうで頑張ってるのに、すぐ来れないの解ってるのに、そんなこと言ったら困らせちゃうもんな。そう思うと花月はなんだかやるせない感じがした。彼が来れないなら、自分が行けばいい。本当は、飛んで行こうと思えばすぐに彼のもとに行けるんだから。でも、そうしないのは、ちょっとした意地だと思う。わたしは血の繋がった兄のことも、父のことも、本当の家族だと思えないと、生まれた家のことを自分の家だと思えないと、だから、そんな実家のために、そんな人達のために、自分を偽って傀儡になりたくないと全ての縁を切り捨てた。だから、あの家から渡された手切れ金に手を付けたくないと思う。皆に諭されて、大学の入学資金や学費とかその他学生生活に必要なあれこれはそこから出しちゃってるけど。でも、なんでもかんでもアレに頼りたくない。自分で切り捨てておいて、切り捨てたモノから渡されたお金に都合良く頼りたくない。前にそう言ったら、湊人には案外花月は意地っ張りっすねって言われちゃったっけ。俺達にしたら大金でも、お前の生家からしたらそんなの端金で、くれてやるから関わるなって言われてるんすから、とっといてもしかたがないんだしそんなもん気にせず使っちゃうっすよ、なんて言ってたっけ。でも、なんか、嫌な感じがする。これってワガママなのかな?解らない。そんなことを考えて、花月は少し気が塞いだ。
浩太のことを考えると楽しい。浩太のことを思い出せばいつだって胸が暖かくなって、嬉しくて、幸せな気持ちになれて。今でもそれは変わらないのに。なのになんで。なんで最近、泣きたくなるんだろう。寂しくて、苦しくて。前よりずっと、浩太との想い出を辿ってる。より強く、より鮮明に彼を感じたくて、彼との想い出ばっか辿ってる。そして、少しの間だけ楽しくて、嬉しくて、幸せな気持ちになって。その気持ちが大きければ大きいほど、今彼が傍にいないってことが余計に凄く寂しくなる。浩太に会いたいって思う。今すぐ抱きしめて、好きだよって言って欲しい。そしてキスをして・・・。そんな思いがどんどん膨れてきて、花月は嫌だなと思った。ずっと、楽しいとか嬉しいだけ思っていられたら良いのに。少し寂しいを感じちゃうと、最近、それがどんどん膨れてきて、胸がぎゅーって締め付けられる。嫌だな。こんなの。そう思って、花月はまた水切りをする石を探した。モヤモヤしたときは楽しいことを思いっきりやって、ぱーっと忘れちゃうんだ。そう言って笑う浩太の顔が脳裏に浮かんで、花月は、楽しいことを思いっきりやって凄く楽しかった後に、急に凄く寂しくなるのはどうしたら良いの?このモヤモヤはどうやったらなくなるの?そんなことを考えながら、また思いっきり石を水面に投げつけた。
自分のスマートフォンがメッセージの着信を告げる音が聞こえて、花月は地面に置いていたリュックからスマートフォンを取り出して、柏木遙から届いたメッセージを確認した。
『浩太が浮気してたよ』
そんなメッセージと共に、浩太が知らない若い女性とハグしてキスをされている画像が目に入って、その瞬間、花月は胸が押しつぶされるような感覚がして、一瞬頭の中が真っ白になった。遙のことだから、どうせいたずらだって解ってる。浩太が本当に浮気してたら、こんな風に遙が写真を送ってくるはずなんかないって解ってる。浩太が浮気なんかするはずないって、解ってるはずなのに、花月は泣きそうになって、そして、
「待て!ジョン。止まれ!」
そんな男性の叫び声が聞こえて、声の方に振り向いて、花月は大きな犬に飛びつかれ押し倒されて川の中に落っこちた。男性の言葉にならない悲鳴が聞こえて、それとは対照的に嬉しそうに犬がじゃれついてきて。離れたかと思うと、一緒に遊ぼうよとでも言っているようにこっちをちらちら見ながら鬼ごっこでもしているような雰囲気で楽しそうに水の中をバシャバシャはしゃぎ回る犬を見て、花月は訳がわからないまま、とりあえず犬を追いかけていた。捕まえてリードを持ってその場に立ち尽くす。そして、まるで楽しかったねと言っているように自分を見上げてくる犬を見て、なんだか自分も楽しくなって花月は笑った。
「すみません。大丈夫ですか?って、篠宮さん?」
ようやくその場に追いついた男性が、ゼイゼイ息を切らせながらそう言うのを聞いて、花月は疑問符を浮かべた。
「えっと。誰ですか?」
相手は自分の事を知っている様子なのに、その男性が誰か思い出せなくて、花月はそうきき返した。どこかで会ったことがあるような気はする。どこかで、見たような気は・・・。
「あー。俺、佐々木昴です。同じ大学、同じ学部の同期。うちの大学学生数多いし、篠宮さんと違って、俺は目立つ方じゃないから解らないかもしれないけど。」
「あー。昴君。昴君だ。入学当初のオリエンテーションで一緒の班だったよね。あの時と髪型違うし、髪の毛の色も違うし、服装もなんか感じ違うからぱっと解らなかったや。このこ、昴君家の犬なの?凄く人懐っこいね。」
相手が誰だかようやく繋がって、花月は嬉しくなって、そう言いながら川原に上がって、昴にリードを渡した。そして、ありがとうございますと昴がどこか現実感のないような様子でぼうっとしながらそれを受け取って、そして、ハッとした顔をして、目が合った彼の顔が一気に赤くなる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当、ごめんなさい。大丈夫?ってか、大丈夫なわけないよね。ってか、篠宮さんびしょびしょ。それは、まずいって。本当、まずいから。どうしよう。とりあえず、俺の上着貸すから。俺が着てたのなんて嫌かも知れないけど、我慢して、とりあえずコレ着てて。本当、ごめん。」
テンパった様子でそんなことを言いながら昴が慌てて上着を脱いで渡してきて、花月は訳がわからなくて疑問符を浮かべた。
「えっと。その。透けてるし、目のやり場が・・・。」
そう昴がそっぽを向きながらぶつぶつ言ってきて、花月は改めて自分の状況を確認して、あー全身びしょびしょだと思った。そして、お礼を言いながらとりあえず上着を受け取って、なんで昴君は自分が着てたのなんて嫌かもしれないけどなんて言うんだろうと思いながら、それを羽織った。こういうところも、自分がおかしいと言われるところだって解ってる。でも、なにがおかしいのか、どうしておかしいのか解らない。だって、昴君は親切にしてくれてるだけなのに、それを嫌だとか思うわけないじゃん。なんで、親切にされることが嫌だって思うの?解らない。そんなことを考えて、花月はモヤモヤした。
なんでもかんでもなんでどうしてってきいちゃダメって言われたから、今は昔ほどなんでどうしてってきかなくなった。でも、解らないことが多すぎて、前よりずっとモヤモヤするようになった。きいてもハッキリした答えが返ってこないことも多くて、どうせわたしには解らない。そう思われている雰囲気を感じたり、自分自身そう思って、苦しくなった。頑張ったって、わたしはやっぱり皆と同じにはなれない。わたしは普通じゃない。普通にはなれない。そう思うと、どうしようもなく自分が独りぼっちな気がして、花月は辛くなった。アルバイトを始めた頃もそんなことを思って辛くなった時があった。それでもあの時は、サクラハイムに帰れば大丈夫だった。皆がいて、皆の中にいて、自分は独りじゃないって思えた。でも今は・・・。そう思って、花月は気が塞いだ。
大学に入って、前よりずっと勉強だけじゃ解らない色々が耳に入ってきて、前よりずっと訳が解らなくなった。そして、皆が当たり前に解ってることが自分には解らないって事が、怖くなった。以前はそういうことに悩むことはあっても、それが怖いと思うことはなかった。他の人とズレている、輪に入ることができていないと感じて、それを寂しいと思うことはあっても、怖いとは思わなかった。でも、今は怖い。人の目が怖い。普段人が自分に向けてくれている顔が必ずしも本当の顔ではないと知ってしまったから。普段、掛けてくれている言葉が必ずしも本心でないと知ってしまったから。そういえば昔、花月は素直すぎるって遙に言われたっけ。悪意がないことも解るけど、本気で言ってるって解るから腹が立つって。ここではいいけど、外で人と付き合ってくには素直すぎるのは仇になるよって。きっと、遙が言ってたのはこういうことなんだろうな、そう思う。今日、部活をサボってしまった。いつも通りに部室に行って、自分より先に来ていた同期の女子達が、自分の悪口を言っているのが聞こえてきて、中に入ることができなかった。苦しかった。辛かった。でも、どうすれば良いのか解らなかった。なんでそんなことを言われるのか解らなかった。何を言っているのか意味が解らなかった。でも、自分が良く思われていないことだけは凄く伝わってきて、それと、彼女たちが普段自分に見せている顔との違いに頭が追いつかなくて、怖くて。そして、その場から逃げ出してしまった。わたしは頑張らなきゃいけないのに。浩太との約束を守るために、わたしも頑張らなきゃいけないのに。なのに、わたしは今日、部活をサボった。そして、練習もせずに川原で遊んでいた。そう考えて、花月は胸がギューッと締め付けられるような思いがした。
「篠宮さん。とりあえず、俺の住んでるアパートそこだから。その、そのままじゃ、帰れないだろうし。とりあえず。うちに来ませんか?」
そうしどろもどろな昴の声が聞こえて、花月はうんと頷いた。
置いておいた荷物を持って昴の後を付いて行く。彼が、こいつはジョンっていって大家さん家の犬なんだとか、ムダにでかくて力強いから散歩行くの辛くなったって、大家さんに押しつけられたんだよねとか、一方的にひたすら話すのを聞きながら、花月はなんかこの感じ懐かしいなと思った。そしてそんな昴の様子が、まだ付き合い始める前の浩太と重なって、花月は少しだけくすぐったいような感じがして、そしてしみじみと浩太に会いたいなと思った。浩太がいれば、きっと、今のこんな気持ちも吹っ飛ばしてくれるのに。彼の明るい笑顔を思い出してそう思って、でも、浩太が頑張っているのに自分はサボってしまった事実を思い出して、花月は苦しくなった。浩太は、いつでもなんにでも一生懸命で全力で楽しむわたしが好きだって言ってた。だから、一生懸命できない自分を、今を楽しめない自分を彼に知られたくないと思う。でも、浩太はいつだってわたしが辛いとき、落ち込んでるとき、手を差し伸べて元気をくれた。だから、今だって浩太がいればきっと元気をくれると思う。でも、浩太と約束してるのに、その約束守らないでサボってる自分を知られたくない。今回は違う。今までとは違う。今、わたしは浩太との約束を果たすための努力から逃げてるんだ。浩太との夢を追いかける足を止めて、そこから逃げてるんだ。浩太に会いたい。でも、会いたくない。こんな自分を知られて、浩太にがっかりされたくない。約束を守るために必死に頑張ってくれて、それでもダメだった浩太とわたしは違う。わたしは、ダメになる前に自分から足を止めてるんだから。いやだ。浩太に嫌われたくない。そう思って、花月は泣きたくなった。
昴がジョンを電柱に繋いで、彼の部屋に案内されて。花月は促されるまま、おじゃましますとそこに足を踏み入れた。とりあえずコレでも着ててと衣類とタオルを渡されて、浴室に案内されて、じゃあ俺ジョンを大家さんとこ戻してくるからと昴が部屋を出て行って、花月は独り残された。とりあえずシャワーを借りて、渡された衣類に着替える。ぶかぶかで、すーすーしてなんか落ち着かない。とりあえずハーフパンツの紐を思いっきり絞って縛ってなんとか落ちないように固定して。花月はふと、こんなこと遙に知られたら怒られそうだなと思った。なんか、なんとなく付いてきて、部屋に上がっちゃって、シャワー借りて着替えも借りて。いくら知り合いとはいえ、昴君の事わたしよく知らないし。しかも、昴君は男の人だし。遙、男の人と個室に二人きりは危ないって。何かあったらどうするのって、よく言ってた。そう言っていつも、警戒心なさ過ぎ、俺は花月のこと心配してるだけだからねって言ってた。でも、こういう状況の時はどうするのが正解だったんだろう。解らない。そう思って、花月はモヤモヤした。そんなことを考えていると昴が戻ってきて、花月は顔を上げておかえりなさいと声を掛けた。そうすると昴が固まって、コレはヤバいとかなんとか呟いて、首をぶんぶん横に振って、なんかきょろきょろ視線を逸らしながらソワソワして。花月はそんな彼の姿にまた浩太の姿を重ねて、なんだか胸が暖かくなって微笑んだ。そうすると、昴が顔を押えて何かを呻いて、花月は疑問符を浮かべた。そして、昴がハッとした顔をして、いや、何でもない、何でもないから。今の忘れて。と焦ったように言ってきて。そして、俺、コインランドリーで速攻洗濯して乾かしてくるから、篠宮さんはなんか適当にダラダラしてて、そこら辺の漫画とか読んでて良いから、なんて言いながら洗濯物の入った籠を持って彼がまた部屋を出て行く様子を眺め、花月は、その様子もまた浩太にそっくりだななんて思って笑った。見た目も声も似てないけど、挙動がそっくりだと思う。
