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第四十話 再誕の産声、あるいは「不完全な人間」


 パリン、と。

 頭の中で、硬い硝子が粉々に砕け散るような音がした。

 視界を埋め尽くしていた無機質な黄金の霧が晴れていく。代わりに流れ込んできたのは、ひどく騒がしくて、泥臭くて、けれど愛おしい「世界の色彩」だった。誰かの泣き声。雨上がりの石畳の匂い。焦げた魔力の余韻。古い木材と油と、蜂蜜のわずかな残り香。ありとあらゆる「素材」たちの声が、一気に流れ込んでくる。

 痛い。胸が、痛い。悲しい。後悔している。恥ずかしい。怖い。それと同時に、嬉しい。暖かい。懐かしい。誰かに会いたい。泣きたい。笑いたい。神様だった間、一度も感じなかった感情たちが、洪水のように押し寄せてくる。これが人間だ。これが、私だ。

「……っ、は、あ……!」

 肺が焼けるような熱さを感じて、私は大きく息を吸い込んだ。指先に刺さっていた銀の針が、役目を終えたかのようにカランと床に落ちる。琥珀色に染まっていた視界は、元の、少し頼りない茶褐色の瞳へと戻っていた。いや、違う。これは「戻った」じゃない。初めて「私」の目で、この場所を見ている感覚だ。

「……あ……アル……ウル……?」

 震える声で名前を呼ぶ。

 目の前には、ボロボロになりながら私を支える二人の少年がいた。けれど、何かが違う。彼らの瞳からは、私を縛り付けていたあの「執着の熱」が消え、代わりに見たこともないほど深く、静かな慈しみが湛えられていた。精神世界で縛り上げていた黄金の糸は、もうない。ただ、私を傷つけてしまったことへの後悔と、それでも手を伸ばしている事実だけが、二人の目に残っていた。

「主様……おかえりなさい。……僕のこと、わかりますか?」

 ウルの声が震えている。彼は私との「一番の思い出」を代償に捧げたはずなのに、その瞳は、新しい思い出を今ここから作り直そうとする意志に満ちていた。まだ、諦めていない。あの子は、何があっても諦めないのだ。蜂蜜色の髪が乱れ、目の下に薄い陰ができている。記憶を手放したことで、彼の中に空いた穴の大きさが、その陰から伝わってくる気がした。それでも笑おうとしているのが、ウルらしかった。

「結衣殿……」

 傍らで膝をつくレオネルも、銀の甲冑は傷だらけだったが、表情は晴れやかだった。彼は私を「聖女」としてではなく、今、目の前で泣きそうになっている一人の少女として見つめている。それだけで、この人がくれた勇気の欠片が、胸の奥で温かくなる。

「……私、……ひどいことをしたわ。みんなを縫い止めて、忘れて……」

 溢れ出してきたのは、後悔と、それ以上に重い「自分の感情」だった。目頭が熱い。鼻の奥がつんとする。神様だった時は、こんなにも胸が苦しくなることはなかった。でも、この痛みこそが、私がブラック工房で、そしてこの店で生きてきた証なのだと、今はわかる。

「いいんだよ。全部、僕たちが蒔いた種だ」

 ノアが、少し離れた場所で腕を組んで鼻を鳴らした。ぶっきらぼうな言い方だけれど、その赤い瞳には、私の痛みを半分背負った者としての連帯感が宿っている。初めて会ったのに、この子が言う言葉が、なぜかちゃんと届く。それが、叔父の設計なのだと、今はわかる気がした。

「ルカは?」

 私は周囲を見渡した。ルカは窓枠に腰掛け、欠けたハサミを光に透かしながら、誰の目も見ないでいた。珍しく、静かだ。

「……別に。ハサミが喜んでただけ」

 それだけ言って、ルカは口笛を吹いた。照れているのだと、職人の勘がそう言った。

 私は、自分の手を見た。神の魔力はもうない。空間を縫い合わせることも、時間を止めることもできない。ただ、少しだけ器用な、一人の裁縫師の手だ。でも、この手で縫ったものは、誰かの心に届いた。それだけは、確かだ。

「……もう、完璧な仕事はできないかもしれない。……それでも、いい?」

 私の問いに、男たちは顔を見合わせ、同時に微笑んだ。歪なパッチワークのような、不完全で、けれど誰にも壊せない絆の肯定だった。

 だが、安らぎは長くは続かない。店の外では、人間へと戻った「元・救世主」を、今度こそ完全に排除しようとする国の軍勢が、最終兵器の展開を始めていた。魔力の唸り声が遠くから近づいてくる。石畳が揺れている。

「さあ、お姫様。泣いてる暇はないよ」

 ルカがハサミを構え、不敵に笑う。

「不完全な人間には、不完全ななりの『抗い方』があるでしょ?」

 私は涙を拭い、床に落ちた銀の針を拾い上げた。今度は世界を救うためじゃない。私と、私を愛してくれる彼らの「明日」を縫い合わせるために。針先に、かつてとは違う光が宿る。黄金でも白光でもない、人間の体温に近い、橙色の輝き。不完全で、不格好で、それでいい。これが私の針だ。

 

(第八章 完)


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