団地
団地は陰鬱な表情で、寒々とした川沿いに聳え立っていた。
アスカはこの団地に住んでずいぶんと経つが、無機質で湿ったような茶色い建物と、ついに並ぶ緑色のドア、照明の切れかけた暗い階段、全てが好きになれないでいた。
蝙蝠がいたとか、幽霊が出るなどと近所に住む中学生が話をしていたのを聞いたこともある。
そういう話が耳に入る度に、アスカはそこに住んでいる自分に嫌気がさした。
「ただいまぁ。」
狭い階段を三階まで登り、錆かけた鉄のドアを開けるとアスカはつぶやくように言った。
その声を聞きつけて、2歳になる息子がドタドタと玄関まで走ってくる。
息子がまとわりつくので、ブーツが上手く脱げない。
まるで、犬みたいだなとアスカは思った。
「ママぁー。」
「ライトちょっ。ちょっと、待って。」
息子の名前はアスカが好きだった漫画の主人公から取ったものだった。
前のお店が潰れてから、アスカといる時間が長くなったので、ライトはより一層甘えんぼになってしまった。
アスカはようやくブーツを脱ぎ、ライトを抱えあげると、求人表の入った緑色の封筒を玄関入ってすぐのダイニングのテーブルの上に投げるように置いた。
アスカは勤めていたキャバクラが潰れてから、何件か同じような店に面接には行ったが、どこも反応はいまいちだった。
年齢的なこともあったかもしれないが、不景気のせいで体入すら昔のようにやすやすとさせてくれない。面接で聞かれることと言えばことあるごとに、
「客を持っているか?」である。
どこもこのご時世即戦力が欲しいのだろう。
アスカには客がいないこともなかったが、場所が変われば引っ張るのも難しくなる。
それに店を移ってまで来てくれる客は当然今まで以上のことを要求してくる。
たまに体入させてくれる所があっても、あまり席に着けないし、フリーも掴める気がしない。
それに回りの十代や二十歳前後の子達と仲良くやっていく自信もない。
もうキャバクラは限界かもしれない。
アスカはそう感じていた。
全てが面倒くさくなり息子の為にも昼間働くことを決心した。
そして今日ハローワークに行ってきたのだ。
「お帰り、どうだった?良さそうな仕事はあった?」
息子を下ろし流しで手を洗っていると、奥の部屋から、母親がテレビを見ながら飲んでいたお茶を持ってダイニングに出てきた。
「あー。今日は軽く様子見だからね。何件かは印刷したてきたけど……。」
「ちょっと見せて。それで人は?人は沢山いたの?今混んじゃってすごいってい言うじゃない。」
「うーん。どうなんだろ?混んでたのかな、でも検索はすぐにできたよ。」
アスカは冷蔵庫を開けて、飲み物を探しながら言った。
「へー。そう。じゃあ、私も行ってみようかな。」
「何で?今の弁当屋は?」
アスカは缶ビールを取ると、いつの間にかテーブルのイスに腰掛けていた母親と向かい合うように座った。
ライトは隣の部屋との襖を開けたり閉めたりしていた。
「……。なんかあそこ人間関係が面倒くさいのよね。」
母親は持っていた湯飲みを両手で大切な物を包むように持った。
「えっ。そうなの?何か楽しそうに行っていると思ってた。」
「…。楽しくなんてないわよ。」
「まぁ、一応仕事だからね。でもママの年だとそんなに仕事ないと思うよ。今だって雇ってもらっているだけでも感謝しなくっちゃ。」
「それはそうだけど…。」
母親はそういいながら、無邪気に襖を開け閉めしているライトの方をチラリと見た。
アスカはそれを見逃さなかった。
勘の良いアスカは母親が何を言いたいのか瞬時に理解できた。だが、その遠まわしの言い方が少しアスカのカンに障った。
「じゃぁ、辞めちゃえば。」
「えっ。」
「働くのが嫌なんでしょう。だったら私が仕事決まったら辞めちゃえばいいジャン。」
「でも、辞めたら生活はどうするのよ。あんたが養ってくれるの?今更あんたが昼間働いたって給料なんかいくらもくれないよ。それに私は働くのが嫌なんて、一言も言ってないでしょ。」
アスカは黙って聞いていた。
「それにあんたは昼間働くって簡単に言うけど,、、。」
「何?簡単じゃない事ぐらい分かっているわよ。でも、もう夜はダメなの。見切りをつけたの。あの商売はいつまでもやっていけるようなものじゃない。お店がつぶれたのは私にとって良いきっかけだったの。
それでもまだ尚嫌なおもいをしてまで、夜働けと言うわけ?普通親だったら逆の事を言うんじゃないの。」
母親はアスカのまくし立てるような口調に少し驚いたようだった。
そして宥める様いくらかトーンを落としてに言った。
「そうじゃなくて、ライトはどうするの?今まではあんたが昼、私が夜で上手く廻っていたけど、私が昼シフトに入っている時は誰が面倒みるの?だから、あんたが昼間働くって言うなら、私は夜働こうかと思っただけ。」
「そんな事はとっくに考えてあるわよ。ライトももう保育園にいける年だし、そうやって働いている親が今はそこらじゅうにいるの。それにママが夜?何の仕事があるの?まさかホステスだなんて言わないわよね。」
「まさか。」
母親は馬鹿にしたような笑いを口元に浮かべた。
アスカには照れ隠しのようにも見えた。
「ママは現実をあまり知らないから、簡単に言うけど、女の人が夜働けるパートなんて早々あるもんじゃないわよ。それに自分が職場の人間関係が嫌で仕事を辞めたいのを私達のせいにしないで。」
「あんたのせいになんかしてないわ。私が現実を知らないですって?現実を知らないのはあなたじゃないの?簡単に保育園なんて言うけど、大体あなた保育園が何処にあっていくら掛かるかも知らないでよく言うわよ。それに今は待機児童って言って保育園に入れない子もたくさんいるの。」
「そんなことは知ってるわよ。」
「運良く近くに無認可の保育園を見つけてきたとしても、あんたが稼ぐお金なんて半分以上保育園代で無くなるわよ。よく考えもしないで行き当たりばったりで転職なんて言うんじゃないよ。」
「じゃあどうすればいいのよ。」
アスカがそう怒鳴ると、母親は視線をそらして黙ってしまった。
母親にもきっとどうしていいか分からないのだろう。
団地の狭いキッチンで、ダイニングテーブルを挟んだ2人は重い空気に押しつぶされそうになっていた。
ライトはまだ無邪気に襖を開けたり閉めたりしていた。




