第1話 夏の夕暮れ、市駅前
海と山に囲まれたこの土地にはさまざまな人々が暮らしている。高校生の彩羽、大学生のアンリとタスク、その家族たち。今日も彼らは灯台の見える無人駅から普通電車に乗り、それぞれの場所へ向かう。
夏休みに突入したある日、大学1回生の水池杏理はここ数日感じていた違和感の正体に気づいた。
7月半ば、長雨の記憶もないままに梅雨明けしたが、まだセミの鳴き声を聞いていないし蚊にも刺されていない。杏理は虫に刺された箇所が赤く炎症しやすく、特にハエ目カ科にやられるとよく腫れる。
なぜそうなるのか心当たりはある。子供の頃に、よく祖父母の家の庭にある小さな池でボウフラをひしゃくですくっては灼熱のコンクリートの地面にぶちまけるという遊びをやっていた。突然生命を奪われたボウフラたちの無念が10年かそこらの間、脈々と遺伝子に引き継がれているのだと思う。ちなみに2歳下の弟は兄ほどに腫れることはない。
そんな考察と回想で時間をつぶしながら、杏理はひたあい市駅前のロータリーでガードレールにもたれて人々の往来を眺めていた。空からも地面からもじわじわと熱されて背中を汗がつたっていく。なぜこんな所で無駄に汗をかいているのかと思ってしまう。
今夜は駅から歩いて15分ほどの距離にある弓爾神社で夏祭り、正確には宵祭りがある。そのことを知って同期生の友人に連絡したが、バイト終わりなのかまだ反応がない。実家暮らしの杏理は家に夕飯不要の連絡を入れ、いまは友人からの返事を待っている。
少し歩いた先のファーストフード店でXSサイズのアイスコーヒーを飲んで涼んでいてもいいが、きっと追加で何かつまめるものも注文してしまうに決まっている。夏祭り前にそれは負けのような気がする。セミや蚊だって土の中や濁った水の中で成虫になるのを我慢しているのだ。
杏理はロータリー脇のハナミズキの植え込みにわずかな木陰を見つけて移動し、ブロックに軽く腰掛ける。辺りに視線を流していると、浴衣姿の女性たちが自撮りをしたり、甚平姿の子供が母親らしき人に帯を結び直してもらったりしていた。
そのなかで見覚えのある少女の姿が目に入った。カッターシャツにネクタイ姿のビジネスマン風の男性と一緒に、とギリギリ言える距離感で並んで歩きながらこちらへ向かって歩いてくる。
その少女は杏理が予備校の短期バイトで接している高校3年生クラスの生徒だった。今日は授業がない日である。ひたあい市駅は市の中で一番大きな駅で、ショッピングモールが併設されている。ここを拠点に通勤通学している人は多い。
男性は携帯電話を片手に女子生徒に話しかけているが、彼女は日傘をさして伏し目がちで応答している。杏理はわざと2人の視界に入るように身体の向きを変えると、視線を上げた彼女が気づいて会釈をした。
「水池先生」
「玄川さん。こんにちは」
胸ポケットがついた白いTシャツと麻のワイドパンツ姿で『先生』と呼ばれてしまった杏理は、できる限り背筋を伸ばし勤務中の話し方を思い出しながら目の前の2人に挨拶をした。
彼女の隣にいる男性は姿勢を正した杏理よりやや小柄だった。『先生』という言葉に反応したその男性は杏理のゆるくカールした頭髪から黒のスニーカーのつま先までを見てから、じゃあまた…とあいさつも有耶無耶にして、方向転換して駅のホームに向かって去っていった。杏理が下を向くと白いTシャツのすそがめくれていたので整えた。ワイヤレスイヤホンも両耳に着けたままだったが先生判定には合格したらしい。
「これから家に帰るんですか、玄川さん」
イヤホンを取り外してケースにしまい、杏理が話しかけた。
「いえ、バイトが終わって、少しだけお祭りに行こうと思って」
「さっきの男の人はご家族?」
「あの人はバイト先のお客さんです。たまたま会って…」
頻繁に顔を合わせる相手だとしても、私服姿のバイト店員に気づくものだろうか。
「そうなんだ。常連さんみたいな感じ?」
「はい。その…」
「べつに無理に言わなくていいよ。見かけたとき、玄川さんが少し困ってそうにも見えたから聞いただけ」
彼女はクリーム色の日傘を左手に持ち替えた。日傘の縁にはさくらんぼの小さな刺繍が入っていた。予備校の短期バイト講師相手にどこまで話そうか思案しているようだ。
「その、急に連絡先を聞かれて、どうしようかと思っていたところです」
「へぇ。そうだったんだ」
「なので一応、今日はスマホを忘れたと言いました」
「そっか。まぁ、そう言うしかないよね」
いつの時代でも大人びた容姿の高校生はよくいるが、杏理からすると玄川あやは、確かそんな感じの名前だった生徒はどちらかというと化粧っ気もなく大人しい印象だ。学校の制服も規定通りに着用しているし、今日の私服もTシャツに黒のカーゴパンツで髪は後ろにひとつ結びである。肩もお腹も見せていない。受験生でもバイトをしているのは大したものだと思う。
杏理は男性の薬指に指輪があるかまでは見ていなかったが、過去に予備校の通学途中で生徒がトラブルに遭った事例を耳にしていた。
「これはもしもの話だけど。また聞かれたら、家族から交換は禁止されてるとか言うといいんじゃないかな」 彼女は口元に拳を当て、間をあけて頷く。生徒のプライベートにどこまで口を挟めばいいのか迷いながら、杏理はこう付け加えた。
「もちろんさっきの男性はいい人かもしれないんだけど、色んな人がいるしね。あとは手っ取り早くバイト中だけ指輪をつけるとか」
玄川彩羽は素早く瞬きをして杏理を見上げた。話しすぎたと思った杏理は話をそこで切り上げた。
「じゃあ、僕はここで連れを待ってるから。祭りに行くんだっけ。引き留めて悪かったね」
彼女は手を振って答える。
「いえいえ。鬼灯を買いに行くだけなので」
「ホオズキ?そんなの売ってるんだ。もしかして課題のモチーフにするの?」
「たぶん」
「いいね。頑張ってね」
「ありがとうございます」
ぎこちなく口角を上げて微笑みをつくった彼女は頭を下げ、弓爾神社の方へと歩いていった。後ろ姿を見ながら数年前の自分もこうだったのだろうかと思ったりする。けれど高校生の頃の自分は、目的を持ってひとりで夏祭りにいくようなタイプではなかった。少しだけ気温が下がったのか夕暮れまえの風が樹々を揺らし、一瞬だけ背中の汗が引いた。
再びレンガのブロックにもたれてワイヤレスイヤホンを耳に装着し、ポケットから携帯電話を取り出すとその連れから返事が届いていた。
しの
「ごめんいま見た。これから向かうます」
頭上では太陽に焼かれて茶色くちぢれたハナミズキの葉が細い枝先で揺れていた。杏理は首を少し傾げておおよその待ち時間を目算し、足元の灼熱のコンクリートに目を落とす。そしてゆっくりした足どりでファーストフード店へ向かった。
第1話 夏の夕暮れ、市駅前 終わり
次話へ続く
読んで頂きありがとうございます。
次話はG.W.前に公開予定です。




