02-3
あの日、田舎町のホテルへ泊まる事になった。
灰色の石畳は日本の道路とは違って、ちょっとガタガタしていて歩き難い。
家々は色鮮やかな花が玄関先を飾り、お伽話に出て来そうな可愛らしい印象の町であった。
個人商店のパン屋や雑貨屋、カフェなどが貴堂の目についた。
ホテルの近くには、焼き菓子の専門店もあったっけ。甘い香りに景色が彩られていた。
田園風景がすぐ傍に広がり、少し先には森がある。
あまり大きくない川には、木製の橋がかかっていた。
土手はもちろんコンクリートで舗装などされてはおらず、冬に枯れた植物が横たわっている。
水は透明で、触れるととても冷たいのだろうなぁ。
ホテルのロビーで父は、幼なじみの男と待ち合わせをしていた。
ふたりは再会した瞬間、子供のような笑顔を見せ合い、ハイタッチをして見せた。
「紘斗、紹介するよ。こちらはジェイク。僕の幼なじみさ! 明るくて、とてもいいヤツなんだ」
よろしく、と言って頭を下げると、ジェイクに強く手を握られた。シェイクハンドだ。
身体が揺れるほどに手を振られた。何度も、何度も。
まぁ確かに嫌な人には思えないけれど、でも、自分の友達ではないのだから。
会えたからと言って、特別に楽しくはない。
それからすぐ町の食堂へ行き、三人で食事をする事になった。
空はまだ明るかったが、夕方だった。
ふたりは早速アルコールで祝杯を上げ始めた。
貴堂は盛り上がるふたりの男の横で、パスタ料理を少しだけ口にした。
いっぱいは食べられない。
長時間の移動で疲れていたのだ。
日本から飛行機でこの国へ入って、そこからバスで何時間かかっただろう。
思い出したくも無いくらい長時間、乗せられた。バスはよく揺れたのである。
貴堂には、その国の言葉はほとんど理解出来ない。
日本で生まれ、日本で育てられたから。
父親だって大学時代に日本へ留学して来て以来、住み着いたと言っている。
ある程度日本語はペラペラであり、日常会話に困っているのを見た事は無い。
父とジェイクが何を話しているのか、分からない。つまらなかった。
日本から持って来た携帯ゲームをする気にもなれないし、退屈である。
けれど、外の景色だけは珍しくて清々しく美しくて、貴堂は気になっていたのだ。
食堂の窓から外を見る。
もうかなり暗くて、外の景色はよく見えない。
ただ細い銀色の三日月と星が輝いて、綺麗であった。
ホテルに戻り、翌朝。
ジェイクが貴堂を迎えに来た。
父の実家へ、ジェイクの車で送ってくれると言うのだ。それも、貴堂だけ。
貴堂はひとりなんてイヤだと父に抵抗したのだが、車に放り込まれてしまった。
父は、苦笑いを浮かべ見送ってくれたけど、特に何も言ってくれなかった。
ただ、祖母が貴堂を待っているから、と。それだけ。
冬の田舎道を二十分ほど走っただろうか。
前方に民家らしき建物がぽつぽつ、と見えて来た。
暖かみのある素材の建物で、どの家も納屋や小屋があって、母屋もかなり大きい。
けれど広い景色の中では、ちっぽけに見えなくもなかった。
小さなその集落の最奥に、ひときわ大きな洋館があった。
車は真っすぐその洋館に向かい進んでゆく。
まさか、あれだろうか。
周囲より明らかに縦長で、三階だか四階建てだかに見える。
ちょっとしたビルみたいだ、と貴堂は感じた。
日本の自宅からは考えられないような大きさだ。
父親だって実家が大きいなんて事は、一度も自慢した事が無いような気がする。
きっと違う、隣とかが自分の祖母の家だろう。
そう思っていたのに。
車は慣れたようにその敷地内に入った。
玄関スロープの前に停車し、男は貴堂を車から降ろす。
とん、と地面に降ろされた時。
洋館の扉が開く音が聞こえ、貴堂はビクッとして振り向いた。
そこには上品な老婦人が立ち、こちらを見て微笑んでいた。
灰色の髪を後頭部でまとめ、温かそうな白いカーディガンを着ている。
ハイネックのインナーは葡萄色で、ロングのスカートをはいていた。
「ヒロ」
ハッキリそう聞こえた。
ああ、この人は自分の名を知っていて、呼んだのだ。と、それだけが貴堂には分かった。
この人? この人が父親の母親?
優しそうな人だったので、貴堂は少しホッとした。
日本を離れ父から離れ、ひとりぼっちで心細くて、泣きそうだったのだ。
この人を、信じていいのだろうか。
いいんだろうな、きっと。
父親の母親、なのだから。
日本のおばあちゃんと同じだと、考えていいのだろうか。
いい、はず……。
その人はしゃがみ込み、視線を合わせて来た。
「ようこそ、遠い所をよく来てくれたわね。感謝するわ、ヒロ」
言葉が理解出来ず、貴堂は戸惑った。
「ヒロ」以外、何を言っているのか自分には分からないのだ。
父親と一緒ではない事を、強く後悔した。貴堂は、ジェイクとだって話せない。
「私はエリサ。貴堂エリサよ、よろしくね。わたしの実家・ベックフォード家へようこそ」
きどう、と言ったか?
貴堂、と。
エリサ、とも聞こえたけれど、それがこの人の名前なのだろうか。
エリサ。貴堂エリサ。
色白の老婦人が、自分と同じ苗字を名乗ったのである。
父の母親なら当然の事なのだけれど、何だか不思議な気持ちになった。
エリサに手を取られ、撫でられる。
「こんなに冷えて、寒かったのでしょう? さぁお入りなさい。ジェイク、あなたにも御足労おかけしました。お茶をご用意したわ、飲んで行ってくださるわね?」
「いえ、オレ戻りますよ。お茶はまた今度、日を改めて」
「そう? 何だか申し訳ないわ……」
「何言ってるんですか、隣に住んでいるのですからいつでもご馳走になりに来ます! では、オレはこれで」
エリサが立ち上がり、彼に手を振る。
男は車に戻ろうとして一度立ち止まり、貴堂の頭を撫でて来た。
「ヒロ。今日はイヤな思いをするかも知れないけど、気を落とすなよ」
そう言ってくれた。
だが貴堂には、やはりそれを理解する事は出来なかった。
ジェイクは車に乗り込み、行ってしまった。
さらに心細さが加速する。ドキドキして、不安が大きくなった。