浩太もいつもこんなだったな。気付いたらわたしのことじーっと見てたりして、目が合うとなんか慌てて、焦りだして、変なことしてて、そういうの見てるのちょっと面白かった。あと、なんかぼうっとして固まっちゃったりとか。急に顔が真っ赤になって、突っ伏して動かなくなっちゃったりとか。そういうときに声を掛けると、お願いちょっとそっとしておいてなんていつも言ってたっけ。花月ちゃんは。本当、花月ちゃんはさ・・・。って、なんか恨めしそうに呻いてくるのに、何?ってきくと、ぎゅうって抱きしめてきて、なんか大きな溜め息付いて、マジかわいい、本当大好きなんて言ってきて。そういうときの浩太、いつも凄く熱かったな。なんか凄く熱くて、心臓がどくどくしてて、わたしもなんか恥ずかしくなってドキドキして凄く熱くなってた。ぎゅってされるのが当たり前になって、キスをするのも当たり前になって、そういうことに恥ずかしいとか緊張するとかあまりしなくなっていって。でも、そういうことをするのに嬉しいだけはずっと同じで、そうすることに凄く安心感を覚えていって。でも、凄く熱くなった浩太にぎゅうって強く抱きしめられて、呻くようにかわいいとか大好きとか言われたときは、なんか言葉が凄く熱く感じて、あれはなんか、凄く恥ずかしい感じがして、凄く緊張した。アレには全然慣れなくて、思い出すだけでもなんか凄く恥ずかしくなって緊張してくる。
そういえば一回だけ、まだ付き合い初めの頃に、凄く熱くなった浩太にぎゅうってされた後そっと押し倒されて、なんか浩太が変だった時があったんだよな。浩太、凄く鼻息が荒くて、浩太がいつもの浩太じゃない感じがして、なんかちょっと怖いって思っちゃった。でも、別に嫌ではなかった。変な感じはしたけど、でも、なんか、なんかよく解らないけど凄くドキドキしてバクバクして、ちょっと怖くて、でもなんかよく解らない高揚したような感じもして、訳がわからなくなりそうになって。それで、個室で浩太と二人きりになって、浩太の様子がいつもと違うというか、なんかおかしかったらコレを浩太に渡せって、健人から渡されてた紙袋のことを思い出して、浩太にそれを渡して。その中見た瞬間、浩太、わたしからばっと離れて、ごめん、なんの準備もなしにこんなことダメに決まってるよねって、言ってたんだよな。あの時、浩太。なんか、こういうことは受験終わってちゃんと約束果たしたらって決めてんだからとかなんとかかんとか、なんかぶつぶつ言って、頭ぐしゃぐしゃってしてあーって叫んで、部屋飛び出してっちゃったんだよな。あれはなんだったんだろう。健人から渡された紙袋も、後で浩太が、これは花月ちゃんには必要ない物だから俺が預かってても良いでしょうかとか、なんかよく解らないけど畏まった感じで言ってきて回収してって。その中身なんなの?ってきいたら、お願いだから掘り下げないでって言われちゃったし。健人も、浩太に渡せばあいつが解るって言って、それが何か教えてくれなかったし。結局袋の中身がなんだったのか解らなかったんだよな。結局、なんだったんだろう、アレ。そんなことを考えて、花月は皆がいた頃のサクラハイムに思いを馳せて、少し気分が上がった。
皆が揃ってた頃は楽しかったな。いつもワイワイ賑やかで、毎日が本当に楽しかった。でも今は・・・。そう思うと、花月は酷く寂しい気持ちがした。ずっと前に健人に、男の人と女の人はずっと同じように一緒にはいられないのかきいたことがあった。健人は、自分が切り離さなければ、皆とずっと同じように一緒には難しくても、誰かしらとは同じようにずっと一緒にいられるって言ってたっけ。その誰かしらに誰かなってくれるのかなと、花月はサクラハイムの住人達の顔を思い浮かべて考えた。わたしは、サクラハイムの皆とずっと一緒にいたかった。同じようにずっと皆でいたかった。でも、それはムリだから。ムリなのは解ってるから。でも、誰もその誰かしらになってくれないのは嫌だな。皆と離ればなれになるのは嫌だな。そんなことを考えながら、花月はそっと目を瞑った。
浩太の夢を見た。並んで座って、彼の肩にそっと自分の頭を預けてみる。そうして感じる彼の温もりに、大丈夫、独りじゃない、そう感じて花月は凄く安心した。
ふと目を覚まして、花月はいつの間にか寝ちゃってたんだと思った。そして、すぐ近くに昴の顔があるのを認識して驚いて、花月は思わず彼を突き飛ばしていた。そして、そのままの勢いで飛び起きて、そのままアパートを飛び出した。そして、暫く走り続けて、立ち止まって。肩で息をして。わたし、何してるんだろうと思った。心臓がバクバクする。訳がわからなくて、頭の中がごちゃごちゃする。荷物、置いてきちゃった。靴も。裸足のまま飛び出してきちゃった。何やってるんだろう、わたし。普通に考えて、昴君、起こしてくれようとしただけなのに、ビックリして突き飛ばして飛び出してきて。そう思うと罪悪感が湧いてくる。でも、今はもう戻りたくないと思って、花月はその場で立ちすくんでいた。
暫くそのままでいて、そして、花月は今日はこのまま帰ろうと思った。裸足で歩くの久しぶりだな。定期もお財布もリュックの中だから電車に乗れないけど、でも、だいたい方向は解るし、きっと帰れる。そんなことを考えて歩き出す。訳がわからなかった。ただ、自分のこの状態は、一臣に告白されたときに似てるなと思った。あの時、突然、一臣にキスをされて、訳がわからなくなった。よく知っているはずの彼が全然知らない人のように感じて、怖くなって、不安になって、ドキドキして、バクバクして、彼の顔が見れなくなって、彼にどう接すれば良いのか解らなくなって。そして・・・。その時の事を思い出して、花月は苦しくなって、気が付くと涙が溢れていた。訳がわからない。どうしたら良いんだろう。どうしたら。よく解らない感情が自分の中でぐるぐる渦巻いて、訳がわからなくて、意味が解らなくて、そして涙が止まらなくなって。花月はその涙をどうすることもできないまま歩き続けていた。
「カヅキ。」
そう誰かに呼ばれて、花月は立ち止まった。
「そんな格好で歩き回っていたら危ないぞ。」
そう言う声の方に視線を向けて、花月はお兄ちゃんと呟いて、そして更に涙が溢れ出ししゃくりあげた。
「こんなに泣きじゃくって。外の世界が辛くなったか?」
そう言ったそこに居た人物に優しく涙を拭われて、花月は少しホッとして、でも問われたことには答えなかった。辛くないと言えば嘘になる。でも、辛いと言えば・・・。そう思うと何も答えられなかった。
「だから言っただろ。生まれた時からずっと籠で飼われていた小鳥は、外の世界では生きていけない。だから俺は、小鳥が望まなくても小鳥を籠の中に連れ戻そうと思うのだと。でもお前は、籠の中に戻ることを拒み、外の世界を選んだ。その結果がコレだ。普通に生きるということはお前には難しいだろう。外で生きると言うことはお前には辛いだろう。だから戻っておいで。俺達のあの家に。霧島の家ではなく、昔、俺達が過ごしていた、篠ノ宮の御神木があるあの場所に。」
優しい声でそう言われ、花月にはそれがとても魅力的なことのような気がした。お婆ちゃんとお兄ちゃんと過ごしたあの家に、お兄ちゃんと一緒に帰る。それはとても心地が良いような気がした。でも花月は、それにうんとは言わなかった。ずっとお兄ちゃんだと思っていたこの人が、本当は自分のお兄ちゃんではなかったと知っている。一緒に暮らしていた二人が自分とは全く血のつながりのない赤の他人だったのだと今は知っている。そして自分が家族だと思っていたその人達が、本当は自分を家族だと思っていなかったのだと知っている。だから、うんとは言えなかった。自分が求めているものがそこにはないと解っているから。
「カヅキ。あそこに戻れば、お前はもうそんな煩わしい思いをしないで済むぞ。あそこに戻れば全ての煩わしさから解放され、平穏な日々を過ごすことができる。昔のようなへまはもうしない。もう二度と、誰にもお前の平穏を脅かさせない。あの場所は、書類上は今や俺のものだ。あそこにいればもう誰もお前に手出しできない。させない。お前も外の世界を充分満喫しただろ。辛くなったのなら戻っておいで。お前はただカヅキとして、あそこに在る。それだけでいい。それだけで・・・。」
優しく響く声で語りかけられたその言葉に、花月は、この人の中でわたしはやっぱり家族ではないんだなと思った。そう。わたしはカヅキ。この人が呼ぶそれが、自分の名前でないと解っている。それは、自分の母親の生家である、篠ノ宮家の当主を表す言葉。かつて篠ノ宮家が治めていた土地の者たちの信仰の対象。篠ノ宮家最後の一人となった母が霧島家に嫁いだことで名目上廃れてしまったその家との従属関係に、この人の祖母は縛られ続けた。そしてこの人も、今もまだそれに縛られている。この人はわたしをわたしとしては見ていない。わたしがお兄ちゃんと呼ぶこの人は、わたしを家族だとは思っていない。そのことを今は理解できてしまっているから、だから、居心地が良かったはずのあの場所に、今はもう戻りたいとは思わない。この誘いに乗ってこの人の手を取れば、二度とここには戻ってこれないと解るから。もう二度と大好きな皆に会えなくなると解るから。
「お兄ちゃん。わたしは、篠宮花月でいたい。他の誰でもなく、他の何者でもなく、ただの花月でいたい。わたしは、わたしでいたい。」
そう自分の意思を伝える。そうだ、わたしはわたしでいたい。わたしは、ただの篠宮花月という一人の人間でいたい。自分を示す言葉がカヅキということしか解らなかった頃、初めてできた友達に、つまりそれがお前の名前だろと言われ、これが自分の名前だと思い込んだ。そして、自分がカヅキという名だと思い込んでいた頃、音だけ聞くと男の子の名前みたいだからかわいい字をあてちゃおうと、自分の生まれた時のエピーソードを元に、今も自分が住んでいるサクラハイムの管理人をしているお姉ちゃんが花月と字をあててくれた。そして、サクラハイムで、そこで暮らす皆と過ごし、わたしは花月としての人生を積み重ねた。サクラハイムに来て初めて、わたしは人としてちゃんと人生を送り始めた。篠ノ宮の当主ではない。信仰の対象でもない。ただの花月。そのただの人にわたしはなりたくて。ただの人で在りたくて、自分の出生やそれに伴う柵を切り捨てそれらと決別した。だから、わたしはもう戻らない。わたしはわたしのままでいたい。生まれた家の傀儡にもなりたくないし、祀られ護られるだけの存在にも戻りたくない。わたしはもう、篠宮花月だから。それ以外の誰かではないから。それ以外の誰かにはなりたくないから。
「お兄ちゃん。ごめんね。お兄ちゃんがわたしのために頑張ってくれたって解ってる。わたしのこと大切にしてくれてるって解ってる。でも、お兄ちゃんが大切にしてるそのわたしは、ここに居るわたしじゃなくて、篠ノ宮の当主であるカヅキだから。わたしはそれにはなれない。それはわたしじゃない。わたしはやっぱりこのままただの篠宮花月でいたい。煩わしくていい。辛いことがあってもいい。苦しいことも、悲しいこともあっていい。わたしはここに居て、ここで生きていきたい。わたしはずっと、わたしでいたい。ずっと、わたしのままでいたい。だから、あの場所にも帰らない。」
そう言って花月はその人の目を真っ直ぐ見つめた。
「お兄ちゃん。今でもわたし、お兄ちゃんのこともお婆ちゃんのことも家族だと思ってる。それはわたしだけで、お兄ちゃんもお婆ちゃんもわたしのこと家族だと思ったことなんてなかったかもしれないけど。でも、それでもわたしにとって二人はかけがえのない家族だった。大切な家族だった。今でもわたしはそう思ってる。だから、お兄ちゃん。家とか役目とかそういうのなしにして、同じ人として一緒に過ごすことはできないのかな。同じ人として同じ場所で一緒に過ごせるなら、わたしはそれが一番良い。」
そう言うと、その人はどこか困ったような顔をして、お前は本当にワガママだなと呟いた。
「それはできないよ、カヅキ。お前が思っているよりずっと、信仰というのは根深い物なんだ。お前は覚えていないだろうが、俺はお前に選ばれた護手。俺の全てをお前に捧げ、人生を賭してお前を護る。たとえ、お前がそれを望まなくても。これが俺の生き方で、それが俺の生きる理由だから。」
そう言ってその人は優しく微笑んだ。
「カヅキ。篠ノ宮の姓が失われ、その土地が奪われようとも、お前がいる。それだけで信仰は続く。お前はお前がカヅキであるという宿命からは逃れられない。お前が望もうと望まなくとも、我々宮守の人間はお前を護り、お前が繋ぐ命を護っていく。お前がどれだけかつての自分の存在の意味を拒絶したとしても、それだけはずっと変わらない。変わることはない。だから、カヅキ。外の世界が辛くなったら、いつでも戻っておいで。いつだって我々は、お前の帰りを待っている。」
そう言われて、花月は寂しく思った。結局、お兄ちゃんはずっとこのまま、これからもずっと変わらないままなのか。お婆ちゃんもきっと。そう思うと、自分がこの世界でどうしようもなく独りぼっちな気がして、確かな繋がりなんてものを自分は何一つ持っていない気がして、花月は悲しくなった。そしてその人にそっと促され、花月は車に乗りこんだ。
スマートフォンの着信音が鳴り響き、花月はふと意識を取り戻した。そして、自分の手の中でけたたましい音をたて振動を続けているそれを咄嗟に持ち直して、慌てて電話に出た。
『花月。ようやく出たっすか。いったい今何時だと思ってるっすか?ってか、今、何処っすか?ったく、ずっと誰の電話にも出ないで。何かあったんじゃないかって、皆、心配してたっすよ。今、真田がバイクでお前の大学方面に探しに行ってるっすから、真田に連絡してあいつに乗せてもらって帰ってこい。』
そうスマートフォン越しに片岡湊人の声が聞こえてきて、花月は反射的にごめんなさいと呟いた。そして、今自分はどこに居るんだろうと思って、今自分がサクラハイムの目の前に立っていることに気が付いて、花月は、いったいいつの間に帰ってきたんだろうと心の中で首を傾げた。川原で遊んでたら遙からメッセージが着て、それ見てたらジョンに飛びつかれて川に落ちちゃって、昴君ちで着替えを借りて・・・。それから、どうしたんだっけ?思い出せない。花月は自分の状況がよく解らなくて、スマホ越しに聞こえてくる湊人の言葉に曖昧に返事をして、そのことをまた怒られて。とりあえず、言われるがまま、サクラハイムの中に入った。
