2話
目を開けた時、レイン・トロワの視界に広がっていたのは、果てしなく、どこまでも純白な世界だった。
空も地面も白い。遠近感すら狂いそうな無機質な空間。
先ほどまで自分を包んでいた月明かりも、夜の森の静寂も、足元にあったはずの柔らかな土の感触もない。
ただ、自分一人だけがそこに立っていた。
「……どこだ、ここ。俺はさっき、森にいたはずじゃ……」
その時、頭の中へ、感情を排した無機質な声が響く。
【特殊空間『白亜の鍛錬場』へようこそ】
【本空間内では肉体の老化は停止し、飢えや渇きによる衰弱は発生しません】
【死亡時は即座に自動蘇生が実行されます】
【解放条件:当空間『白亜の鍛錬場』の破壊です】
「……破壊? この世界そのものを壊せっていうのか!?」
叫びは白い虚空に吸い込まれた。第一話で出会った老人の言葉が脳裏をよぎる。
『お前の拳は、世界そのものには届いている。周囲にあるすべての世界を味方にすればいい』
この場所から出る方法はただ一つ。老人が示した理屈を、この手で証明するしかなかった。
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見渡しても武器はない。あるのは自分の体、それだけだった。
レインは震える手で拳を握り、素振りを始めた。
一日一万回。二万回。眠る必要すらない世界で、レインはただ、虚空に向かって拳を突き出し続けた。
視界の端に意識を集中すれば、いつでも自分のステータスが浮かび上がる。この白い世界において、唯一変化し、積み上がっていく数字だけが、レインの心の支えだった。
この空間での修練は、彼の職業である拳闘士の素質を異常な形で開花させた。拳闘士は敏捷と筋力に最大の成長補正が働き、次いで耐久が伸びる特性を持つ。
一万年という歳月、一刻の休みもなく限界を超えて拳を振り続けた結果、レベルは1のまま、ステータスの数値だけが生物としての限界を突き抜けていった。
《空振り》というスキルの特性により、彼の拳は標的に衝突した瞬間の減速も反動も一切存在しない。その反動ゼロの加速が、敏捷と筋力による破壊力を異次元の領域へと押し上げていった。
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数千年が経過した頃、レインは《空振り》の特性を逆手に取った二つの破壊技を編み出した。これらはステータス上のスキルではなく、彼が独自に到達した技術の結晶だった。
〈拳風〉
拳が標的を透過する直前、その神速に引きずられた空気が凄まじい密度で圧縮され、物理的な鉄槌と化す正面衝撃波。拳そのものはすり抜けても、圧力の壁が正面から標的を粉砕する。
〈絶引〉
敵の体内を透過し、背中側へ突き抜けた瞬間に実体を取り戻した拳を、突き出した時以上の超絶的な速度で引き戻す。背後の空気を爆ぜさせ、標的の背中側から襲いかかる背面衝撃波。
正面からの〈拳風〉が押し潰し、体内を抜けた拳による〈絶引〉が背後から挟み撃ちにする。回避も防御も叶わぬ、全方位からの圧殺。
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一万年が過ぎた。
少年の姿はあの日、森で光に包まれた十三歳のままだが、その眼差しは永劫の時を越えた者のものだった。
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名前:レイン・トロワ
職業:拳闘士
Lv:1
筋力:89,421
耐久:48,202
敏捷:121,503
器用:12,055
魔力:42
固有スキル:《空振り》
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「……よし。終わらせよう。……すべてだ」
レインは大地を踏みしめ、右拳を正拳に構えた。
「――ッ!!」
突きによる凄まじい圧縮空気が空間の連続性を歪ませ、最速の引き戻しが、その歪みを内側から爆ぜさせた。
ドゴォォォォォォォォォン!!!
一万年不朽だった『白亜の鍛錬場』は、鏡が割れるように粉々に砕け散った。
【解放条件:『白亜の鍛錬場』の破壊を確認】
【所定の位置に転送を開始します――】
砕けた世界の破片が光に溶け、レインの意識は再び遠のいていく。
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視界が強烈な光に包まれ、次の瞬間、全身を夜の冷気が包み込んだ。
気づけば、レインはあの日の森の中に立っていた。
母を亡くし、絶望の中で首飾りが光り輝いた、まさにその場所に。
見上げれば、転送前と同じ月が夜空に浮かんでいる。現実世界では、おそらく一秒も経過していない。しかし、レインの肉体に宿る力は、もはやこの世界の理を逸脱していた。
「……戻ったんだ」
敏捷12万、筋力9万弱。レベル1のままで到達した神の領域。
レインは母の形見の首飾りを握りしめ、ゆっくりと歩き出す。




