1話
この世界において、人は生まれた瞬間にステータスという名の絶対的な運命を授かる。
視界の端に意識を集中すれば浮かび上がる、無機質な数字の羅列。
レベル、筋力、耐久、敏捷、器用、魔力。
それらはその者の才能を残酷なまでに数値化したものであり、この世界の理そのものだった。
レベルは、魔物を討伐することで得られる経験値によって上昇し、それに伴って各ステータスも底上げされる。もちろん、地道な訓練――たとえば、ひたすら殴打を浴びて耐久を上げたり、心臓が破れるまで走り続けて敏捷を高めたりといった手法でも数値は動く。だが、そんな非効率な道を選ぶ者はまずいない。
効率が悪いという言葉では片付けられないほどの絶望的な差があるからだ。
一般人のステータス平均が50前後であるのに対し、国を護る騎士団の平均は300を超える。凡そ6倍。この差を努力だけで埋めようとするのは、スプーン一杯で海を干上がらせようとするに等しい。
数値の高い者は騎士となり、魔力に長けた者は魔導士として歴史に名を刻む。
そして、ごく稀に――一万人に一人という確率で、天賦の才を超えた固有スキルを持つ者が現れる。
炎を自在に操り、軍隊を焼き払う者。
数秒先の未来を視て、死を回避する者。
触れるだけで致命傷を癒やす、聖女と呼ばれる者。
固有スキル。それは英雄の証であり、手にした瞬間に人生の勝者が確定するプラチナチケットのはずだった。
だが、例外はある。
ハズレと呼ばれる、不利益しかもたらさない呪いのようなスキルが存在することを、少年レイン・トロワは誰よりも深く理解していた。
固有スキル:【空振り】
効果:攻撃の意思がある行動が、生物に害を与える際に透過する。
このスキルの性質は、吐き気がするほど単純明快だった。
生きているものを、決して傷つけることができない。
憎しみを込めて拳を振るっても、相手の体を虚空のようにすり抜ける。
鋭利に研ぎ澄まされた剣を振るっても、魔物の肉体は何の抵抗もなく刃を透過させる。
放たれた矢は、獲物の心臓を通り過ぎて後ろの樹木に突き刺さる。
殺意、あるいは害を与えようとする意志が介在した瞬間、レインの干渉は世界から拒絶されるのだ。
一方で、木や岩、壁、地面といった無機物に対しては、驚くほど普通に力が伝わる。もしこれら無生物にまで干渉できなかったら、レインは地面に立つことすらできず地底へ沈んでいただろう。
「……はは、まただ」
村の広場。乾いた笑い声が響く。
レインの突き出した拳が、目の前に立つ年上の少年の顔面を透過した。手応えは何もない。空気を殴ったのと全く同じ感覚。
「おい見ろよ! また幽霊パンチだぜ!」
「木はへし折れるのに、人には触れもしねえ。気色悪いスキルだな」
「戦えない拳闘士なんて、ただの案山子以下だろ!」
爆笑の渦。レインは屈辱に唇を噛み、傍らにある太い街路樹を殴りつけた。
――ドン!
重い衝撃音が響き、樹皮がひしゃげる。レインの筋力値は決して低くない。むしろ、日々の鬱憤を木々にぶつけてきたせいで、同年代よりは遥かに高い。だが、その力は生物に対してだけは、存在しないものとして扱われる。
「次は俺の番だな」
年上の少年がニヤリと笑い、レインの腹部へ拳を叩き込む。
「ぐはっ……!」
レインの体は無様に地面を転がった。相手に攻撃の意思があっても、レイン側に透過のスキルはない。一方的に殴られ、一方的に傷つく。
「最弱のレイン! 逃げるしか能がないゴミ屑!」
背中に投げかけられる罵声を聞き流しながら、レインは泥だらけの体を引きずって家へと向かった。
******
家の中は、冷たい静寂と微かな薬草の匂いに満ちていた。
病床に伏せる母が、激しく咳き込んでいる。
数ヶ月前から村を襲っている流行り病。
十分なステータスを持つ治癒魔法使いや、高価なポーションがあれば救える病だ。だが、この貧しい村にそんなリソースはない。ましてや、役立たずの烙印を押された親子に手を差し伸べる奇特な者などいなかった。
「……ただいま、母さん」
「おかえり……レイン。また、服が汚れてるわね……」
弱々しく、今にも消えてしまいそうな笑顔。
レインは急いで水を汲み、震える母の掌を握った。
「また、いじめられたの……?」
「……まさか。ちょっと訓練で転んだだけだよ。俺のステータス、少し上がったんだ」
「嘘つき。あなたは……昔から、優しい嘘をつく子ね」
母は小さく笑い、レインの泥だらけの手を愛おしそうに撫でた。
「でもね、レイン。あなたは誰よりも優しい心を持っているわ。誰かを傷つけることができない……それは、とても……尊いことなのよ……」
「そんなの、何の役にも立たないよ……!」
叫び出しそうな衝動を、レインは必死に飲み込んだ。
誰かを傷つけたいわけじゃない。ただ、母さんを救いたいだけなんだ。この病を、運命を、ぶち壊す力が欲しいだけなんだ。
その三日後。
降り続く雨の音に混じり、母は静かに息を引き取った。
最後に、古びた、しかし奇妙な温もりを宿した首飾りをレインの手に握らせて。
「これは……あなたの、お父さんの形見……。きっと、いつか……あなたを守ってくれる……」
それが、最期の言葉だった。
******
母の葬儀は簡素なものだった。というより、村人たちの目は冷ややかだった。
「穀潰しが一人残ったか」
「あの母親も、こんな息子を残して死ぬのは心残りだったろうな」
耳を塞いでも、悪意は隙間から入り込んでくる。
レインは逃げるように村を飛び出し、深い森へと分け入った。
「あああああぁぁぁぁぁ!!」
絶叫。そして、目の前の巨木に拳を叩きつける。
ドン! ドン! ドン! ドン!