「うわっ。お前、なんつー格好で帰ってきてるっすか?いったい何があったっすか?」
玄関に入るとすぐ、管理人の西口和実と一緒にそこまで出てきていた湊人にそう言われて、花月はえっとと説明をしようとし、何かを口に出す前に、とりあえず風呂入って着替えてこいと追いやられた。
自室に行き、言われた通りお風呂の支度をして、浴場に行って湯船に浸かる。湊人、怒ってたな。お姉ちゃんも、わたし見て驚いてたような顔してたけどホッとした様な顔してた。わたし、皆に心配掛けちゃったんだな。そんなことを考えて花月は、なんでそんなに心配掛けちゃったんだろうと思った。湊人、いったい今何時だと思ってるっすかって言ってたっけ。今何時なんだろう?昴君ちでわたし、結構寝ちゃってたのかな?誰の電話にも出ないでとも言ってたっけ。そんなに皆電話くれたのかな?全然気が付かなかった。そんなことを考えて、花月はなんでわたしスマホ持ってるんだろうと思った。荷物は全部昴君ちに置いてきてしまった。それにスマホはジョンに飛びつかれた時に自分と一緒に川の中に落ちてしまった気がする。それを拾った記憶がない。でも、わたしはスマホを持ってサクラハイムの前に立っていた。そういえば、昴君ちを裸足で飛び出したはずなのに、サンダルも履いていた。どうしてだろう?ここまでずっと誰かと一緒だった気がする。誰かと。誰だっけ。誰か・・・。そんなことを考えて、ぼーっとしてきて頭の中に靄がかかったような感覚がして、花月はどうでも良くなった。暖かい。お風呂の中は、凄くホッとする。なんか今日は嫌なことがあった気がする。なんか、辛いことが。それで、あと、なんかよく解らないことがあった気が。でも、もうどうでもいいや。そう思って、花月はゆっくり身体を温めて、少しスッキリした気分になった。
お風呂を出て食堂のドアを開けると、湊人が説教モードの顔で待ち構えていて、花月は食堂に入るのを躊躇した。すると、湊人が一つ溜め息を吐いて少し表情を和らげて、怒ってないから普通に入ってくるっすよと言ってきて、花月は躊躇いがちに食堂に足を踏み入れた。
「そんなにびくつかなくても、怒るつもりはないっすから。ほら。今、夕飯の支度するっすから。席に座って待ってるっすよ。真田も連絡したらすぐ戻るって言ってたっすから、あいつが帰ってきたらご飯にしような。」
そう湊人がいつもの優しい声音で席に着くように促してきて、花月はいつも自分が座っている席に着き、和実が差し出してくれたお茶をチビチビ飲んだ。そして壁掛け時計を見て、いつもの夕食の時間よりずっと遅い時間になっているのを確認して、皆まだご飯食べてないんだと思って申し訳ない気持ちになる。
「帰るの、遅くなってゴメンね。電話も出なくてごめんなさい。」
そう言うと、キッチンに立つ湊人が、ちゃんと帰ってきたから良いっすよと優しく笑いかけてくる。
「遙が珍しく本気であせたように連絡してきて、最初は連絡つかなくなったのなんてたまたまか、流石にお前も怒ってあいつのこと無視してるだけだと思ってたっすよ。でも、いつも帰ってくる時間になっても帰ってこないし、いつもなら遅くなるならちゃんと連絡してくるのに連絡もなければ、俺達からの連絡も無視するし。お前があいつの悪戯本気にして、ショック受けてなんかなってんじゃないかって、焦ったっすよ。本当、いくら色々あったって電話にはでるっすよ。マジで、心配したっすから。」
「ごめんなさい。」
「もういいっすよ。お前が悪いんじゃないってことは解ってるし。本当はもっと色々言いたいっすけど、今日は良いっすよ。元を辿れば遙が悪いんすから。だから、お前には怒ってないっすけど。でも・・・。」
キッチンで調理をしながら湊人がそんなことを言い続け、花月は罪悪感で気が塞いだ。そして和実が、まぁまぁ片岡君、その辺にしておきなよとやんわりと止める。
「もういいって言っときながら、怒ってないだけで小言が続いてるよ。花月ちゃんがわざと心配掛けるようなことしたわけじゃないって解ってるんだからさ。何かはあったっぽいけど、無事だったんだし。こうしてちゃんと帰ってきたんだし、ね。ご飯にしよう、ご飯。真田君ももう帰ってくるでしょ。皆でぱっと配膳しちゃおう。」
そう言いながら和実が湊人の手伝いに入って、花月も席を立った。
「お姉ちゃんも、心配掛けてごめんなさい。」
食器を出したりしながらそう言うと、和実に優しく、いいよ気にしなくてと言われて、花月はなんかモヤモヤした。
「花月ちゃんは純粋だから、浩太君が浮気するかもなんて想像すらしたことなかったんでしょ?それに、花月ちゃん自身、遠距離でずっと会えなくても浩太君一筋で、ずっと浩太君の事だけ特別に想ってきたんだもんね。そこに急にあんなこと。しかも画像付きで送られてきたらね。そりゃ、ショック受けるのも当たり前というか。何もしたくなくなってもしかたがないというか。なんていうか・・・。」
「そうっすよ。ったく、遙の奴。悪戯でもして良いことと悪いことがあるっす。質の悪い遊びしやがって。あいつ、お前に謝るのにできるだけ早い便でこっち戻ってくるって言ってたっすけど、帰ってきたらとっちめてやるっすから。」
そう言う二人の話しを聞いて、花月は遙のこと怒らないでと呟いた。
「わたし、あのメッセージが遙の悪戯だって解ってたよ。アレ見ても、浩太が浮気したなんて最初から信じてないし。なんていうか、びっくり?はしたけど。でも、騙されてない。それがショックで帰ってこなかったわけでも、電話でなかった訳でもないから。だから、遙は悪くないから。だから、遙のこと怒らないで。」
「はぁ?じゃあ、なんでお前、音信不通になって帰ってこなかったっすか?」
「えっと、大学から帰る途中、散歩中に逃げ出した大きなワンちゃんに飛びつかれて川に落ちちゃってビショビショになっちゃって。犬の散歩してたのが同じ大学の人で。それで、その人の住んでるところに行って、着替え借りて。その人がわたしの服コインランドリーに持ってってくれてる間に、わたしちょっと昼寝しちゃって。それで、目が覚めて、スマホ落としてたの気が付いて。まだその人が帰ってきてなかったけどつっかけ借りて、川原に探しに行って。スマホ見付けたら、遅くなってて。それで、早く帰らないとって慌てちゃって。そのままスマホの電子マネー使って帰って来ちゃって・・・。」
そんな説明をして、花月はあれ?こんなだったけ?と思った。なんか自然とこんな説明が出てきたけど、こうだったっけ?なんか違った気がする。でも、そうだったような気も。あれ?いや、そうだ。そうだった。あー。昴君に何も言わないで帰って来ちゃった。昴君ちに荷物置きっ放しだし。どうしよう。昴君の連絡先知ってたかな?オリエンテーションの時に連絡先交換してたっけ?連絡先解らなかったら、明日大学行ったら謝ろう。そう思う。
「なんだ。お前が音信不通だったのそういう理由だったっすか。話し聞くと、凄くお前っぽい。遙がガラにもなくあまりにも焦ってたから、それにつられてこっちも不安になったっすけど。心配して損したっす。今、めちゃくちゃ気が抜けたっすよ。そういうときは、電話借りて連絡入れるっすよ。皆の番号解らなくても、ネットで引けば俺達の職場の番号なら解るっしょ。香坂さんは授業中だと連絡つかないかもしれないけど、俺と真田は比較的仕事中も連絡つきやすいし、連絡さえくれれば自分達が動けなくても管理人さんに連絡して、迎えに行ってもらえるっすから。俺の職場は営業時間過ぎたら留守電になっちゃうっすけど、真田んとこは、北村さんの自宅と兼用だから、北村さんから真田に連絡入れてもらえば何とかなるっすよ。」
「うん。今度からなにかあったらそうする。」
夕食の支度を進めながらそんな話しをしているうちに真田一臣も帰ってきて、そして、四人で遅い夕食を囲んだ。
黙々と夕食を食べながら、花月は物寂しさを感じていた。前はもっと賑やかだった。遙がいて、浩太がいて。健人も、祐二も、耀介もいた。光は、今も一緒に暮らしてるけど、お仕事が忙しくて、ご飯を一緒に食べられないことの方が多い。残業が多くて、夕食は基本一緒に食べれない。一緒に暮らしているのに、外泊している訳でもないのに、顔を合わせない日もある。湊人も、お店を開ける時間があるから、朝は誰よりも先にここを出て、お休みの日以外は朝ご飯を一緒に食べれない。夕食も一緒じゃないときが多くなった。前はそんなことはなかった。皆が学生だった頃は。社会人の皆は、学生だった頃よりずっと生活時間がバラバラになって、時間が合わなくなることが多くなって。仕事の都合で健人はサクラハイムを出て行った。遙はイタリアに留学して。浩太もイタリアでお仕事してて。祐二も通っている大学の語学留学制度を利用して今は海外だし。耀介も、専門学校の現場実習で暫くいない。懐かしいな、皆でワイワイご飯食べてたの。またあんな風に皆でご飯食べたいな。もうあんな風にみんなでご飯食べるのはムリなのかな。あの頃に戻りたい。毎日が楽しかった、怖い物なんて何もなかった、皆といれば大丈夫だった、あの頃に戻りたい。そう思って、花月は酷く心が塞いだ。
「大丈夫か?ほら、デザート。お前好きだろ?クレームブリュレ。浩太の浮気、遙の悪戯でよかったじゃねーか。嫌な思いはしただろうけど、好きなもん食って嫌な気持ちなんて忘れちまえ。」
そう一臣の声がして、目の前にクレームブリュレののったお皿が置かれ、花月はありがとうと呟いた。湊人が、こいつが帰ってこなかったのも音信不通になってたのもそれが理由じゃなかったっすよと一臣に説明しているのを耳にしながら、花月はデザートを口にして、おいしいと口元が綻んだ。
「なんだ。じゃあ、お前が静かなのは、皆に心配掛けたって反省してるからか?それともなんかあったか?」
そう一臣に水を向けられて、花月はそういうわけじゃないけどと答えた。そう。そういうわけじゃないと思う。たぶん。そういうわけじゃないと思う。でも、凄く気が塞ぐ。なんか凄く・・・。
「寂しい。なんか。凄く。皆いなくなっちゃって。ここも来年になったらなくなっちゃうし。こうして一緒に入れられるのもあとちょっとで。皆バラバラになっちゃって。そしたら・・・。」
そう口に出して、花月の中で寂しいがとても大きく膨らんで、そして、泣きたくなった。そう。皆とこうしていられるのもあと少し。来年の今頃にはここを出て行かなくてはいけなくなる。今だって、同じ所に住んでたって、皆との関係性は変わってしまったように感じる。いつつだって帰ってくれば皆がいて楽しかったあの時間はもう戻らない。そう思う。そして、ここがなくなってしまえば、そのまま皆と離ればなれになって、もう会えなくなってしまうかもしれない。だって、現に健人はいなくなっちゃった。テレビに出て、ここにもファンの人が来るようになっちゃって、迷惑がかかるからってセキュリティーレベルの高いマンションに引っ越して。前は毎朝一緒にランニングしてたのに、今は一人で走ってる。お芝居のこと以外はあまり話さない健人だけど、話掛ければいつだって応えてくれて、なんでも簡潔に答えてくれて、頼もしかった。ランニングをしながら、ちょこちょこ健人に話しを聞いてもらってた。お互いに簡潔で簡単な言葉の応酬。でもそれだけで、いつだって気持ちがちょっとスッキリした。だけど、今は話したくても話せない。顔を上げても話し掛ける背中は視線の先のどこにもいない。健人は、芝居に必要な体力をつけるために毎朝ランニングをしてるって言ってた。じゃあ、わたしはなんのためにランニングをしてるんだろう。続けてるんだろう。解らない。ただ、今は毎朝一人で走っているのが寂しい。でもその日課を、今もずっと続けている。受験が終わって、大学生になって、光に勉強を見てもらうこともなくなった。一緒に勉強を続けてきた浩太も今はいなくて、それでもわたしは、今も自分の部屋じゃなくて食堂で課題をやっている事が多い。目の前にいる誰かがいなくなって、隣にいる誰かがいなくなって、それでもずっとわたしは同じ事を繰り返している。同じように過ごしている。サクラハイムにきてからの自分の当たり前が、どんどん当たり前じゃなくなっていく。当たり前だった日常がどんどん崩れていく。なのに、わたしだけ。わたしだけ変わらずここに取り残されて。凄く寂しい。皆は寂しくないのかな。ここがなくなっても、一緒にいられなくなっても。皆は平気なのかな。皆は、わたしと違って他に帰る場所があるから。他にちゃんとした家族がいて、わたしの知らない日常があって。祐二はわたしと同じで帰る実家はないけど、でも、祐二は今がとても楽しそうだもんな。翻訳家になるっている夢に向かって全力疾走してて。どんどん夢を膨らませていっていて。どんどん気持ちは外に、そして未来に向いている。きっと祐二は大丈夫。でも、わたしは。解らない。自分がどうしたいのか。どうなりたいのか。わからない。これからどうしたらいいのか。結局、わたしにはなにもない。ちょっとしたことで立ち止まってしまうわたしは、きっと何にもなれない。解っていた。いつかは皆バラバラになると。ずっとは一緒にいられないと。解っていたはずなのに。でも、いざ現実にこうやって皆がバラバラになっていく所を目の当たりにすると、気持ちが全然追いつかない。出っていった人の代わりに新しい人に入ってもらってシェアハウスを続けてくんじゃなくて、ここをわたし達の家として、わたし達の居場所のままでお終いにしようって、皆で決めたのに。ちゃんと話し合って皆で決めたのに。なのに、今更。わたしはそれが凄く寂しくて、独りぼっちになるのが凄く怖いと思ってる。
