携帯電話
風紀はキャバクラ業界で働く者にとってつき物である。
それと同時に重罪で、たいていのお店では厳しく禁止されている。
お店の商品でもある女の子に従業員が手をつけるなどもっての他であり、一緒に働く者たちにとっても悪影響しか及ぼさない。
当然、ユウの働くお店でも禁止されており、ユウも2度目に面接に行って入店する前に誓約書を書かされていた。誓約書の内容というのは、キャストと個人的な付き合いはしない。違反した場合は場合は速やかに退店し、罰金100万円を支払うというものだった。
これは、男子だけではなく女性従業員に対しても同じだった。
厳しいお店などは、この風紀に関する取り決めも細かく、男性スタッフは役職がつくまでキャストと口を利いてはいけないなんていうところもある。
ユウの働くお店はそういった厳しい規律のある大手グループではなかったが、禁止されていることには変わりはなかった。
ましてやあの田村にキャストと個人的に飲みに行ったなどと知れたら、どういう仕打ちにあうか分かったものではない。
ユウはいつもの健康ランドのロッカールームで、今日貰ったアスカの名刺をスーツのポケットから取り出して眺めていた。
ピンク色の花柄のかわいらしい名刺で、真ん中にひらがなであすかと丸文字で印刷されていた。その名刺はユウがアスカに抱いているイメージとは似つかわしいものではなかった。
アスカの年齢は正確には知らないが、20代半ばは超えているように見えた。一番古株ということもあり、お店ではどちらかと言えばお姉さん的に扱われていた。もっとも周りの女の子達が若すぎるからかも知れないが、ユウの持っているイメージも常識がわかる大人の女性というイメージだった。(それはアスカを指名で来るお客が紳士的な中年のサラリーマンが多かったからそう思わせただけかもしれないが。)だから名刺も(飛鳥)などと、しっとりとした漢字で書いてあると思っていた。
そんな彼女が、こんなかわいい名刺を作るなんて少し意外だった。
ユウは落ち着いた雰囲気で、しっとりと接客しているアスカを思い出して、そのギャップに少しにやけてしまった。
名刺の裏には女の子らしい丸文字ではなく、仕事のできるキャリアウーマンが書いたような字で、携帯番号とメールアドレスが書かれていた。
なんとなく上品で知的さをうかがわせる文字だけに、表面のプリントがいっそうかわいらしく引き立っているように感じた。
ユウは左側の上着のポケットから、時計代わりに使っている携帯電話を取り出して、アスカの名刺の裏に書いてある電話番号とメールアドレスをすばやい手つきで登録した。
登録し終えると、名刺を再びポケットにそっとしまった。
翌日早めに健康ランドを出たユウは駅前の携帯ショップに寄った。
未払いになって止められている携帯電話を復活させる為だ。カウンターで請求書のないむねを伝えた後、身分証明証を見せて、毎日の日払いで貯まったお金で2ヶ月分貯まっている料金の1ヶ月分だけ支払った。
ユウの携帯がつながるようになるのは約2ヶ月ぶりだった。
2ヶ月間は携帯がつながらなかった訳だが、その間忙しく仕事をして寝るだけの生活をするユウにとって、それほヌ不便は感じなかった。
携帯が通じているからといっても、もともと連絡してくる友人などいないし、めったに鳴らなかったから必要ないと言えば必要ないのだが、アスカに自分のアドレスと番号ぐらいは教えておこうとと考えていた。
料金を支払って店を出ると、ユウは早速メールの問い合わせをした。
2ヶ月ほどたまっていたはずなのに、着信メールは3通のみだった。普通ならこの時点でさびしさを感じて落ち込むところだが、ユウはその次元を超えていて、なんとも思わなかった。
着ていた2通は登録してあった求人サイトからの仕事紹介メールで、もう一通はなんと大田からだった。
大田からのメールは約1ヶ月前に送られたもので、ただ調子はどうだいとだけ書かれていた。
ユウは大田のことを思い出して、たった2ヶ月くらいしか経っていないのに、懐かしい気持ちになった。この世で唯一自分を気にかけてくれていた大田にすぐに返信しようと思い、返信ボタンを押したが文章が浮かばない。それに一ヶ月も前のメールにいまさら返信するのもおかしな気がしていた。それよりも先にアスカに自分のアドレスと携帯番号を教えるのが先だ。ユウは手早くボタンを操作してアスカにメールを送信した。
アスカからの返信はすぐ来た。
『りょうかーい。登録しておくねぇー。』と短い文章だったが、絵文字というか明るくデコレーションされていた。女の子から来たメールにユウの心は明るくなった。
ユウは一人で気合を入れなおし、仕事場に颯爽と向かった。
お店に着くと田村はまだ来ていなかった。
ユウは鍵を持っていないので、仕方なく外で座りながら田村の来るのを待った。
店を任されるようになってから、しばしば田村は遅刻するようになっていた。そのつどユウはこうして外で待たされていた。
いつの間にか9月も中旬を過ぎていたが、夏の終わりを取り戻すかのように強い日差しが照りつけて、アスファルトに反射していた。
ユウの鼻の頭にはうっすらと汗がにじんでいた。
こうして一人で呆然とお店の前に座り、忙しく働く人や通行人をただ眺めていると、ユウはいつも決まって何か物凄い恐怖に襲われる。
何故か自分だけ社会から取り残されてしまっているような錯覚に陥るのだ。
田村のような年下のどうしようもない人間に顎で使われ、昼間働く人たちが飲みに繰り出す時間帯から働き始め、流行のTVドラマやファッションにも無縁で、職場にも話し相手もなく、ただただ仕事をする毎日。
楽しいことなど何一つない。
ユウはつながったばかりの携帯電話を取り出し、暇をつぶすように目的もなくいじりだした。
めったにメールの来ないユウの携帯の受信メールは、2年ぐらい前まで残っている。
ユウは時々こうして昔のメールを見て感傷に浸る。
まだ家があった頃、彼女や友人がいた頃、正社員で働いていた頃、その全ての懐かしい思い出が、ユウの受信BOXには詰まっている。
どうして、こうなってしまったのだろうか?
いつもユウはそれを見ると考えてしまう。
大田からきていたメールで、ユウの親指が止まる。
大田になんとメールを返せばよいのだろうか?
とりあえず仕事はあるが、相変わらず調子は良くない。まだ住むところもない。
大田には何か変化があったのだろうか?
もしかしたら自分より、成功しているかも知れない。
大田が今どこで何をしているのか知りたかったが、逆にうまくいっていて、充実した日々を送っていたりしたら自分が惨め過ぎる。もしそうだとしたら知りたくない。
ユウは大田に連絡するのが少し怖かった。
あれだけ大田に対して偉そうな口をきいておきながら、今の現状は相変わらずどうしようもない。ただ金のために我慢をする毎日。
今なら大田の言っていた合唱コンクールの充実感の意味が少し分かるような気がした。
ユウがそんなことを考えていると、道路の向かい側に田村が見えた。
ワイシャツのボタンをだらしなく開けて、ガラの悪そうなサングラスをかけ、かっこつけて鍵をくるくると右手の人差し指でまわしながら、歩いてきた。
相変わらずさわやかさのかけらもない、
「おはようございます。」
「おぉ。」
田村は遅れてきたことを悪びれる様子もなく、階段を上がって行った。
ユウも黙ってそれに続いた。
田村の顔を見ると、先ほどまでアスカのメールでやる気だったユウのテンションは一気に下がってしまった。
今日もまた嫌な1日が始まるのだ。




