第1話 夢の異世界生活
新連載始めました。本作タイトルにもありますがスローライフ物になりますのでゆったりめでいきたいと思っています。実際はどうなるかわかりませんが…
とにかく宜しくお願い致します。
もう、疲れた。
篠原真は、夜の街をふらふらと歩いていた。時刻は午前一時を回っている。駅前の明かりはまばらで、道を歩く人影もほとんどない。コンビニの看板だけが、妙に明るく感じられた。
大学を卒業して就職した会社は、いわゆるブラック企業だった。入社前に聞いていた労働条件と、実際の勤務状況はまるで違う。定時で帰れる日などほとんどなく、休日でさえ上司からの連絡に怯えなければならなかった。
それでも、最初のうちは頑張ろうと思っていた。社会人になったのだから、多少の苦労は仕方がない。仕事を覚えて、実績を積んで、いつか余裕のある生活を送れるようになればいい。そんなふうに考えていた。
しかし、気づけば一年が過ぎていた。
仕事は増える一方で、給料はたいして増えない。上司からは小言を浴びせられ、同僚は次々と辞めていく。真が担当する仕事は、辞めた人間の分まで積み上がっていった。
今日だって、本来ならとっくに帰宅しているはずだった。
「……はあ。」
真は深いため息をついた。
大学生のころは、それなりに楽しかった。講義が終わればバイトで稼いだお金で友人と食事に行き、帰宅すれば好きなアニメを見たり、ゲームをしたり、ネットで面白そうな作品を探したりする。趣味に没頭できる時間があった。
いつかは仕事にも慣れて、社会人なりの楽しみを見つけられると思っていた。
ところが現実はどうだ。家に帰れば風呂に入って寝るだけ。休日は疲れを取るために使い切り、気づけばまた月曜日がやってくる。これでは、何のために生きているのか分からない。
「転職、するかな。」
口にしてみたものの、具体的に行動する気力は湧かなかった。転職サイトを開く時間すら惜しく、履歴書を書く気力もない。何より、今の会社を辞めたところで、次の職場も同じような場所だったらどうするのか。
考えれば考えるほど、身動きが取れなくなっていた。真は顔を上げた。自宅のアパートは、もうすぐそこだ。ようやく帰れる。
せめて今夜くらいは、何も考えずに眠りたい。明日の仕事のことも、上司の顔も、未処理の書類も、全部忘れてしまいたかった。
アパートの階段に足をかける。一段、また一段。いつもの階段なのに、今日はやけに長く感じた。疲労で足元がおぼつかない。
あと少し。部屋に入ってしまえば、もう何もする必要はない。
そう思った瞬間、足が滑った。
「えっ。」
体が傾く。手すりをつかもうとしたが、指先は空を切った。視界が大きく揺れ、階段の硬い感触が背中に走る。何が起きたのか理解する間もなく、真の体は階段を転がり落ちていった。
鈍い衝撃。
息が詰まり、視界がぼやける。痛いのかどうかさえ、よく分からなかった。ただ、体が思うように動かない。
ああ、これ。
まずいかもしれない。
頭の片隅で、そんなことを考えていた。
救急車を呼ばないと。誰か、助けてくれ。
そう思っても、声が出なかった。
視界の端に、夜空が見えた。街灯の光が滲んでいる。
まだ二十五歳だ。
大学を卒業して、就職して、働いて。これから先、もっといろいろなことができるはずだった。行ってみたい場所もあった。やりたいことだって、まだ残っている。
新作のゲームも買ったばかりだった。途中まで読んでいた小説だって、続きが気になっていた。
こんなところで終わるなんて、思ってもいなかった。
「なんで、こんな……。」
声になったのかも分からない。
後悔ばかりが浮かんでくる。もっと好きなことをしておけばよかった。もっと自分のために時間を使えばよかった。嫌なことを嫌だと言えればよかった。
頑張ればいつか報われる。そう信じて、無理を重ねてきた。それなのに、今の自分には何も残っていない気がした。
せめて。
せめて、次があるのなら。
今度こそ、平穏に暮らしたい。
毎日仕事に追われることもなく、疲れ切って眠るだけの日々でもなく。好きなことをして、好きなものを食べて、気の向くままに過ごせる生活。
豪華な暮らしでなくていい。大金持ちになりたいわけでも、誰かに称賛されたいわけでもない。静かで、自由で、安心できる毎日が欲しかった。
そんな願いを最後に、真の意識は闇へと沈んでいった。
◇◇◇◇
「お目覚めになりましたか。」
穏やかな声が聞こえた。
真はゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは、真っ白な空間だった。床も壁も天井も見当たらない。どこまでも白く、遠近感すら曖昧な場所だった。