「大丈夫。花月ちゃん。それぞれ違う道を歩いて行ったって、一緒にはいられなくなったって、ちゃんと皆いるよ。皆ついてるから。」
そう優しく語りかけてくる和実にそっと抱き寄せられ、花月は涙が溢れてきて、彼女にしがみついた。自分の頭を撫でる優しい感触に安心感を覚えて、そしてまた涙が溢れてくる。
「花月ちゃん。不安なら、ここ出てくときには二人でアパート借りて一緒に暮らそうか?」
「お姉ちゃんと?」
「うん。二人暮らし。それなら花月ちゃんも寂しくないでしょ?それに、ここがなくなっても一緒にいられるって解ってれば、そんなに不安にならなくても大丈夫になるんじゃないかな。大丈夫、花月ちゃんを一人になんてさせないよ。だから、どう?」
「お姉ちゃんと、二人暮らし・・・。」
「それが良いかもしれないっすね。花月に一人暮らしする能力があるのはわかってるけど、花月は色々抜けてるから。正直一人暮らしさせるのは心配っす。」
「一人暮らししたらしたで、心配した片岡がしょっちゅう様子を見に行きそうだな。様子見に行かなくても、毎日のように、調子はどうだとか、ちゃんとやってるかだとか、何か困ったことはないかだとか連絡しそうだ。」
「あー。それ、凄く想像つく。というか、花月ちゃんに一人暮らしさせたら、片岡君の心労が嵩んで、片岡君の方が参っちゃいそうな気がする。」
「片岡は過保護だからな。」
「なんすか、その俺のイメージ。流石にそんなことは・・・。ない。とは言いがたいかもしれないけど。いや。俺だって流石にそこまでは・・・。いや、実際そういう状況になってみないと分かんないすけど。でも・・・。」
「ほら、片岡君もこの調子だし。ここがなくなったってそれで皆との縁がきれちゃうなんてことはないよ。だから、心配しなくても大丈夫。真田君も職場近いし。他の皆だってさ、呼べばきっと来てくれるよ。時間の都合や物理的な距離はどうにもならないかもしれないけど。でも、花月ちゃんが会いたいって思えば、これからもずっと皆に会えるよ。」
「そうだな。離れたって気軽に連絡とれば良いだろ。皆でご飯食べようとかさ。連絡先解ってんだから。自分の気持ちに正直で、真っ直ぐなとこがお前の良いとこなんだから。お前はいつも通り目の前のことに全力で取り組んで、その時を目一杯楽しんでろよ。そうすれば、自ずとやりたいことがどんどん出てきて、悩むヒマなんかなくなるだろ。脳天気なのがお前の売りなんだから、ごちゃごちゃ考えるな。」
「そうっすよ。お前は運だけで生きてきたって言っても過言じゃないくらいの強運の持ち主なんすから。先のことなんか気にしないで、今まで通り今をめいいっぱい謳歌するのが一番っすよ。お前なら、きっと何とかなるっすから。」
そうそれぞれに励まされて、花月は、少しだけ気持ちが軽くなって、和実にしがみついたまま、皆にありがとうと伝えた。皆が励ましてくれる、その気持ちは嬉しい。ここがなくなったって、皆と繋がっていられる。皆と会える。それは嬉しい。でも、今言われた言葉にモヤモヤする。引っかかる。今まで通りができなくなっている今。今まで通りでいられなくなっている今。今まで通りにしてろという言葉が凄く重く感じる。
「ほら。花月、顔あげろ。なに考えてんのかは知らねーけど、余計なことごちゃごちゃ考え続けんな。お前はそういうの苦手なんだから。考えれば考えただけ沼に嵌まって出られなくなるぞ。」
解ってる。自分がそういうのが苦手だって。考えても解らないことが多すぎて、でも、そのままにしておいてもなにも解決しなくて。
「苦手だからって、逃げてばかりじゃ何も解決しないんだよ。」
一臣からの自分を想って掛けられた言葉に、そう噛み付くように返してしまって、花月は苦しくなった。
「ごめん。一臣。わたし・・・。」
「気にすんな。別に、俺はなんとも思ってないから。にしても、お前がそんな風になるなんて。寂しいとか、ここがなくなるって不安以外にも何かあるのか?」
そう言われて、花月は返す言葉が思いつかなくて黙り込んだ。何もないわけじゃない。でも、どう言えばいいのか解らない。それになんか言いたくない。今の自分を言葉にして、それで、皆からどんな言葉が返ってくるのか、それが想像できなくて怖い。だから、何も言いたくない。今のわたしの不安な気持ちを言葉にできない。
「言いたくないなら別に言わなくてもいいけど。あんま溜め込むなよ。溜め込みすぎは色々良くないからな。余計なこと考えて溜め込みすぎると、いつかの俺みたいになっちまうぞ。」
そう言った一臣が一つ溜め息を吐いて、お前がこんな風になってる時に傍にいない浩太が腹立つなと呟いたのが聞こえて、花月は顔を上げ疑問符を浮かべ彼を仰ぎ見た。
「いや。何でもない。落ち着いたら浩太に連絡してこいよ。あいつ、お前に勘違いでフられるんじゃないかってハラハラしてるぞきっと。電話は基本しないようにしてるみたいだけど、今回みたいな時は例外だろ?毎日メールだけで、見てるこっちが胸焼けしそうなくらい浮かれられるんだから、あいつの声聞きゃお前は一気に元気になんだろうし。遠慮せず電話しちまえ。」
そう言って一臣がいたずらっぽく笑ってきて、花月はうん、そうすると頷いた。心配そうな、それでいてどこかもどかしさを抱いているように自分を見つめる一臣の視線を受けて、花月はなんとなく居心地が悪くなって彼から目を逸らした。そして、視界の端で一臣がばつが悪そうな顔をして自分から視線を逸らすのを見て、よく解らない罪悪感に胸が締め付けられた。
「じゃあ、俺は部屋に戻るわ。」
そう言って食堂を後にする一臣の背中を見送って、花月はなんかモヤモヤした。サクラハイムの住人達の中でも、一臣とは一番付き合いが古い。彼は自分の二番目にできた友達で、唯一のサクラハイムで暮らす前からの友達だった。ずっと友達だと思っていた、ずっと友達でいたかった人。でも、そんな彼から告白をされて、自分は浩太のことが好きだからと彼をフッて、関係は変わってしまった。考えて考えて、恋人にはなれないと答えを出して、でも、それでも友達でいたいと、今まで通り友達という関係を続けたいと伝えた。だけど、結局、それまで通りとはいかなかった。きっと今も友達なんだと思う。でも、前とは違う。二人で遊びに行くことも、一緒にお菓子作りや小物作りをすることもなくなった。年に一回、共通の友人の命日にお墓参りに行くときだけ二人で出掛けて、でもそれだけ。それ以外は他の誰かが一緒じゃないと何もしなくなった。遙はそれを当たり前でしょと言っていたけれど、どうしてそれが当たり前なのか解らない。でも、きっとそれが正しいということは解る。どういうのが友達の在り方として正しいのか、どうして同じ友達でも在り方を変えなくてはいけないのか、それが解らなくてモヤモヤする。
「なぁ、花月。お前がそんなに寂しいの、浩太が傍にいないせいもあるんじゃないっすか?前はあんだけずっと一緒にいたのに、もう一年以上あいつ帰ってきてないっしょ。しかも帰ってこない理由が稼げないからって。言い方悪いけど、まともな職に就いてるわけでもなく遊んでるだけのくせに何言ってるっすかとか思っちゃうっすよ、俺は。だってあいつ、大学受験失敗して、進学諦めて、得意なジャグリングを生かして大道芸で食ってくってイタリア飛んで。でも、イタリアはあいつの母親の母国だし、実際、母方の実家に居候して養ってもらって、不自由なく暮らしてるんしょ。俺からしたら、そんなん逃げただけに見えるっすよ。それで、成果も上がらずばつが悪いから戻ってこれないだけに感じちゃうっす。そのあげく、日本に置き去りにしたお前の事ずっとほったらかしてこんな寂しい思いさせて、不安にさせて。お前も子供じゃないんだし、いつまでもお子様みたいな恋愛ごっこの付き合い続けてないで、そろそろあいつとの関係考え直した方が良いんじゃないかと思うっすよ。他の選択肢にも少し目を向けて見ても良いんじゃないっすか?本当にお前の事大切にしてくれてるのは誰か、考えてみたって良いと思うっす。」
そう言う湊人に、和実が片岡君と抗議の視線を向けて、湊人はだって実際そうでしょと呟いた。
「管理人さんは、このままでいて花月が幸せになれるって思うっすか?今だって、こんな風になってんのに。このままで、こいつが夢見てるような未来が来るって確信して、それを純粋に応援して見守ってやれるっすか?」
「それは。そうだけど。でも、そういうことは本人達が考えていくべき事で、外野がどうこういうことじゃないでしょ。」
「そりゃ、最終的には本人達が決めることっすけど。でも、現実を教えてやるのも必要でしょ。」
「だからって、今急にそんなこと言わなくても。」
「今だからっすよ。丁度良い機会っす。自分で現実に気付いた時にはもう遅いってこともあるっしょ。そもそもどう考えても浩太は将来性皆無っすよ。あいつノリ軽いし、根性ないし。あいつが何処まで頑張れるっすか。ってか今だってどれくらい頑張ってるっすか?このままあっという間に時間が過ぎて、花月が大学卒業して。あいつのとこ行ったけど、結局何にもなってなくて今のままの小遣い稼ぎ程度のストリートパフォーマーのままだったとき、あいつはいつも通りヘラヘラしてごめんで済ませて、またなんか違うこと言い出して。俺にはそんな未来しか想像つかないっすよ。スカウトで芸能界入りして活動してる三島さんだって、軌道に乗るまではあんなに苦労してたっすよ?軌道に乗ったって言っても、端役でちょこちょこ出演してるくらいで、まだそんな売れてるって程じゃないし、それどころかあの人が本当にやりたい舞台の仕事なんて全然じゃないっすか。あんなに努力して頑張ってた人が、そんなんなんすよ?芸で食ってくっていうのがどれだけ大変か解るっしょ。実力も運もないとやってけない、ノリだけじゃどうにもならない狭き門っすよ。それをただ得意だからって理由だけで職業にしようとか、真面目にやってる人達にも失礼っしょ。その上、世界中を興行して回るパフォーマーになるだとか、でかいこと言って花月のこと振り回して。今、実際こんな風になってんのに、これが花月の幸せなんすか?それを見てるしかない真田の・・・」
「片岡君。それは、言っちゃダメなことだよ。絶対。」
「でも、俺は、見てらんないっすよ。マジで・・・。」
「湊人君。後で管理人室ね。」
そう和実がきつい口調でまだ何か言い続けそうな湊人の言葉を遮って、湊人がふて腐れたように、解ったっすと応えた。
「でも、俺。コレに関しては和実さんになんて言われても引かないっすからね。」
そう言い合う二人の間に険悪な雰囲気を感じ取って、花月は俯いてごめんなさいと呟いた。
「なんで花月が謝るっすか?」
「なんか、わたしのせいでお姉ちゃんと湊人が喧嘩してるから。」
「別に喧嘩なんかしてないっすよ。」
「でも、なんか・・・。」
「いや、これは。喧嘩じゃなくて。今のやりとりは、後で話し合いしようってことなだけっすから。」
「そうそう。だから喧嘩じゃないよ。ごめんね。大丈夫だよ。花月ちゃんは悪くないから、謝らなくて良いよ。謝らなきゃいけないのは片岡君の方だから。ただでさえ今、花月ちゃん不安定なのに、不安にさせるようなこと色々あれこれ言って。片岡君の言ってたこと、気にしなくて良いからね。後で怒っとくから。」
「湊人、お姉ちゃんに怒られるの?」
「あー。そうっすね。意見は譲らないっすけど、でも、言われてみれば怒られて当然かもしれないっす。ごめんな花月。前言撤回する気はないっすけど、でも、ちょっと余計なこと言い過ぎたっす。お前にこんなこと言ったって知られたら、管理人さんだけじゃなくて、真田や遙にも怒られるっすよ。本当、遙なんて自分がした質の悪い悪戯のこと棚に上げてめちゃくちゃ怒ってきそうっす。あいつ、浩太には甘いから。」
「湊人が言った事ってそんなに悪いことだったの?皆に怒られるような?確かにちょっと、湊人に言われたこと考えるとわたし、胸がぎゅーってするけど。でも、湊人がわたしのこと想って言ってくれたって事は解ってる。将来の事っていうのかな?そういうこと、ちゃんと考えていかなきゃいけないことだってことは、わたしも解ってる。ちゃんと解ってる。浩太とちゃんと話し合いしなきゃいけないことだって、ちゃんとわたし解ってる。これはわたしの問題で、わたしがちゃんと考えて解決しなきゃいけないことで。湊人はただ、わたしの心配してくれてるだけだって解ってるよ。だから湊人は悪くないよ。わたし、大丈夫だよ。湊人がわたしに謝らなきゃいけないことなんて何もないよ。皆が知ったら湊人が怒られちゃうなら、わたし、今のこと誰にも言わない。だから、お姉ちゃんも湊人のこと怒らないで。」
そう和実にお願いすると、彼女に名前を呼ばれながらぎゅーっと抱きしめられて、花月は疑問符を浮かべた。
「まったく。花月は本当子供なんすから。子供じゃないんだから子供扱いしないようにしないとって思うのに、そういうこと言われると。もうなんていうか。ちゃんと大人の仲間入りできるようにしてやらないとって思うのに、お前はやっぱそのままでいいっって思っちゃうっすよ。そのままでいられる間は、ずっと、そのままでいて欲しいなんて思っちゃうっす。ダメっすね。それがお前のためになんないって思うのに。本当、困るっす。」
