18話 聖獣の涙
――翌朝。
キラは、昨日から何度も同じ場所を見ていた。
《魔獣楽園》の中央。
そこには、黒い炎に包まれた巨大な卵がある。
「……」
キラはしゃがみ込み、そっと卵へ手を当てた。
冷たい。
昨日の戦いのあとも、卵はほとんど変化していない。
ただ一つ。
昨日までなかった小さな亀裂が、表面に一本だけ走っている。
「まだ生まれないんだね」
――ドクン。
卵が小さく震えた。
「……返事してくれた?」
キラが笑う。
すると、肩に乗っていたカグラが、
「ギィ」
と鳴いた。
「カグラもそう思う?」
カグラは卵をじっと見つめている。
その表情には、警戒心があった。
どうやらカグラにも、この卵の正体は分からないらしい。
「聖なる涙……」
キラは昨日浮かび上がった文字を思い出す。
> 《聖なる涙》
《竜王の血》
《魔王の魂》
卵を孵化させるために必要な三つのもの。
そのうち、一つ目。
聖なる涙。
「まずはこれを探さないと」
---
朝食を終えたキラたちは、卵について話し合っていた。
集まっているのはキラ、リナ、ガル、クウ、グラウディス、ルナ。
そして魔物たち。
クロ、シロ、ソラ、リーフィ。
もちろんカグラもいる。
「聖なる涙について、何か知ってる?」
キラが尋ねる。
最初に答えたのはクウだった。
「名前くらいなら知っておる」
「どんなもの?」
「聖獣や神聖な存在が、強い感情によって流す涙じゃ」
「普通の涙とは違うの?」
「まったく違う」
クウが指を一本立てる。
「聖なる力を持つ涙は、傷を癒したり、呪いを浄化したりする力があると言われておる」
「じゃあ、聖獣を探せばいいんだ」
キラが立ち上がる。
「聖獣なら誰でも流せるの?」
「それが問題じゃ」
クウは首を振る。
「聖獣を傷つければ出る、というものではない」
「……え?」
「むしろ逆じゃ」
クウが真剣な顔になる。
「聖なる涙は、誰かを心から信じた時にしか生まれぬと言われておる」
キラは黙った。
「信じる……」
「そうじゃ」
クウは続ける。
「無理やり従わせても駄目。恐怖で支配しても駄目。命令して泣かせても、ただの涙じゃ」
キラはカグラを見る。
自分がカグラと契約した時も――。
無理やり従わせることを拒んだ。
「……だから、僕には無理かもしれない」
キラが呟く。
リナが首を傾げる。
「どうして?」
「僕は、まだ誰かに心から信じてもらったことなんて……」
そこまで言って。
キラは言葉を止めた。
クロがキラの足元へやってくる。
「ワン」
「クロ……」
シロも近づく。
「ガルル」
ソラがキラの背中に飛びつく。
「ぷるっ!」
リーフィも葉を揺らした。
「……」
キラは少しだけ笑った。
「そうだった」
自分には、もう――。
一人ではない。
---
「聖なる涙を探すなら、人間の街へ行く必要がある」
グラウディスが言った。
「聖獣は人間の領域にも存在するからな」
「でも……」
キラは困った顔をする。
「僕が街に行ったら、騒ぎにならない?」
十歳の少年。
赤い髪。
そして――。
肩には黒炎をまとった神獣。
さらに周囲には普通ではない魔物たち。
「なるな」
グラウディスが即答した。
「やっぱり?」
「特にカグラはまずい」
「じゃあ、どうする?」
キラはカグラを見る。
「カグラは……」
カグラが首を傾げる。
「ギィ?」
「街では姿を変えられないかな?」
カグラは少し考えるように目を閉じる。
すると――。
黒い炎が身体を包んだ。
――ボンッ。
「わっ!」
炎が消える。
そこにいたのは――。
黒い羽毛を持った、小さな鳥。
大きさは普通のカラスほど。
「……かわいい」
リナが目を輝かせる。
カグラは不満そうに鳴いた。
「ギィ……」
「ごめんごめん」
キラが笑う。
これなら街でも目立たない。
「よし」
キラは荷物をまとめる。
「行こう」
---
だが。
「待って」
ルナが言った。
「私も行く」
キラが振り返る。
「ルナ?」
「私も聖なる涙を探したい」
ルナは小さな手を握る。
「この卵を孵化させるために必要なんでしょう?」
「そうだけど……街には魔族を嫌う人もいる」
「分かってる」
ルナは少し俯く。
「でも……」
顔を上げる。
「私は逃げてばかりだった」
キラは黙って聞く。
「お父様のことも、魔族のことも、人間のことも……何も知らない」
ルナの声が震える。
「だから、自分の目で見たい」
キラは少し考える。
そして笑った。
「分かった」
「いいの?」
「うん」
キラが手を差し出す。
「一緒に行こう」
ルナはその手を握った。
「……うん」
---
街へ向かう途中。
キラたちは森を抜けていた。
先頭を歩くのはガル。
その後ろにキラ。
リナとルナが並んで歩き、魔物たちは周囲を警戒している。
カグラは小さな鳥の姿でキラの肩に乗っている。
「街までどれくらい?」
「あと半日ほどだ」
ガルが答える。
「じゃあ、急がないと」
その時。
「……」
クロが突然立ち止まった。
「ワン……」
「どうした?」
キラがしゃがむ。
クロは森の奥を見ている。
「何かいる?」
「グルル……」
シロも警戒する。
キラは《神獣の眼》を使った。
「……」
何かがいる。
魔力は弱い。
だが――。
「怪我してる」
キラは森の奥へ走った。
「キラ!」
リナたちも追いかける。
---
木々の間。
そこに一匹の獣が倒れていた。
白い毛。
長い角。
背中には薄い翼。
鹿に似ているが、普通の鹿ではない。
「……聖獣」
グラウディスが呟いた。
聖獣は身体中に傷を負っていた。
片方の翼は折れている。
足には鎖の跡。
「ひどい……」
リナが口元を押さえる。
ルナも悲しそうに見つめる。
「誰がこんなことを……」
キラはゆっくり近づく。
しかし。
「!」
聖獣が突然立ち上がった。
――ガウッ!
