アパートなのか
誰かに体を軽くたたかれて、目が覚めた。
ユウは一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、岡田の声を聞いてすぐにここが岡田のアパートだという事を思い出した。
「田中さん。4時ですよ。起きてください」
岡田はユウの横に体を起こして座っていて、左腕に例の安そうな腕時計をはめながら言った。ユウは寝ながらごそごそと頭の上を探り、そこに置いてある携帯電話を手に取ると、時刻を確認した。
4時8分だった。
「何だよ。まだだいぶ早いじゃないか。あと二時間は寝れるぜ」
そういいながら、寝返りをうって岡田に背を向ける。時間にして約4時間しか寝ていない。たったそれだけの睡眠で、昨日の疲れが取れたとは思えない。
「何言ってるんですか?風呂行かないんですか?」
「風呂?」
「そうですよ。行かないんだったら、俺一人で行ってきますけど」
「風呂かー」
ユウはダウンジャケットの下にトレーナーを着ている。その下のTシャツは昨日の作業で汗が染み付いているはずだ。確かにさっぱりはしたい。しかしせっかく風呂に入っても、また今身に着けている同じ下着をつける気にはなれなかった。
「いいよ。俺は。行ってきて」
「そうですか。分かりました。5時までには帰ります」
岡田はそう言うと、流しの下からビニール袋のようなものを出した。きっと石鹸とかシャンプーが入っているんだろう。そして半分雨戸が締まっている窓のそばに無造作に干してあるタオルをひったくると、そそくさと部屋を出て行った。
岡田が出て行った後もユウはしばらくそのままの格好で横になっていたが、一度目が覚めてしまっていたので、再び寝付けず仕方なしに体を起こして、タバコを吸うことにした。
体を起こすと昨日あれだけ飲んだというのに、意外なことに頭はすっきりとしていた。残り少なくなった赤マルを取り出すと、火をつけて肺に煙を吸い込んだ。
一心地着くと、改めて岡田の部屋を見回した。
相変わらず、金目の物は何もなかったが、しんと静まり返った部屋には妙な安心感があった。岡田の言うように漫画喫茶や今住んでいるサウナよりも落ち着ける気がした。
「悪くないな」
ユウは煙草の灰を飲みかけのビールの缶に落とすと独り言を言った.そして窓から外を見てみる。来る時に目に付いた柿の木の枝がすぐ目の前まで迫っていた。この窓が向いている方角は分からないが、日当たりはあまり期待できなそうだった。
岡田は出て行くときに言っていたとうりに5時前に帰ってきた。銭湯であったまって、急に冬の外に出たからだろうか、上気してほっぺたが赤くなっていた。その顔はいつもより幼く感じた。こうして見るとやはり、ユウよりは随分と若い。
「早かったな。いつもこんなに早く出かけるのか?」
「ええ、そうです。いつも大体この時間銭湯に行くんです。5時前だと一番風呂狙いの老人が少しいるだけで、空いているのでゆっくりできます。お湯も汚れてないし。」
「それはいいな。それにしてもまだ仕事に行くには早いんじゃないか?仕事の開始までだいぶ時間あるぜ。こっからだったら一時間もあれば充分着くだろ」
「まぁそうですけど、ここにいてもしょうがないので、飯でも食って行けば丁度いいですよ」
「そうだな。そうするか」
ユウはようやく腰をあげ、共同便所のある一階に向かった。廊下は老朽化が激しく、ユウが歩くたびにミシミシと音を立てた。他の住人の気配は来た時からまったくしなかった。あれだけ玄関に靴があったのに実に不思議である。
小便を済まして部屋に戻ると、気になっていたので岡田に聞いてみた。
「あのさ、玄関に靴がいっぱいあるけど、ここってそんなにたくさん入っているの?」
「さぁー?どうでしょうね。こっちは入ってないみたいですけど」
岡田はそう言って奥の方の部屋を親指で指した。
ユウは岡田の指した壁を見つめた。昔ながらの土壁にも湿気のせいなのか中央あたりにしみのようなものが大きく広がっていた。
「ふーん。それにしてもこのアパートまったく人の気配がしないな。ここが東京だとは思えないくらいだ」
「そうですね。あんまり知らないけど、みんな出かけてるんじゃないですかね。ここは昔から土地柄的に苦学生とか多いみたいだから、冬休みで田舎に帰ったりしてるんじゃないですか」
「そうか冬休みか。じゃあ実際は結構人が住んでいるのか」
「ええ。確か俺が入るとき空き部屋はひとつだけだったから、居るはずです」
「それにしても靴多すぎないか?全部で6部屋しかないんだろ」
ユウは頭の中でアパートの全体像を思い浮かべた。トイレに行くときにちらと確認したのである。
岡田ののアパートは一階に3部屋2階に3部屋という作りで、玄関を入ると正面が2階への階段になっており、左手に建物をはみ出すような形で、一段下がり土間に共同の台所があった。部屋のシンクより大きめに作られた水場は、さながらキャンプ場のキッチンのようでもあった。トイレは階段の下のスペースにあった。
「言われて見ればそうですね。今まであまり気にもしなかったけど、もしかしたらもういない人の靴とか混ざっているかもしれませんね」
「ああそうか。前の住人が置いて言ったんだな。だったらただで貰えるじゃん」
「ええっ。そんなの無理ですよ。どれが誰のだかわかりませんよ。仮に住人全員が揃って判別したとしてもサイズが合うかわからないし、どんな奴が履いたのか分からない靴なんて嫌ですよ。水虫かもしれないし」
「ははっ。それもそうだな。こういう所に住む奴だ。水虫の可能性は高まるな」
「そうですよ。何言っているんですか。それよりもう行きましょう」
岡田はそう言うと仕事に向かう準備をはじめて、すぐに支度を済ますと、ユウと一緒に部屋を出て外から部屋の鍵をかけた。
高田の馬場の駅に歩いて来ると、思ったより時間がかかった。行きはあまり感じなかったが、やはり結構距離があるのかもしれない。
仕事場の近くの食堂で早めの夕食を済ますと、岡田の言ったように丁度良い時間になっていた。岡田はユウより時間の感覚がしっかりしているのかもしれない。いつものユウのようにただ無作為に時間が経つのを待つのではなく、空き時間を有意義に使っているように感じた。
ユウは仕事場について早速一本吸って、気合を入れなおした。
(さぁ、ここも今日で最後。明日からはまた仕事探しの日々がはじまる)
普段なら明日からの不安な日々を思い浮かべて、気が沈んでしまいそうだが、今日に限ってはユウは何故だか前向きだった。これも岡田のお陰なのかもしれない。
ユウは岡田といると不思議と不安だとか、絶望感が薄らいでいくように感じていた。別に自分より下を見て、優越感に浸っているわけではない。現状を考えれば彼にはアパートがある分下とはいえないし、底辺どうし傷をなめ合っている訳でもない。彼の目標に向かってひたむきに頑張る姿に心を動かされたのだ。
自分も頑張らなければいけない。
その日の仕事終わりに、ユウは岡田と連絡先の交換をした。