どこか呆れたような、諦めたような、それでいて酷く優しい声でそう言いながら、湊人が頭を撫でてきて、花月は更に訳がわからなくなった。どうして今のやりとりで子供だって言われるんだろう。このままで良いって、このままでいてほしいって言ってくるんだろう。解らない。でもやっぱ、今もまだわたしは皆から見たら子供で。皆が言うわたしらしくって言うのは、子供のままでいるってことなのかな。わたしにはずっとわたしらしくいて欲しいとか、わたしのままでいて欲しいとか、浩太や一臣にもよく言われるけど。それって、子供のままでいて欲しいって事なのかな。解らない。子供ってなんだろう。大人ってなんだろう。わたしらしくってなんだろう。わたしはもう大人で、ちゃんと大人にならなくちゃいけなくて。でも、どうしたら、わたしはわたしのまま大人になれるんだろう。解らない。わたしらしさが子供らしさなら、ちゃんとした大人になったらわたしはわたしらしくなくなるのかな。そうしたら、わたしにこのままでいて欲しいって言ってくる皆は、わたしのことどう思うんだろう。解らない。でも、ちょっと怖い。わたしがわたしらしくなくなったら、わたしに対する皆の態度が変わりそうで。皆との距離が、物理的じゃない心の距離が、今よりずっと離れていきそうで、なんか怖い。皆とこのままでいられなくなるのは嫌だ。そんなことを考えて、花月は少し泣きたくなって、自分を抱きしめる和実の胸に顔を埋めた。
暫くして、花月は自分の部屋に戻った。そしてベットにダイブして、布団に顔を埋める。なんか疲れた。色々。何もしたくない。考えたくない。でも、ちゃんと考えなくちゃいけない。自分の将来のこと。そう考えて、花月は胸が締め付けられた。浩太との付き合いを考え直した方が良いんじゃないかと言った湊人の言葉が思い出されて、苦しくなる。湊人は、浩太がイタリアでどれだけ頑張ってるか解らないって言ってた。約束を守れないで、一緒に世界中を興行して回る土台が作れなかったとき、笑ってごめんですませちゃうんじゃないかって。でも、そんなことはないと思う。浩太は頑張れる人だ。一生懸命になれる人だ。約束を守ろうと必死になってくれる人だ。昔は逃げ癖がついちゃっててて、ちょっとでも嫌なことがあるとすぐ逃げ出してたって言ってたけど、今は努力も必要だし何かに一生懸命になれるって凄いって思ってるって言ってた。苦手なことを無理に頑張るんじゃなくて、楽しいと思えることを一生懸命やろうと思うって。湊人が言うように軽いノリで遊びでやってるんじゃない。浩太はちゃんと本気で頑張ってるってわたしは知ってる。浩太は本気で、本当に一生懸命頑張ってる。帰ってこないのは、逃げてるんじゃない。逃げないために浩太は帰ってこない。だって浩太、親に甘えたくないから、一度甘えちゃうとわたしとの約束守れなくなりそうで嫌だからって言ってた。自分で稼いで、自分の力で帰ってくるって。ちゃんと目に見えて先に進んでるって、自分が頑張ってるってわたしに見せたいからって。次に会うときは、それは自分達の夢にちゃんと近づいてるんだって証拠だから。会った時は、それを二人で喜ぼうねって。お互いどんなことしてきたのか沢山話をして、お互い身につけてきた技を見せ合って、二人だけの技を作ったりしたりして、一緒に沢山色々しようって。そう約束したんだ。だから・・・。そんな風に浩太に思いを馳せて、花月は、布団をぎゅっと握って、浩太ごめんねと呟いた。浩太が頑張ってくれてるって解ってる。こっちで誰になんて言われたって、わたしは、浩太は向こうで沢山の人に笑顔と元気をあげてるんだって、お仕事として、それを頑張ってるんだって信じてる。でも、わたしがダメかもしれない。わたしはやっぱ浩太みたいになれない。わたしじゃ皆に笑顔と元気をあげられない。わたしも浩太みたいになりたかった。浩太みたいに皆に元気と笑顔をあげられる人になりたかった。浩太と一緒なら、浩太となら、わたし、大丈夫だと思ってた。でも、それって結局、わたしが浩太みたいになるんじゃなくて、浩太の力にわたしは乗っかってるだけってことなんじゃないかな。浩太は、自分に憧れる必要は無いって、わたしはじゅうぶん人に元気と笑顔をあげられる人だよって言ってくれたけど。でも、浩太がいないとわたし、ダメなんだ。わたしはやっぱ、浩太みたいに皆の太陽にはなれないんだ。だって、だって・・・。そんなことを考えて涙が溢れそうになった時、スマートフォンが着信を告げる音が鳴り響いて、花月はハッとして、通話にでた。
『あ、花月ちゃん?よかった、電話に出てくれて。遙ちゃんのアレ、嘘だからね。俺、浮気なんかしてないから。俺、本当にずっと花月ちゃん一筋だから。出会ってからずっと俺の心の中には花月ちゃんしかいないから。本当、好き。大好き。マジで。本当、会えないからってよそ見なんかしてないし、ずっと、いつだって花月ちゃんのことしか考えてないから。俺の中には花月ちゃんしかいないから。本当、お願い信じて。俺の心の中にいつだって太陽のように花月ちゃんがいて俺を温めてくれるから。だから俺はいつだって頑張れるんだから。そんな太陽がなくなったら、俺の世界は冷たい闇に閉ざされて、俺、凍え死んじゃうよ。マジで。本当。花月ちゃんがいないと俺生きていけない。遙ちゃんの嘘に騙されて、別れるとか言わないで。』
そう必死な様子で縋るように捲し立てる浩太の声を聞いて、そんないつも通りの彼の様子に花月は嬉しくなって思わず声を立てて笑った。
「大丈夫。わたし、浩太が浮気したとか信じてないよ。そもそも、本当に浮気なら、遙はあんなメッセージ送らないと思うし。浩太はわたしとの約束守るために一生懸命頑張ってくれてるって信じてる。別れるなんて言わない。わたしも、浩太が大好き。本当に、大好きだよ。」
『本当?良かった。ありがとう、花月ちゃん。俺、花月ちゃんと連絡つかなくて、本当スゲー焦っちゃって。でも、花月ちゃんがそうやって俺のこと信じてくれてて、マジで嬉しい。本当良かった。マジ、スゲー、ホッとした。』
心底安心したような気が抜けたような声で紡がれる浩太の言葉を耳にして、花月もなんだか安心した。こうして声を聞くと、浩太がすぐ傍にいるように感じる。すぐ傍にいて、手を伸ばせばすぐにでも触れられそうな程近く感じて、そっと手を伸ばしてみる。しかし、伸ばした手は彼に届くことはなく空を切って、ここに彼がいないことを実感して、なんだか虚しくなった。
『じゃあ、連絡つかなかったのは別の事情?』
「うん。スマホ川に落としちゃって。見付けるまで時間がだいぶかかっちゃって、帰るの遅くなっちゃったんだけど。皆にも連絡できなかったから、皆にも凄く心配掛けちゃって。帰ってきてから湊人に怒られちゃった。」
『あー。そうだったんだ。本当、連絡つかなくなるタイミングが悪すぎてさ。本当、俺・・・。』
そうやって他愛のない会話を続けて、花月はなんだかそれが現実感のない夢の中の様な感じがして不思議な気持ちになった。自分の知ってるままの、変わらない、いつも通りの浩太の声が、やたら遠くに聞こえる。とても近く感じるのに、とても遠い。久しぶりに彼の声が聞けて嬉しい。こうして彼の声が聞けて、変わらない彼の様子を感じることができて、心がふわふわして、ドキドキして。そして、凄く寂しい。前はこれだけで充分だったのに。これだけで本当に幸せな気持ちになれて、ちょっと暗い気持ちになってるときでも、いつだって元気になれて、また頑張ろうって前を向けたのに。どうして?前はあんなに近くに感じていた浩太の存在が、今は凄く遠く感じる。
「浩太。実際に浩太の姿が見れなくても、わたし、浩太が一生懸命頑張ってるって信じてるよ。浩太はそっちで沢山の人を笑顔にして、元気にしてあげてるんだって信じてる。浩太が皆を笑顔にしてるところ、わたし、目に浮かぶように想像できる。浩太なら絶対、今よりずっと、今よりもっと、沢山の人を元気にして、笑顔にして、世界中の人気者になれるって信じてる。浩太はわたしだけじゃなくて、皆の太陽になれる人だから。浩太は皆の太陽だから。」
そう思ったことを口にして、暖かな気持ちになって、そして、花月は胸が締め付けられるような思いがした。そう。浩太は皆の太陽だ。わたしだけじゃない。浩太はわたしとは違う。わたしと違って、沢山の人を笑顔に元気にしてあげられる。浩太は皆の太陽だ、わたしだけのものじゃない。
『ありがとう。花月ちゃん。そう言ってもらえて、マジで嬉しい。俺、花月ちゃんが言うような、世界中の皆を照らせる太陽になれるように頑張るよ。』
照れくさそうに返してきた浩太の言葉を聞いて、花月は嬉しいと感じるのに、それと同時に浩太に置いていかれるような感覚がして、焦燥感を覚えた。浩太が遠い。あんなにずっと一緒にいたのに。いつだってあんなに近くにずっといたのに。浩太は浩太のままだって思うのに。浩太の存在が凄く遠い。浩太はどんどん先に進んで行っちゃう。わたしが立ち止まってる間にも浩太はどんどん先に行って、わたしは、このまま置いていかれちゃう。それは嫌だ。でも、わたしは・・・。頑張れない。どう頑張れば良いのか解らない。どうしたら、浩太のいる所までいけるんだろう。どうしたら浩太に追いつけるんだろう。また、昔みたいに世界がキラキラして見えるようになるんだろう。そして、浩太と一緒にそのキラキラした世界を楽しみたい。浩太と一緒に世界中にキラキラを届けたい。でも、わたしは。わたしにはできない。どうやったらできるか解らない。解らないよ。解らない。嫌だ。わたしを置いていかないで。そんな思いが頭を過ぎって、花月はコレは言葉にしちゃいけないと思った。自分の足が動かないからって、前に進む浩太の足を止めさせちゃいけない。そう思って泣きたくなった。湊人が言うような理由じゃなくて、わたしが浩太の邪魔にならないように、浩太の足を引っ張らないように、浩太がこのまま世界中の皆の太陽になれるように応援して、わたしはそんな彼の隣にいるのを諦めるべきなのかもしれない。一緒に皆の太陽にはなれないからって、彼も道連れにしたくない。彼にはずっと皆の太陽でいて欲しい。今よりずっと、もっと多くの人の太陽になって、皆にキラキラを届けて欲しい。自分が隣にいられなくても、そんな彼を見ていたい。やっぱり浩太はわたしの憧れで、大好きな人だから。いつまでもずっとそんな彼でいて欲しい。足手まといになるなら、いっそのことわたしを切り捨てて前に進んで欲しい。そう思うのは、努力できない自分の現実から逃げてるだけかな。浩太と離れてしまえば、頑張らなくても良くなるから。そんなことを考えてしまう自分が嫌だ。
『でもね、花月ちゃん。』
そんな浩太の声が耳に響く。
『俺は、皆の太陽である前に、君の太陽であり続けたい。他の誰よりもまず、君に笑顔と元気を届けたい。君以外のどれだけ多くの人を楽しませることができたって、たった一人、俺にとって特別で、大切な、愛しい女を笑顔にできないなら意味がないんだ。花月ちゃんが、本当に俺と一緒に世界中を興行して飛び回ることを楽しみにしてるって解ってる。だから、俺は頑張れるんだ。大学受験の時は約束を守ることができなかったから、今度こそは絶対守ってみせる。俺達の夢を絶対に夢のままじゃ終わらせないから。絶対に夢を叶えて、君に一番の笑顔をプレゼントするよ。だからこれからも、ずっと一緒に頑張っていこうね。』
その言葉を耳にして、花月は胸がいっぱいになって、そして涙が溢れた。嬉しい。凄く、嬉しい。でも、浩太。ごめんなさい。浩太がそう思っててくれても、わたし。わたしが、ダメかもしれないんだ。浩太は絶対、大丈夫って思ってる。わたし、信じてる。でも、わたしが、そんな浩太の隣に立つ実力がつけられないんだ。つけられる自信がないんだ。そう思って、でもそんなことを口に出すことができなくて。でも、いつも通り、うん、これからも一緒に頑張ろうねとも言えなくて、花月はただ、浩太ありがとうと彼に告げた。
『あ、そうだ。花月ちゃん。俺、今月大きな仕事が三件も入って。纏まった収入得られるんだ。だから、最後の仕事が終わったら、真っ先に君に会いに行くよ。ずっと待たせてゴメン。でも、ようやく君に俺がちゃんと頑張ってるって、ちゃんと夢に向かって進んでるって報告できるようになったから。これでようやく花月ちゃんに会える。そう思うだけで、俺、マジで嬉しくて仕方なくてさ。』
そんな浩太の明るい嬉しそうな声を耳にして、花月も胸が躍った。浩太に久しぶりに会える。そう思うだけでとても気分が高揚する。でも、今の自分を浩太に見られたくない。今日は部活をサボってしまった。一緒に頑張るって約束したのに、一緒に夢を見ていたのに、それに向けて後ろ向きになって動けなくなって自分を、成果を出せない自分を、ずっと頑張り続けて成果も出してる彼に見られたくない。こんな自分でどんな風に彼と対面すれば良いのか解らない。浩太に会いたい。凄く会いたい。でも、今の自分を浩太に見られたくない。見られて、失望されたくない。そんなことを思って花月は、嬉しそうに久しぶりに会ったらどうしようかと話す浩太の声がどこか凄く遠いもののように感じて苦しくなった。浩太はいつも通り。何も変わらない。こうやって声を聞く、それだけですぐ傍にいるように感じるのに、その存在がとても遠く感じる。浩太は変わらない。変わったのは自分の方だ。ねぇ、浩太。どうやったらまた、わたしは前みたいに迷いなく真っ直ぐ浩太の所に駆けていけるのかな。ただ気持ちのままに、浩太の胸に飛び込んでいけるのかな。浩太、大好き。だから、わたしは浩太が好きって言ってくれたわたしのままでいたい。いつでも一生懸命で、なんでも全力で楽しんで挑戦し続けるわたしでいたい。こんな自分は嫌だ。こんな自分を見られて、浩太に嫌われたくない。そんなことを考えて、胸が締め付けられて、花月は電話口では一生懸命いつも通りの自分を演じていた。
翌朝、目が覚めて、花月は瞼に残った涙の後を拭った。昨日は久しぶりに浩太と沢山話をした。凄く楽しかった。凄く嬉しかった。そして、凄く胸が締め付けられた。結局、浩太に何も打ち明けることはできなかった。今、自分が頑張れなくなっていることも、自分の方が約束した夢を反故にしてしまうかもしれないということを。何も言えなかった。今伝えられなかったところでこんなことすぐバレるのに。浩太に後ろめたい気持ちを抱えたまま、ずっと電話越しにいつも通りを偽っていた。そして今、そんなことをした自分にモヤモヤして、また胸が締め付けられていた。
