第三話 甘い蜂蜜と、独占欲の針
「……ふぅ。おじさんの店、少しは綺麗になったかな」
あれから数日。私は、叔父が遺した『ジョンの人形店』の掃除に明け暮れていた。
棚の埃を丁寧に払い、長年放置されていた古いミシンに油をさす。真鍮のパーツを磨き上げると、鈍い光が戻ってきた。最後には、煤けていた外の看板をピカピカに磨き上げる。
現実世界では「古臭い」と疎まれていた私の『こだわり』が、この店では不思議なほどしっくり馴染むのが分かった。
磨き上げた木の棚には、ガストンの事件のあとに修復したぬいぐるみたちを並べていく。一針一針に心を込めて直された彼らは、並べられると同時に、まるで意思を持っているかのように店の中を生き返らせてくれた。
「これ、これだよ。私がずっとやりたかったこと……」
ブラック工房で、誰の目にも留まらない「部品」を作らされていた頃には想像もできなかった光景だ。
ふと、視界の端で金色の光が小さく揺れた。
「主様、働きすぎです。休憩にしましょう?」
いつの間にか、ウルが私のエプロンの裾をくいっと引っ張っていた。
彼は小さなテディベアの姿に戻っている。つぶらな瞳で見上げられ、ふわふわの毛並みが私の足元にすり寄る感触が伝わってくると、たまらなく愛おしい気持ちになる。
「そうですよ、結衣様。根を詰めるのは職人の美徳ですが、貴女の健康を損なうのは我々の怠慢です」
キッチンから現れたのは、眼鏡をかけた人間姿のアルだ。
彼の手には、叔父が愛用していたという繊細なボーンチャイナのティーセットが載ったトレイがあった。そこから立ち上るのは、驚くほど濃厚な蜂蜜の香りと、鼻に抜けるような薬草の爽やかな匂いだった。
「わあ、いい匂い……」
「特製の『黄金蜂蜜茶』です。この世界でも最高級の蜂蜜と、私の魔力で育てた薬草をブレンドしました。疲労回復の効果があるんですよ。さあ、こちらへ」
アルに促されるまま、私は店の一角にある、お気に入りのロッキングチェアに座らされた。
すると間髪入れず、ウルが「ぽふっ」と私の膝の上に飛び乗ってくる。
「えへへ、主様の膝の上、あったかい……。独り占めだもんね」
「ウル、ずるいですよ。私も主様の背中を支えますからね」
アルが私の背後に回り、クッションの当たり具合を細かく調整し始めた。それだけでは飽き足らず、彼は長い指先で私のこめかみを、優しく、解きほぐすようにマッサージし始める。
(……待って。現実世界ではボロ雑巾みたいに扱われて、徹夜続きで働かされてたのに、何この天国……)
差し出された温かいお茶が喉を通るたびに、強張っていた心がゆっくりとほどけていく。
蜂蜜の濃厚な甘さと、薬草の不思議な爽快感が、三年分の疲れを少しずつ、けれど確実に溶かしてくれるようだった。
しかし、穏やかな癒やしの時間だけではないのが、この双子の面白いところだった。
作業台の上に無造作に置いていた、叔父の『銀の針』。
それを私が無意識に手に取ろうとした瞬間、二人の空気が、それまでの甘いものからピリリと鋭いものへ変わった。
「主様。……次は、どの子を直すつもりですか?」
ウルの声が、一オクターブ低くなる。膝の上の小さなクマが、じっと私の手元を見つめていた。その愛らしい瞳の奥には、隠しきれない独占欲がはっきりと滲んでいる。
「えっ? ええと、あそこに置いてある、街の人から預かったウサギのぬいぐるみを……。あの子、耳が取れかかってて可哀想だったから」
「……そうですか。あの『布切れ』に、また主様の貴い『心』を分けるのですね」
アルのマッサージをしていた手が、私の肩に少しだけ、拒絶するように力を込める。
「僕たちだけを見ていてくれればいいのに。他のガラクタに主様の指が触れるのは、あまり愉快ではありません。……でも、そんな慈悲深い主様だからこそ、僕たちはあなたを召喚したんですけどね」
二人の視線が、痛いほど熱い。
愛されているというより、逃がさないと包囲されているような、甘くて重い感覚。
けれど、それが怖いかといえば、少しも怖くなかった。むしろ、そんなふうに求められることが、今の私には酷く心地よかった。
――その時だった。
店の奥、叔父の居住スペースへと続く、ずっと閉ざされていた『開かずの扉』。
その隙間から、まるで何かに導かれるように、一通の封筒がひらりと滑り落ちた。
「……あれ?」
双子の制止を振り切り、私はロッキングチェアから立ち上がってその封筒を拾い上げる。
表書きには、何度も見返した叔父の筆跡で、こう記されていた。
『結衣へ。この店を継ぐ覚悟ができたなら、裏庭の鍵を探しなさい』
「裏庭……?」
私は顔を上げ、窓の外を見た。
そこには、これまで気づかなかった深い霧に包まれた、広大な森のような庭がどこまでも広がっていた。
叔父が隠した秘密、そして、この世界の本当の姿。
私の新しい毎日は、どうやらただの「お留守番」では終わらないみたいだ。