牙を剥く。
「キラ!」
ガルが前に出る。
「大丈夫!」
キラは手を上げた。
「攻撃しないで」
聖獣は震えている。
明らかに怯えている。
「怖いんだね」
キラは武器を置いた。
そして両手を上げる。
「僕は君を傷つけない」
聖獣は動かない。
「……」
一歩。
キラが近づく。
聖獣が後ずさる。
「ごめん」
キラも止まる。
「これ以上近づかない」
しばらく。
誰も動かなかった。
---
リナが小声で言う。
「キラ、治療してあげたら?」
「うん」
だが、キラは近づかない。
「でも、今はこの子が怖がってる」
「じゃあどうするの?」
「待つ」
「待つ?」
「うん」
キラはその場に座った。
武器も持たない。
ただ、聖獣から少し離れた場所でじっとしている。
リナも隣に座った。
ルナも座る。
ガルは少し離れた場所で周囲を警戒する。
魔物たちも静かにした。
カグラも小さな鳥の姿で、キラの肩から動かなかった。
一時間。
二時間。
時間だけが過ぎる。
「……」
キラは何も言わない。
聖獣も動かない。
やがて。
聖獣が――。
ほんの少しだけ。
キラへ近づいた。
「……!」
キラは動かない。
さらに一歩。
また一歩。
聖獣はキラの前まで来た。
そして――。
キラの手の匂いを嗅いだ。
「……こんにちは」
キラが小さな声で言う。
聖獣は怯えながらも逃げなかった。
キラは手を伸ばす。
「触ってもいい?」
聖獣は――。
ほんの少しだけ頭を下げた。
キラの手が、白い毛に触れる。
「……」
温かい。
「怖かったね」
聖獣の身体が震えた。
「もう大丈夫だよ」
キラは《治癒》の力を使った。
淡い光が傷口を包む。
――シュゥ……。
傷が少しずつ塞がっていく。
だが。
折れた翼だけは、完全には治らなかった。
「ごめん……」
キラが悲しそうに言う。
「僕の力じゃ、ここまでみたい」
聖獣はキラの手を舐めた。
「……」
キラは驚いた。
そして。
笑った。
「ありがとう」
---
その瞬間だった。
聖獣の瞳から――。
一滴。
透明な涙が落ちた。
地面に落ちる前に。
キラが手で受け止める。
――キィィィン。
涙が光った。
「……!」
キラのスキルが反応する。
> 特殊アイテムを確認。
> 《聖なる涙》
> 純度:高
キラは目を見開く。
「これが……」
聖なる涙。
探していたもの。
しかし――。
「……」
キラは涙を見る。
そして聖獣を見る。
「この子の涙……」
キラは握りしめなかった。
卵のために必要だ。
けれど――。
この子が傷ついて流した涙を、勝手に奪いたくない。
「……ありがとう」
キラは聖獣へ手を差し出す。
「でも、これは君のものだよ」
聖獣はキラを見る。
「僕は、君の涙を奪うために来たんじゃない」
リナが驚いた顔をする。
「キラ……」
「この涙が必要だったのは本当」
キラは笑う。
「でも、君を利用したくない」
その言葉を聞いた瞬間。
聖獣の瞳から――。
もう一滴。
涙が落ちた。
今度はキラの手のひらへ。
> 《聖なる涙》を取得しました。
> 対象から自発的に譲渡されました。
> 特殊条件を満たしました。
> 《万象共鳴》の経験値が上昇します。
キラは驚いた。
「……」
聖獣はキラの手に頭を押しつけた。
「君……」
キラはそっと頭を撫でる。
「ありがとう」
---
――ガサッ。
「……?」
ガルが振り返る。
「誰だ!」
森の奥から人の声がした。
「いたぞ!」
「聖獣だ!」
「まだ生きてる!」
複数の男たち。
鎧を着ている。
そして――。
その手には鎖。
聖獣の身体が震えた。
「……!」
キラは気づいた。
この聖獣を傷つけたのは――。
こいつらだ。
男の一人が笑う。
「おい坊主。その聖獣から離れろ」
「……」
「そいつは俺たちの商品だ」
キラの顔から笑顔が消えた。
「商品?」
「ああ」
男が鎖を見せる。
「珍しい聖獣だからな。高く売れる」
聖獣がキラの背後へ隠れる。
キラはその小さな身体を見た。
そして――。
静かに立ち上がった。
「……嫌だ」
「何?」
「この子は商品じゃない」
男たちが笑う。
「ガキが何を言ってる!」
キラの後ろで。
クロが立ち上がる。
「ワン……」
シロも。
「グルル……」
ガルが武器を抜く。
リナが杖を構える。
カグラの身体から――。
小さな黒い炎が揺らめいた。
そしてグラウディスが一歩前へ出る。
「……」
男たちはまだ気づいていない。
自分たちが――。
何を敵に回したのか。
キラは聖獣を背中にかばった。
「この子には、もう誰も触らせない」
その瞳には、十歳の少年とは思えないほど強い意志が宿っていた。