目を瞑る。そうやって少し自分を落ち着かせてみる。大丈夫。今日もいつも通り。わたしはいつも通り。そう自分に言い聞かせる。昨日は昴君に連絡するのを忘れてしまった。大学に行ったら、昴君に昨日はごめんねって謝って、荷物とりに行く約束をして。今日は、ちゃんと部活に出る。大丈夫。ちゃんとできる。そう自分がやるべき事を頭の中で確認して、花月は目を開けた。時計を確認して、いつもならとっくにランニングに行ってる時間だなと思って、今日はどうしようかなんて思いつつ、支度をしていつも通り走りに出た。
いつも通りのランニングコースを走りながら、花月は自分の視線の先に、今はいない健人の姿を求めた。健人。今わたし、頑張れなくなってるんだ。どうしたらまた頑張れるようになるかな。そんなこと言ったら、健人はなんて返してくるだろう。なんかあったか?なんてききながら、何があったかは追求しないで、自分ならこうするって、いつもみたいに素っ気なく答えてくれるのかな。そんなことを考えて、花月はまた寂しくなった。この日課の始まりは、まだサクラハイムに来たばかりの頃、普通に目が覚めて一階に降りたら誰もいなくて、何をすれば良いのかも解らずヒマをもてあましてた所に健人がやってきて、今から走りに行くけどお前も来るか?って声を掛けてくれたことだった。その日からずっと毎日一緒に走っていた。健人はお兄ちゃんに似てる。だから最初は健人にお兄ちゃんを重ねて、一緒に走りに行くのを楽しみにしていた。会話はなくても、黙々と一緒に走っているだけで嬉しくて、安心できた。思えばずっと、健人は自分にとって兄のような存在だったかもしれない。一緒に走りながら、いつだって、何かあると健人に話をしていた。皆の前じゃなんとなく言い辛いと感じることも、二人で走っているときに自然と彼に話していて、素っ気ない彼との会話に安心していた。そして、ランニングが終わってサクラハイムに帰ってくる頃にはスッキリした気持ちになっていた。でも、今は健人はいない。声を掛けても何も返ってこない。そう思うと花月の中にまた虚しさが押し寄せてきた。頬に感じる風が心地良い。身体を動かすのは好きだ。でも、楽しくない。全然楽しくない。今はただ、足を動かしているだけで、自分の中に何もない。空っぽで、虚しいだけだ。もうこの日課やめようかな。そんなことを考えて、でもきっと明日もわたしは走るんだろうなと花月は思った。
サクラハイム戻って、身支度をして食堂に行くと、座って新聞を読んでいる香坂光とキッチンに立つ一臣の姿が見えて、花月は二人におはようと声を掛けつつ疑問符を浮かべた。
「お帰り。もうすぐ朝飯できるから、お前も座って待ってろ。」
そう一臣に声を掛けられて、花月はキッチンに飲み物をとりに行きながら、今日ってお姉ちゃんが食事当番じゃなかったっけ?と疑問を口にした。
「代わったんだ。お前、遙に連絡入れなかっただろ?お前が連絡入れてるかと思って、あいつにことの真相伝えてやらなかった俺達も悪いんだが。遙がお前が行方不明だと勘違いして焦りすぎで変なテンションになっててな。あいつからの連絡受けた管理人さんが、迎えに行って捕まえて落ち着かせてくるって。もう出掛けていったぞ。」
そう言われて花月は、そういえば遙に返信するのをすっかり忘れてたなと思い出した。なんて言うか、昨日の自分はそんな余裕なかった気がする。でも、そのせいで遙に心配掛けちゃったのかなと思うと、花月は申し訳ないような気がした。
「今から、大丈夫だよって遙に連絡した方が良いかな?」
「別にしなくていいんじゃないか?どうせこっち来るんだし。片岡なんか、良い薬になるから自分で誤解解くまでハラハラさせとくっすよとか言って、管理人さんにも別にそんな気を遣ってやる必要ないっすよとか言ってたぞ。まぁ、実際、今回のあいつの悪戯はやり過ぎだしな。向こうがちゃんと謝ってくるまで無視してもいいんじゃないか?怒ってなくても、怒ってるって思わせといた方が、あいつも反省するだろ。」
「そっか。じゃあ、遙が謝ってくるまでわたし、遙のこと無視してみる。」
そんなやりとりをしながら自分の席に着くと、光が読んでいた新聞を畳んで顔を上げ、今日はいつもより戻ってくるの遅かったねと声を掛けてきて、花月は今日はちょっと寝坊しちゃったんだと答えた。
「花月ちゃんが寝坊とか珍しいね。夜更かしでもしたの?」
「うん。久しぶりに浩太と電話してた。」
「そっか。それは夜更かしもしちゃうよね。浩太君、元気?」
「うん。今月大きな仕事がいくつか入って、纏まった収入があるから、久しぶりに帰ってくるって言ってた。」
「それは良かったね。浩太君が帰ってくるの、本当に久しぶりだよね。高校卒業してすぐイタリア行っちゃって、それ以来だから。それは楽しみだね。」
「うん。」
そんなやりとりをして、ふと、じっと自分を見つめる光の視線に気が付いて、花月は疑問符を浮かべた。
「なにかあった?浩太君が帰ってくるっていうのに、あまり嬉しそうじゃないね。」
「そんなことないよ。凄く嬉しい。浩太に久しぶりに会えるの、凄く楽しみにしてる。」
「そう?そのわりにいつもみたいにはしゃがないし。浩太君と久しぶりに電話したって言うのに、全然楽しそうに話してこないから。いつもならこっちがきかなくても凄く嬉しそうに報告してくるのにさ。」
そう光に指摘されて、花月は苦しくなって黙り込んだ。
「ほら、朝食できたぞ。」
そう一臣の声が入って来て、花月は光からの追求を避けるように、席を立ってできた朝食を運ぶのを手伝った。
「本当、真田君の料理はお洒落だよね。美味しそう。今日のコレは何?」
並べられた朝食を見て光が呟く。
「今日の朝食は、マッシュポテトとサーモンのカナッペとベーコンエッグの盛り合わせ、それにサラダとコンソメスープですね。どうせコレじゃ足りないだろと思って、おかわり用のガーリックトースト焼いときました。好きなだけおかわりしてください。」
そう言いながら一臣が、ガーリックトーストの乗ったお皿をテーブルの真ん中に置いて、そして、三人での朝ご飯になった。
「花月。大丈夫なようなこと言っといて、やっぱ、遙のあの悪戯のこと引っかかってるのか?」
「それはないよ。本当に、それは信じてないし、気にしてもないよ。目にしたときは、ちょっと、胸がぎゅってなったけど。でも、本当に大丈夫だよ。」
「じゃあ、なんで浩太が帰って来るって言うのにそんな顔してんだ?らしくないぞ。」
そう一臣にも言われて、花月は胸が苦しくなって、そして、らしくないとダメなの?と呟いた。
「らしくない。らしくないって。わたしはこういう奴だろって、一臣よく言うけど。わたしらしくないとダメなの?わたしはそうじゃなきゃダメなの?わたしらしくって何?わたしらしくってさ!」
そう叫んで、驚いたような顔で自分を見る二人を認識して、花月はハッとして、ごめんと呟いた。
「自分らしくを人にきいてんじゃねーよ、バカ。人が押しつけてくるお前らしさなんて、そんなのお前らしさじゃねーだろ。俺が言うお前らしさって言うのは、お前が自然体で一番楽な状態でいるってことでしかねーよ。ったく、面倒くせぇ。人の目気にしてごちゃごちゃ考えてると、本当、いつかの俺みたいになっちまうぞ。お前にボディーくらって撃沈した時の俺みたいにさ。あんな風にお前はなりたいのか?あの頃の俺を見て、お前どう思ったんだよ。どう思ってあんなこと俺に言ってきたんだよ。自分が俺になんて言ったか忘れてねーよな?お前は、偽らないそのままの俺と友達になりたいんだって言ったんだぜ。んでもって、ずっと変わらず友達でいたいってお前が言ってきたんだろーが。なのに、お前自身がそんな風になりやがって、ふざけんなよ。今の俺はあの時のお前だ。そんでもって今のお前はあの時の俺だ。自分がそうなってるって自覚しろ、バカ。」
そう存外優しい声音で一臣に言われて、彼の優しさを感じながらも花月は苦しくなって苛々してきて、俯いて手をぎゅっと握った。
「そんなこと言って、一臣は友達じゃなくなっちゃったくせに。友達のままでいてくれなかったくせに。なのに。そんなこと。もう一臣は友達じゃないじゃん。だから、友達じゃない人にそんなこと言われたくない!」
そう叫んで、花月は涙が溢れて、そして訳がわからなくなって、勢いよく立ち上がるとその場を後にした。なんだろうわたし。なんであんなこと言ったんだろう。解らない。解らなくて、ごめんって思う。酷いこと言ってごめんね。ごめんね。でも、苦しくて、辛くて、自分が止められなかった。関わり方が変わっても、一臣と今でも友達なんだと思いたかった。でも、口に出してみて実感する。やっぱり一臣はもう友達じゃない。一臣から告白されたあの時からきっと、わたし達はもう友達ではいられなくなっていた。それでも友達でいたかった。でも、そんなこと無理だった。だって、もうずっと、肩を並べて楽しむことができなくなっていた。いつだってどこかよそよそしくて、皆と一緒の時でもいつだって一臣との間にはそれまでにはなかった壁があって。それまでと同じように過ごしてる時だって、友達だった時みたいに一緒に楽しめなくなっていた。なのに、なにかあるといつだって一臣はそれまで通り優しくて、手を差し伸べてくれて。訳がわからない。一臣にとっての自分がなんなのか解らない。友達なら、今でも友達のままならば、なんで何もないときは前みたいにできないの?解らない。こんなのは嫌だ。こんな関係は嫌だ。わたしはただ、一緒に楽しく笑い合える関係でいたかったんだ。そういう友達でいたかったんだ。夏樹と三人で遊んでいた頃のような、あんな関係の友達のままでいたかったんだ。そう思って、涙が止められなくなって、花月は自室に籠もって大声で泣いた。訳がわからない。意味が解らない。自分が今どんななのか解らない。解らない。解らない。何が何だか何も解らない。解らないけど。辛い。苦しい。そして、訳のわからない衝動に駆られて、花月はベットの上の物を手当たり次第思い切り投げつけて。ふと我に返って、自分はいったい何をしているんだろうと思った。投げた布団や枕が散乱し、それがぶつかって机の上の物が倒れ散乱し、部屋の中がぐしゃぐしゃになっていた。それを見て酷く気が塞いで、のろのろと片付ける。片付けながら、何も壊れなくて良かったなと思う。ここにある物は全部、飾ってある物は全部、皆からもらった大切なものだから。なのに、わたし、それをこんなぐちゃぐちゃに・・・。そう思うとまた涙が溢れてきた。そして片付け終わると大学に行く支度をした。
一階に降りて食堂を覗くと、そこにはもう誰もいなかった。二人ともお仕事行ったんだなと思って、胸の中によく解らないモヤモヤが広がる。今日、帰ったらちゃんとごめんなさいしよう。そう思いながら、花月は自分の席に座って、ラップを掛けておいてくれた自分の分の朝食を、温めることなくそのまま口にした。一人で食べるご飯は味気ない。こうして一人でご飯を食べるのはやっぱ寂しい。そう思って、また泣きたくなった。このままでいて、あんな風に酷い態度をとって。こんなことをしていたら、わたしはそのうち本当に独りぼっちになってしまうかもしれない。独りぼっちは嫌だな。誰かが傍にいても、誰も傍にいないと一緒だった、何も解らないまま生家に連れ戻され、生家の所有するどこかの建物に幽閉されていた頃の自分を思い出してそう思う。あの頃はただ楽しかった思い出に思いを馳せて窓の外を呆然と眺める毎日だった。そんな何者でもなかった、名前すらなかった頃の自分。あの頃の様には戻りたくない。あんなのはもう嫌だ。絶対に嫌だ。でも、今はその時に似ている。気持ちが重くて、世界が暗い。あの時は、楽しかった時間に思いを馳せて、楽しかった時間の中にまた自分が戻ることを夢見続けて、ある時ふと目に入った開かれた窓がやけに眩しく輝いて見えた。そしてそこから飛び出して、わたしは自由になった。そしてわたしは幸せになった。そう、幸せだったはずなのに。どうして、今はまた世界が暗くなってしまったんだろう。どうしたらわたしはあの時みたいに、この暗い世界から抜け出すことができるんだろう。今はあの時とは違う。今は自分が何に閉じ込められているのかも、何処に窓があるのかも解らないのに。
大学で講義を受けながら、花月は鬱々とした気持ちを募らせていた。昨日は無断で部活をサボってしまった。今日はちゃんといかないと。浩太も帰ってくるから。ちゃんと、浩太に胸を張って頑張ってたよって言える自分であれるように頑張らないと。そう思うのに、部活の時間が刻一刻と迫ってくるのが怖く感じて、気持ちはどんどん重くなっていった。
行きたくない。行かなきゃ。頑張らなきゃ。でも怖い。講義が終わり、そんなことを思いながら、花月は重い足を引きずるように、自分が所属するストリートパフォーマンス研究部の部室に向かった。やけに心臓がバクバクする。目の前のドアを開けるのを躊躇う自分がいて、でも、入らなきゃと、花月は一つ深呼吸をした。
ドアを開け、中に入る。中にいた部員達の視線が自分に集まる。昨日自分の悪口を言っていた人達が口々に、篠宮さん大丈夫?昨日、珍しく無断欠席してたから心配したんだよなんて、本当に自分を心配しているような口ぶりで話しかけてきて、花月は背筋が寒くなった。怖い。この人達が怖い。目の前にいる人達が得体の知れない何かに思えて、花月は身の毛がよだった。
「篠宮。こっち来い。」
