第一話 指先に宿る、報われない魔法
「……はぁ。また、やり直しか」
深夜二時。狭い工房の奥に、ハサミを置く鈍い音が虚しく響いた。
作業台の上には、綿を抜かれ無残に切り刻まれたテディベアの残骸が転がっている。丁寧に縫い上げた腕が、愛情を込めて選んだアイボリーのファーが、意味もなく引き裂かれたままそこにあった。
「結衣くん。君の作るぬいぐるみは『重い』んだよ。もっと今風の、使い捨てられるような安っぽいのでいいんだ。こんな一針一針に心を込められても、コストに見合わないんだよね」
昼間、工房の店主・小林に投げつけられた言葉が、耳の奥で嫌な音を立ててリフレインする。
私の名前は、野中結衣。二十四歳。テディベア職人。
我が家は代々、物に心を宿す職人の血筋だという。けれど効率と利益がすべての現代日本で、そんな力は何一つ必要とされていなかった。一針に魂を込める私のこだわりは、ただの「要領の悪い欠点」として処理され続けてきた。
ブラックな工房で三年間、指先が血豆だらけになるまで働いた。けれど評価されたのは自分の作品ではなく、店主の名前だった。私の針目は、他の職人の名刺になっていた。
「……会いたいな」
私は首から下げた古びた銀の針を、そっと握りしめた。これは天涯孤独の私を引き取り育ててくれた叔父の形見だ。叔父は七年前に突然、何も告げずにいなくなってしまった。
唯一の心の拠り所は、叔父の思い出と、幼い頃に失くしてしまった「双子のテディベア」の記憶だけ。柔らかくて温かくて、いつも私のそばにいてくれた、あの子たちの記憶だけ。
その時だった。
――カチリ。
手の中の銀の針が、まるで生き物のように跳ねた。
同時に、足元の床が深い森の入り口のように黄金色の光を放ち始める。蜂蜜のような甘い香りが空気に滲んだ。
「え……っ!? な、なに、これ……!」
逃げようとしたが、身体が動かない。視界が蜂蜜色の光に染まり、懐かしいお日様の匂いが鼻をくすぐった。
意識が遠のく中、誰かの声が聞こえた気がした。
『――ずっと、待っていたよ』
『――お帰りなさい、僕たちの主様』
◇
次に目を開けたとき、私は見知らぬ天井を見上げていた。埃っぽいけれど、どこか温かい木の匂い。古い油と、かすかな蜂蜜の残り香。
「気がついた? 主様」
すぐ隣で、とろけるような甘い声がした。
慌てて飛び起きると、そこは古びた人形店のカウンターの中だった。
そして私の目の前には、二人の少年がいた。
一人は、蜂蜜色の髪をふわふわとさせた、おっとりした雰囲気の美少年。もう一人は、焦がしキャラメル色の髪に銀縁の眼鏡をかけた、知的な佇まいの美少年。二人とも、どこか見覚えのある愛らしい顔立ちをしている。
「……ウル? アル……なの?」
私が震える声で呼ぶと、二人の少年は顔を見合わせ、同時に私の前に跪いた。そして左右の手をそれぞれ恭しく取り、その甲に誓いのキスを落とす。
「はい、主様。あなたの、ウルです」
「アルです。百年の間、この店でずっとあなたをお待ちしておりました」
驚きで声が出ない。私の大切なテディベアが、人間になって目の前にいる? ここが、叔父のお店……?
混乱する私を置き去りにして、店の扉が乱暴に蹴破られた。
「おい、死に損ないの人形ども! ジョンが消えてもう一年だ。この店は今日から俺様の資材置き場にする。さっさと立ち退きやがれ!」
現れたのは、下品な笑みを浮かべた脂ぎった男と、その後ろに控える巨大な鋼鉄の人形だった。
「主様、下がっていて。……こんなゴミ、僕がすぐ綿にしてあげるから」
ウルが、それまでの穏やかな表情を一変させ、冷酷な光を瞳に宿して立ち上がる。アルもまた、静かに袖を捲り上げた。
けれど、男が連れている鋼鉄の人形から放たれる嫌な気配に、二人の動きがわずかに鈍る。
(……あれは、人形じゃない。あんなにボロボロで、泣いているみたいに見えるのに、無理やり動かされてる……!)
その瞬間。私の手の中にある銀の針が、再び熱を持った。
視界が切り替わる。敵の人形の壊れかけた術式と、ほつれた魔力の糸が――私には、はっきりと「見えて」しまった。
「……ウル、アル。止まって」
私は震える足で、男と鋼鉄の人形の前に踏み出した。
「はあ? なんだお前。ただの人間か?」
「ただの人間じゃありません。私は――」
私は銀の針を構え、真っ直ぐに人形を見据えた。
「――この店を受け継ぐ、テディベア職人です。その子の悲鳴、私が止めてあげます」