拳が割れ、血が流れる。それでも木は折れる。岩は砕ける。
「なんでだよ! なんで木は壊せるのに、魔物は殺せないんだ!」
「これじゃ、誰も守れない! 母さん一人、救えなかったじゃないか!」
自分の存在そのものを否定するようなスキルの制約。
天から授かったはずの「固有スキル」が、自分からすべてを奪っていった。
涙が溢れ、地面の腐葉土を濡らす。自分は、世界から見ても戦う資格を剥奪された欠陥品なのだ。
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「――悲嘆に暮れるのは勝手だが、その拳、ただ腐らせるには惜しいな」
唐突にかけられた声に、レインは肩を跳ねさせた。
いつからそこにいたのか。枯れ木のように痩せた老人が、灰色のローブを纏って立っていた。その瞳は、深淵を覗き込むような知性に溢れている。
「……誰だ。放っておいてくれ」
「生物に攻撃が当たらない。なるほど、稀に見る奇妙な制約だ。だが少年、逆を言えば、お前の拳は世界そのものには届いているということだろう?」
レインは顔を上げ、眉根を寄せた。
「意味がわからない。生き物に当たらないなら、戦いじゃゴミ以下のスキルだ」
老人はクスクスと喉を鳴らし、手に持っていた杖で足元の地面に図形を描き始めた。
物理法則を説くような、不可解な幾何学模様。
「いいか。生物という種を殴れないのなら、その種が立っている大地を殴ればどうなる?」
「え……?」
「敵を直接打てないのなら、敵を包み込む空気を殴り飛ばせばどうなる?」
老人は一歩前に踏み出し、ひょいと枯れ枝を拾った。
「衝撃は波だ。波は媒体を伝わり、増幅し、破壊をもたらす。お前のスキルが生物への直接的な干渉のみを禁じているのであれば――その周囲にあるすべての世界をお前の味方にすればいい」
「世界を、味方に……」
「お前の拳が空気を叩けば、それは衝撃波となる。お前の脚が地面を蹴れば、それは地震となる。生物に触れずとも、生物を滅ぼす術はいくらでもある。要は、使い手の想像力だ」
レインの目から鱗が落ちた。
これまでの自分は、相手に当てることばかりを考えていた。当たらないから、自分は無力だと思い込んでいた。
だが、この老人が言うことが真実なら。
「……そんなこと、本当にできるのか?」
「理屈の上では可能だ。まあ、それには常人の数万倍の修練と、文字通り世界を壊すほどの意志が必要だがな」
老人はそれだけ言うと、霧に溶けるように姿を消した。
******
その夜。
レインは一人、母の形見である首飾りを握りしめ、月明かりの下に立っていた。
老人の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
「強くなりたい」
今までは、ただの願望だった。だが今は、明確な飢えとなって腹の底で燃えている。
母を守れなかった。村人に蔑まれた。世界から拒絶された。
なら、その拒絶ごと、世界を殴り飛ばしてやる。
「強くなりたい……! 誰にも、何にも屈しない力が欲しい!」
「母さんが信じてくれたこの手を、本当の意味で尊いものにするために!」
レインが空へ向けて魂の叫びを放った、その瞬間。
胸元の首飾りが、太陽よりも眩い光を放ち始めた。
不気味なほどの静寂が辺りを支配し、脳内に直接、無機質な声が響き渡る。
【資格保有者レイン・トロワによる強烈な強さへの渇望を確認】
【アイテム『妄執の首飾り』の隠し効果の発動条件を満たしました】
【願いを申請中......】
【......承認。願いは受理されました】
【特殊空間『白亜の鍛錬場』へ転送開始します】
「なんだ……これ……っ!?」
足元の地面が消失し、重力から解き放たれる。
視界が白一色に染まり、レインの意識は遠のいていく。
それが、最弱と呼ばれた少年が、世界を震撼させる最強へと至る一歩目であることを、まだ誰も知らない。