そう部長に声を掛けられて、花月は部長のもとに向かった。昨日の無断欠席を怒られて、すみませんでしたと頭を下げる。何故欠席したのかと問われて、花月は答えることができなかった。体調不良だったわけでも、急用が入ってしまったわけでもない。ただサボってしまっただけだから。だから、花月には謝ることしかできなかった。夏期休暇中に参加するイベントに向けての練習が本格化してきた今どういうつもりだとか、自分が二回生のエースである自覚があるのかだとか、メイン張る人間がそんなんでどうするだとか部長からの説教が続き、花月はただただすみませんと続けていた。部長に怒られている自分を見て、くすくすと話し声が聞こえる。篠宮さんはわたしたちとレベルが違うから、少しぐらいサボっても全然平気なんじゃないですかなんて、それはどういう意味で投げかけられた言葉なんだろう。解らない。でも、凄く嫌な感じがする。
「ほら。お前等もダラダラしてないで、道具運んで練習するぞ。」
そう号令がかかって、花月は気を引き締めた。そう。練習しないと。ちゃんと、練習しないと。集中して、頑張らないと。そう思った。でも、練習中も雑念が振り払えなくて苦しくなった。そして、練習のちょっとした合間に聞こえてくる、ちょっとは加減して欲しいよねなんていう、自分に向けられた声がやけにうるさく感じて、花月は苛々した。タイミングを合わせるのが難しいならどうしたら良いかななんて、同じパフォーマンスチームのメンバーに声を掛け、気まずそうに視線を逸らされ、篠宮さんは違うからとか、篠宮さんは特別だからとか、篠宮さんだからそんなに簡単にできるけど、わたし達には無理だからさなんて言われて。花月は悔しいような悲しいような、よく解らない気持ちに胸が締め付けられて、歯を食いしばった。そして練習を再開する。わたしだって、簡単にできるようになったんじゃない。できるようになるまで沢山練習したからできるようになったんだ。最初は上手くいかなくても、何がダメだったんだろうって、どうしたらできるようになるだろうって、できる人に聞きに行って、頭下げて教えてもらって、どうやってやってるのか見学して、何回も動画を見直して、練習して、練習して。できるようになるまで何回だって繰り返した。技の練習だけじゃない。筋トレも、体力作りも、必要なことはなんだって頑張った。部活以外の所でも沢山練習して、先輩達に沢山話しを聞いて。わたしだって努力したんだ。努力して、努力して、今ぐらいできるようになったのに。なんで。なんで、そんなこと言われなきゃいけないの。わたしは頑張らなきゃいけないのに。もっと頑張んなきゃいけないのに。今よりもっと色々できるようになって。今よりずっと上手くなって。もっと、もっと先にいかなきゃいけないのに。なのに。そんなこと言ってわたしの足を止めさせないで。わたしの邪魔しないで。やる気がないなら、やらなきゃいいのに。なんでそんなこと言いながらあなたたちはそれでもパフォーマンスを続けるの?そんなこと言うのは、もっと上手くなる気がないってことじゃないの?できるようになる努力をしてないってことじゃないの?わたしは、ちゃんとできるようになりたいのに。皆とできるようになりたいのに。わたしと自分達は違うって壁を作って、それで・・・。そんな思いが頭を巡って、苦しくて、悔しくて、悲しくて、苛々して、練習を続けながら花月はそんな気持ちが爆発しそうになっていた。
「篠宮!」
自分を呼ぶ部長の声が体育館中に響き渡って、花月は動きを止めた。
「もういい。一回外れろ。」
そう言われて花月はチームから離れ、部長の所へ向かった。酷く怒ったような顔で部長が自分を見下ろしている。いったい自分は何をしてしまったんだろう。そんな不安が胸に広がる。
「篠宮。今回のイベントは個人パフォーマンスじゃなくて団体パフォーマンスだって解ってるか?軸になるお前がちゃんと指揮を執れって言っただろ。そのお前が一番周り見えてなくてどうする。お前が流れを作るんだ。お前が全体を纏めて、客に魅せるパフォーマンスを作るんだ。解ってるのか?」
そう言われて、花月はすみませんとしか言葉が出てこなかった。話し合おうとしても話し合わせてもらえない。壁を作られて、その先を越えられない。なのに、そんなこと言われても、わたしはどうしたらいいんだろう。そんなことを考えて苦しくなる。頑張ってるのに。ちゃんと、頑張ったのに。自分ができるようになればなるほど、どんどん皆との溝が深まっていく気がする。どんどん話ができなくなっていってる気がする。一回生の時はまだ皆と楽しくパフォーマンスできてたはずなのに。なのに。どうしてこうなったんだろう。そんなことを思って、俯いて、花月は堪えるように拳を握りしめた。
「もういい。お前は暫くチーム外れて個人練習でもしながら頭冷やしとけ。」
そう吐き捨てられ、花月は解りましたと呟いて、個人練習をするためにその場を離れた。
「篠宮ならなんとかなると思ってたが。見込み違いしたな。」
多分聞かせようとしたわけじゃないそんな部長の呟きが、やけにハッキリと耳の奥に響いた。見込み違い。見込み違いって。部長はわたしにどんなことを期待してたんだろう。どうすれば、こんなこと言われずにすんだんだろう。自分が抜けた後のパフォーマンスチームのメンバーと部長が話しているのが聞こえる。篠宮さんがこっちに合わせてくれないと。篠宮さんはできるからって自分達を下に見てる。自分がメインだからって目立てば良いってもんじゃないのに。そんな言葉を耳が拾って苦しくなる。そんなこと思ってない。そんなこと思ったことない。わたしはただ楽しく、皆とパフォーマンスをしていたかっただけなのに。色んな技ができるようになれば皆が褒めてくれたから。見た人が凄いって、目を輝かして楽しんでくれたから。皆の笑顔を見られたら、わたしも楽しくなれたから。そしてその先に、浩太との夢が待ってるって。そう思ったらもっともっとって。ただ、もっともっとって。そういえば、そういう態度が引くとか一回生の時から言われてたっけ。先輩達に媚び売ってるとかなんとか。笑い話しのように軽い調子で、明るいノリで言われてたから、あの頃は全然気が付かなかったけど、わたし、ずっと皆に良く思われてなかったのかな。本当はわたし、最初からここの輪にちゃんと入れてなかったのかもしれない。そう、気が付いたとき、
「美人だし、人よりできるからってちやほやされて調子に乗ってるんだよ。感じ悪いよね。」
そんな誰かの囁きが聞こえてそれが胸に刺さった。
練習時間が終わり、部長に呼び寄せられる。怖い顔で立っている部長を見て、今度は何を言われるんだろうと身体が萎縮する。
「おい、篠宮。お前、やる気あるのか?なんだ今日のパフォーマンスは。パフォーマンスって言うのは難易度高い技決めれば良いってもんじゃないって、お前も解ってるだろ。練習でもそこに客がいるつもりでやれっていつも言ってるだろうが。お前、自分がどんな顔で今日パフォーマンスしてたか解るか?あんな姿を人前に晒すつもりなのか?」
「すみません。」
「お前の事情なんか客には関係ないんだよ。どんな状況でも、パフォーマンスをするときはそれに集中して、客を楽しませることだけ考えろ。今日のお前は見てる人間のこと考えるどころか、技を成功させようって気概も感じなかったぞ。」
「すみません。」
「すみません、すみませんって。お前、それ以外に言うことないのか?」
そう言われて、考えてみて、結局言うべき言葉が思いつかなくて、花月はまた、すみませんと呟いた。それを聞いて、部長があからさまな溜め息を吐く。
「お前、暫く部活来んな。」
そう言われて花月はえ?と顔を上げた。
「今のお前はパフォーマー失格だ。そんな集中できないままの状態で練習続けても怪我するだけだし。なにより。今のお前を客の前に出すなんてできない。このままが続くなら、八月のイベントもチーム編成組み直してお前は外す。」
「そんな。わたし・・・。」
「部長命令だ。暫く部活から離れて、パフォーマーとしての自分を見直してこい。そんでもって、ちゃんとパフォーマーとしての自分を取り戻せたら、俺の所に来てお前のパフォーマンスを見せろ。俺からの合格が出るまで、誰が何と言おうとお前を部活に参加させない。イベントにも出させない。ずっとそのままなら、ストリートパフォーマンス研究部を退部しろ。期限は俺が現役続けてる間だ。」
そう突き放されて、花月は絶望感にうちひしがれて黙り込んだ。
「解ったか?解ったなら返事しろ。」
「解りました。」
そう声に出して泣きそうになる。でもなんとか涙を堪えて、花月は帰路についた。
大学の敷地を出て、駅に向かう川沿いの道をとぼとぼ歩いて、花月は川原に降りてしゃがみ込んだ。わたしはどうしたらいいんだろう。どうしたら。浩太。わたし、部活来るなって言われちゃった。わたしはパフォーマーとして失格だって。そしたらわたし。わたし・・・。
「おい。ジョン、待て。ひっぱんな。」
そんな声が聞こえてきて、花月は顔を上げ声の方を見た。そして、ジョンに引っ張られてこっちに降りてくる昴と目が合って、花月は、あっと声を上げた。
「って、うわっ。篠宮さん。また。え。なんで・・・。」
あからさまに動揺したように挙動不審になりながら昴がそんな声を上げながら自分の前に立って、花月は今日やるべき事の一つを思い出した。
「昴君。あの、昨日は急に帰っちゃってごめんなさい。それで、これ、ありがとう。」
そう言って、昨日借りた着替えとサンダルを入れた袋を差し出す。
「え?あ。わざわざありがとう。ってか、昨日は、俺の方がごめん。」
「え?なんで昴君が謝るの?」
「あ。いやー。なんていうか。あー。何でもないです。」
そんなやりとりをして、昴が袋を受け取って中を確認して、疑問符を浮かべる。
「このサンダル、俺のじゃないけど。」
「え?でも、わたし、昨日それ履いて帰ってたから、昴君ちの勝手に履いてきちゃったんだと思ってたんだけど。」
「いや。あの時、篠宮さん、俺のこと突き飛ばしてそのまま飛び出してっちゃって。たぶん裸足・・・。」
「え?わたし、昴君の事突き飛ばしたの?ごめんなさい。あれ?でも、わたし、昨日、昴君がコインランドリー行ってる間に勝手に帰っちゃったんじゃなかったっけ。あれ?えっと・・・。」
「あ。あー。俺の勘違いだったかも。あ、そうだよね。そうだったよね。勘違いしてた。ごめん。そのサンダル、もしかしたら誰かがきたとき間違って俺の履いてっちゃって、置いてってたとかかも。」
しどろもどろになりながらそう弁解する昴を見て、花月は小さく笑った。昴君はやっぱ、挙動が浩太に似てる。そう思って、花月は浩太を想った。浩太が大学進学を諦めてイタリアに行くと言ったとき、行かないでって言ってたら、浩太は今ここにいたのかな、そんなことを考える。同じ大学には通えてなくても、同じように一緒にいられたのかな。あの頃は全然こんな風になるなんて思っていなかったんだ。自分が頑張ることが辛くなるなんて、約束を守れなくなるかもしれないなんて、全く考えてもいなかった。だから浩太が進学しないと言ったとき、一緒にいられないんだと思って胸がぎゅってなったけど、でも、それよりもっと先の大きな夢を描いてくれて、わたしは辛いよりずっと嬉しいの方が強くなって、それで、浩太の描いてくれた夢に飛びついたんだ。でも、浩太。わたし、これからどうしたらいいだろう。わたし、浩太がずっと傍にいてくれたなら、こんな風に不安になることなかったのかな。浩太はわたしが自分の部屋に閉じ籠もってるといつだって、ドアを叩いて、花月ちゃん遊ぼうって連れ出してくれた。わたしが不安なとき、辛いとき、いつも元気をくれた。でも、今は浩太がいない。今、浩太は傍にいなくて、今のわたしを浩太は知らない。だから怖い。知られるのが。でも、来て欲しい。いつもみたいに、花月ちゃん遊ぼうって。浩太、わたしをこの暗い世界から連れ出して。浩太。浩太。浩太に会いたい。浩太。お願い。わたしを助けて。
「篠宮さん、大丈夫?」
そう昴が心配そうに声を掛けてきて、花月はハッとした。
「とりあえず、俺んち行く?篠宮さんの荷物、部屋に置きっ放しだし。」
そう言われて、目が合って、昴がまた焦ったように別に部屋に上がってけとかじゃないから、ほら、外で待っててくれれば俺とってくるし、なんて言ってきて、花月は、昴君って変なのと言って笑った。そして、自分を見て顔を赤くして惚けたように固まる昴を見て、花月はやっぱ昴君は浩太に似てるなと思って少しだけ胸が躍った。
昴の暮らすアパートへの道のりを並んで歩きながら、花月はきかれるまま促されるまま自分の事を彼に話した。本当のことは言えないから、昔、自分が篠宮花月と言う名前になった時、皆で考えてくれた外で話す用の設定を口にする。両親は自分が物心つく前に亡くなってしまったから、ずっと田舎でお婆ちゃんと二人暮らししていたと。自分の育った場所は凄いど田舎で、本当に何もなくて、人口も少なく、子供は自分と少し年の離れたお兄さんしかいなかったと。だから小さい頃はいつもそのお兄さんと野山を駆けまわって遊んでいたのだと。そして、お兄さんも大きくなったら田舎を出て行っちゃって、子供は自分一人になっちゃって。お婆ちゃんが亡くなって、身寄りがなくなって。働き口もないから、自分も田舎を後にして街に出てきて。でも、右も左も解らなくて戸惑うことばかりで、そんな時にたまたまサクラハイムというシェアハウスの管理人をしているお姉ちゃんに、良かったらここで暮らさないかって声を掛けてもらって、そこでの生活が始まって。アルバイト先を紹介してもらって、それで生計立てて。サクラハイムで暮らし始めた頃は他の住人は皆学生だった。自分は高校も行ってなかったから、学生生活を送る皆を見て、自分も学校に通いたいと思って。皆に助けられ、支えられ、そして高認試験に合格して、大学受験をして、大学生になった。そんな風に、一緒に暮らしている皆のことや、今は一緒にいない皆のことも、自分が辿ってきた時間を、花月は昴に話した。そうするとその頃の思いも一緒に蘇ってきて、花月は胸が暖かいもので満たされるのを感じた。でも、そんな自分にとって大切な想い出が詰まった、自分の居場所だったサクラハイムがもうすぐなくなってしまうことを口に出して、胸が苦しくなった。
「そっか。それは寂しくなるね。」
そう言った昴の声がすっと胸に入ってきて、花月はうんと頷いた。
「でも、わたしが寂しくないように、不安にならなくてもすむように、お姉ちゃんが、二人でアパート借りて一緒に暮らそうかって言ってくれたから。だから、大丈夫。」
そう言うと、昴がそうなんだと相槌を打って、でもそれってどうなのかなと返してきて、花月は疑問符を浮かべた。
「いや。だって。お姉さんって、そう呼んでるだけで、本当のお姉さんじゃなくて、今住んでるシェアハウスの管理人さんなんでしょ?言い方悪いかもしれないけど、シェアハウスがなくなったら、その人と篠宮さんって赤の他人じゃん。篠宮さんからしたら、一緒に暮らしてもらったら安心なんだろうけど。でも、一人で生活していけないわけでもないのに、そこまで人の好意に甘えるのってどうなのかなって。」
そう言い直されてもその意味がわからなくて、花月は怪訝そうに顔を顰めた。
「だってさ、店子じゃなくなったら、お姉さんが篠宮さんの面倒を見る必要なんて本当は無いのに、君のために一緒に暮らしてくれるって、お姉さんからしたら結構な決断だと思うよ。本当のお姉さんだって言うならまだ解るけど、赤の他人なのに、篠宮さんはそうやって何も考えないで甘やかしてもらうがままにお姉さんの人生に乗っかって。それってちょっと無遠慮過ぎるんじゃないかなって。だってさ、お姉さんにはお姉さんの人生があるんだよ。お姉さんだって、そのうち大切な人と家庭を持って、自分の家族を作ってってなるんだろうし。そうなった時、篠宮さんはどこまでついてくの?どこまで居座るの?それ以前に、自分の家庭を作るのに君の存在が邪魔になるかもしれないしさ。そうなったらどうするの?赤の他人の君に、お姉さんの人生に口出しする権利なんてないんだよ。そもそも居座る権利だって、本当はないんだよ。だから、そういう時が来る前にちゃんと自立した方がいいんじゃない。甘えてばっかいないでさ。田舎から出てきて今まで、充分面倒見てもらってきたでしょ。これ以上は失礼だと思うよ。」
そんな昴の言葉が、花月の胸に深く刺さった。わたしは、お姉ちゃんの迷惑になる。優しくて大好きなお姉ちゃんの人生にわたしは邪魔になる。そんなのは嫌だ。今までずっと、これでいいと思ってきた。ちゃんと自分でお金を稼げるようになって、ちゃんと生活費を自分で出して。それができるようになったから、自分はちゃんと自立できるようになったんだと思ってた。でも、それだけじゃ自立してるって言わないんだ。今のわたしは、お姉ちゃんに頼りきりで、甘えてるだけなんだ。色んな事を知って、色んな事ができるようになって、自分は変わったと思っていた。自分はちゃんと生長したんだって思ってた。でも、今のわたしは。今もわたしは。サクラハイムに来たばかりの、人に助けてもらわなきゃ何もできない、自分一人じゃなにもできないわたしのままだったんだ。わたしは、何も変われていなかったんだ。そう思って、花月は酷く気が沈んだ。
「あ。ごめん。篠宮さん。キツいこと言い過ぎた?ごめん。そんな落ち込まないで。ちょっと思ったこと言っただけだから。そんなに気にしないで。ごめん。本当。だから。その。」
そんな焦った様子の昴の声が頭上から降ってきて、花月は顔を上げた。
「えっと。あ、そうだ。寂しいなら、お姉さんじゃなくて、彼氏と同棲すれば?彼氏ならさ、そのうち結婚するかもしれない相手じゃん。これから一緒に人生歩んでくつもりの相手でしょ?」
「浩太は、イタリアだから。」
「でも、イタリアに留学してるわけでも、向こうで定職に就いてるわけでもないんでしょ?ならさ。帰って来てってお願いしてみれば?やりたい仕事っていうのも、イタリアじゃないとできない仕事でもないんでしょ?なら、こっちで働き口探してもらえばいいじゃん。」
そう言われて、花月は返すべき言葉が思いつかなくて黙り込んだ。帰って来てって言えば、浩太はきっと帰ってきてくれると思う。でも、それは、せっかく向こうで仕事が軌道に乗り始めた浩太の足を引っ張ることになる。自分が寂しいから。傍にいてほしいから。そんなワガママで、そんなこと頼んでいいのかな。でもだからといって、昴君の言うとおり、お姉ちゃんに頼りきりなのも、きっといけないことなんだ。そう考えると、自分がどうするべきなのか解らなくなって、花月は頭の中がごちゃごちゃして訳がわからなくなった。
「篠宮さん、彼氏にそういうこと言い辛いんだ。遠距離で寂しい思いしてるみたいだし。それくらいのワガママも言えないような相手ならさ、別れちゃえば?それで、もっと身近でずっと一緒にいてくれる人探しなよ。篠宮さんならすぐ見つかると思うよ。」
そう言われて、花月は胸がぎゅーっと押しつぶされるように苦しくなった。浩太と別れて違う人と・・・。そう考えると、浩太との想い出が溢れてきて、辛くなった。嫌だ。わたしは、浩太に傍にいて欲しい。わたしは浩太が良い。浩太じゃないと。でも、浩太が遠い。浩太はわたしの太陽だった。いつだって、わたしを元気と笑顔をくれる太陽だった。今も浩太との想い出を辿れば胸は暖かくなる。でも、今は、その存在がとても遠い。手を伸ばしても届かない。ずっと遠い所にある、眩しくて、直視できない。わたしの太陽。
「いや。ごめん。そういう選択肢もあるんじゃないかなって思っただけだから。」
話しを切り上げるようにそう言う昴がジョンのリードを電柱に縛り付けるのを見て、花月は彼の住んでいるアパートに着いた事に気が付いた。
「今、篠宮さんの荷物とってくるね。」
そう言われて、うんと頷く。
「あ。えーっと。ちょっと寄ってく?なにか、飲み物ぐらい出すけど。なんていうか。ちょっと休憩?みたいな。少し気持ち落ち着かせてから帰った方が良いんじゃないかな、なんて。いや。その。嫌ならいいんだけど。」
自分から少し目を逸らしてしどろもどろにそう言う昴の姿が、また浩太の姿と少し重なって、花月は不思議な気持ちになった。全然似てないのに、なんでこんなに重なるんだろう。昴君の姿に浩太が重なると少しだけ、浩太がここにいるみたいな気がしてホッとする。
「なんか、ありがとう。でも、いいよ。玄関で待ってる。」
そう言って、花月は自分の部屋に向かう昴の後をついていって、
「花月!」
そう自分を呼ぶ声にハッとした。腕を掴まれ、強い力でぐっと引っ張られる。そして後ろに倒れ込んで、そこにいた誰かに抱き留められた。
「その男誰?ってか、どういう関係?お前さ、なにほいほい男の後ついてってんの。もしかして、このままこいつの部屋に上がりこむ気だったんじゃないよね?バカじゃないの。」
そんな心底不機嫌そうな遙の声が耳元で聞こえて、花月はどうして彼がここにいるのか解らなくて、遙?と彼の名前を呟いた。
「お前さ。お前が無警戒で無防備でどうしようもないの知ってるけど。でも、だからこそ、男にホイホイついてくなって言っといたよね。何してんの。本当、バカなの。そんなことしてお前になんかあったら浩太がどんな思いすると思ってんの。」
「別にわたし、ほいほいついてってない。」
「じゃあ、何この状況?この状況をホイホイつてくって言わずになんて言うの?それとも何?あえてついてってんの?男についてくって事がどういうことか解ってて、部屋に上がり込む気だったの?そうなら、そっちの方が許せないんだけど。何?お前があいつと一年以上会えなくても平気だったのって、他であいつがいない穴埋めてたからなの?あいつの浮気は俺の嘘だったけど、実はお前が浮気してたって事? どういう言葉で丸め込まれたのか知らないけど。ばれなきゃいいって問題でもないし、許されることじゃないから。」
酷く怒った口調でそう言う遙の声を耳にして、花月は一気に感情がカッと頭にのぼって、遙にわたしのことが解るわけないくせにと叫んで、自分を抱き留める彼の腕を振り払って、彼を突き飛ばした。
「遙はすぐそうやって人のこと怒ってきてさ。何も知らないくせに。そもそも、遙が悪いんじゃん。浩太が浮気してるって、わたしにあんな画像送りつけてきて。あんなの信じないよ。信じるわけないよ。浩太が浮気するはずないって、わたし信じてるもん。でも、それでもアレ見た瞬間辛かった。胸がぎゅっとなって苦しかった。浮気じゃないって解ってても、あんな風に浩太と一緒にいられて良いなって、お客さんの女の人が羨ましかった。わたしだって、浩太がパフォーマンスしてる所見たいし、それ見て浩太凄いねって、浩太に駆け寄ってあんな風にさ。わたしだって、我慢してるんだ。我慢してたんだ。ずっと。本当は一緒に大学行きたかった。浩太が進学諦めるって言ったとき辛かった。でも、浩太が夢を広げてみせてくれたから。わたし、我慢できたんだ。浩太がイタリアに行っちゃって、稼げるようになるまで帰ってこないって言って、全然会えなくなって。本当はずっと会いたかった。凄く会いたかった。一年も会えなくて寂しかった。でも、浩太が頑張ってるって解ってるから。浩太がわたしとの約束守るために頑張ってくれてるって解ってるから、それが嬉しくて我慢できたんだ。本当はもっと声が聞きたかった。メール以外にもっと、沢山話がしたかった。でも、わたし、ずっと我慢してたんだ。我慢して、頑張った先に、わたし達の夢があるって信じれたから。だから、わたしは・・・。なのに。なのにさ。遙が悪いんじゃん。あんなの送ってきて。そのせいでわたし、辛くなったんだから。今まで我慢できてたことが耐えられないくらい辛くなったんだから。」
そんなことを怒鳴り散らして、花月は、わたし何言ってるんだろうと思った。本当は違う。こんなのただの八つ当たりだ。遙は悪くない。悪いのはわたしなのに。なんで?なんで、わたし、遙にこんなこと言ってるんだろう。
「なにそれ。それとこれは話しが別じゃないの?耐えられなくなったからって、浮気して良いって話しじゃないでしょ。」
「わたし、浮気なんかしてない。」
「それって、未遂って事?昨日の件で耐えられなくなったから、これからするとこだったってこと?心変わりを人のせいにしないでよ。そう思ってたなら、そういうの浩太に直接ぶつけるべきじゃなかったの?勝手に溜め込んで、勝手に耐えきれなくなって、それで。久しぶりにお前に会えるって浮かれて、お前とのこれから楽しみにしてたあいつのこと、いきなりどん底につき落とすつもりなの?ふざけないでよ。そんなの、俺は許さない。別の男のとこ行くにしても、ちゃんとあいつにそういうの全部ぶつけて、ちゃんとあいつとの関係清算してからにしろよ。」
「違う!わたしは、浮気なんかするつもりないし、浩太と別れるつもりもないから。昴君についてったのは、自分の荷物とりに行こうとしてただけで、部屋に入るつもりもなかったから。」
そう言い放つと、遙が心底意味が解らないという風に顔を顰めて、花月は、遙なんか大っ嫌いと叫んでその場を駆けだした。
走って、走って、走り続けて。花月は息を切らして、膝に手をついた。
また荷物置いて来ちゃった。そんなことを思う。そして、遙に酷いこと言っちゃったと思って、苦しくなった。わたし、どうかしてる。わたし、どうしちゃったんだろう。なんでこんなに感情が抑えられなくて、自分が制御できないんだろう。苦しい。凄く苦しい。嫌だ。こんなわたしは。こんなのは嫌だと思うのに。そんなことを考えて、花月は辛くなった。
そして、暫くそこで呆然と過ごして、今日も帰ろうと花月は思った。流石に二日連続、電子マネーで電車乗るのはな。定期あるのにもったいない。そんなことを思う。今日は歩いて帰ろう。時間はかかるけど。でも、それが良い気がする。歩いてれば少しは気も紛れるかもしれないし。そんなことを考えて花月は歩き出した。まずは大学の最寄り駅に向かって、そこから線路沿いに歩いて行く。いつも電車の窓から眺めている景色のはずなのに、全然違った風に見えて不思議な感じがする。前なら、こんなことさえも楽しく感じて、きっと帰ったら皆にワクワクした気持ちで話してたんだと思う。定期ないからって歩いて帰ってくるとか何考えてるんだとか、そういうときは迎えに行くから連絡しろだとか、突っ込まれたり怒られたり。そして、でも花月らしいって、きっと呆れたように言われるんだ。そして皆でワイワイと、それもきっと笑い話しになってしまう。線路沿いに帰れば帰ってこれるかと思ってたら、途中で線路沿いに道がなくなっちゃって。だから迂回してまた線路沿いに戻って。なんか凄いぐるって回るから、ちゃんと元通り戻れるのかなって途中不安になっちゃったんだ。でも、ちゃんと線路見付けられて・・・。歩きながら、そうやってどうやってサクラハイムに帰ってきたのか楽しく話す自分を想像して、そんな自分の話しを面白そうに聞いてくれる皆の姿を思い浮かべて、花月は泣きたくなった。ずっと、そうやっていたかった。ずっとあんな風にいたかった。ずっと・・。今わたしが辛いのは、わたしが甘ったれだからいけないの?ちゃんと自立できてないからいけないの?ねぇ、どうしたら、どうしたらここからわたしは抜け出せるのかな?前だったら絶対に楽しめたであろう知らない道のりが、今は凄く不安に感じる。怖い。このまま先に進むのが。自分が進んだ先に、明るい未来が見えないから。ねぇ、どうしたら、また世界が明るく輝いて見えるの。そんなことを考えながら、花月は一人ただただ帰路を歩き続けた。