自分はどうなったのだろう。
階段から落ちたことは覚えている。体が動かなかったことも。だが、今は痛みがない。手足を動かしても、どこにも違和感がなかった。
「ここ、どこだ?」
「ここは、あなたがいた世界とは異なる場所です。」
声のした方を向くと、一人の女性が立っていた。
長く美しい髪。透き通るような肌。淡い光をまとった衣装。そして、現実離れしたほど整った顔立ち。
あまりにも神々しい姿に、真は思わず息を呑んだ。
どう見ても普通の人間ではない。
というかその人を形容する言葉が見当たらなかった。だがしかし、あえていうなら女神様だった。
「えっと。」
真は何度か瞬きをした。
「もしかして、俺は死んだんですか。」
女性は静かに頷いた。
「はい。あなたは命を落としました。」
「そうですか。」
思ったよりも、冷静に受け止められた。あれだけ体が動かなかったのだ。生きているとは思えなかったし、この状況を見れば、少なくとも普通の病院ではないことくらい分かる。
真は自分の手を見つめた。傷ひとつない。
ということは、ここは死後の世界なのだろうか。
「あの、あなたは?」
「私は女神です。あなたが生きていた世界とは異なる世界を管理し、そこに生きる者たちを見守っています。」
「女神。」
口に出してみると、ますます現実味がなかった。しかし、目の前の女性はどう見ても人間離れしている。
夢だろうか。死ぬ直前に見ている幻覚なのかもしれない。
そう考えたものの、頬をつねっても目は覚めなかった。
「あなたには、もう一度生きる機会が与えられます。」
「え?」
「あなたを、私が管理する世界へ転生させることができます。」
真は目を見開いた。
転生。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。
異世界転生。アニメや漫画、ライトノベルではおなじみの展開だ。事故や病気で命を落とした主人公が、剣と魔法の世界に生まれ変わる。特殊な能力を得たり、仲間と出会ったり、冒険者になって活躍したりする。
そんな物語を、真は何度も楽しんできた。
まさか、自分がその立場になるとは思わなかったが。
「本当に、異世界に転生できるんですか?」
「はい。」
「魔法とか、魔物とか、冒険者とか、そういうのがある世界に。」
「あなたが想像しているものに近い世界だと思います。魔法を使う者もいれば、魔物と戦う者もいます。冒険者として各地を巡り、自由に生きることもできるでしょう。」
真の胸が高鳴った。
冒険者。
その言葉には、どうしようもなく心をくすぐられるものがあった。
剣を腰に下げ、街の冒険者ギルドで依頼を受ける。魔物を討伐して報酬を得る。旅先で仲間と出会い、酒場で食事を楽しむ。
もちろん、現実は物語のように簡単ではないだろう。それでも、あの会社にいたころの生活とは、何もかもが違う。
少なくとも、自分の人生を自分で選べるかもしれない。
「俺、そこで生きていけるんでしょうか。」
「あなたには、新しい人生を歩む機会があります。どのように生きるかは、あなた次第です。」
女神は微笑んだ。その笑顔は、ひどく優しく見えた。
真は少しだけ考えた。
冒険者として名を上げたい、とまでは思わない。強大な魔王を倒して英雄になりたいわけでもない。
できることなら、ほどほどに稼いで、好きなものを食べて、気楽に暮らしたい。
冒険者ギルドで依頼を受け、危険の少ない仕事を選ぶ。余裕ができたら、少し遠くまで旅をしてみる。気に入った場所があれば、そこに家を建てて暮らすのもいい。
そうだ。
異世界でなら、そんな生活ができるかもしれない。
「お願いします。」
真は女神を見つめた。
「もう一度、生きてみたいです。」
「分かりました。あなたの新たな人生が、良きものとなるよう祈っています。」
女神が手を差し伸べる。その手のひらから、柔らかな光が広がった。
足元の感覚が消えていく。白い空間が遠ざかり、意識がゆっくりと別の場所へ引き寄せられていく。
いよいよ、本当に始まるのだ。
新しい人生が。
真は胸の中で、これからの暮らしを思い描いた。
冒険者になって、少しずつお金を稼ぐ。美味しいものを食べて、いずれ自分の家を持つ。休日には好きなことをして、誰にも急かされずに一日を過ごす。
今度こそ、自分の人生を楽しむのだ。
ところが。
転送される直前、女神の表情がわずかに変わった。
「……これは。」
女神が何かに気づいたように顔を上げる。
真には、その意味が分からなかった。
次の瞬間、空間が激しく揺れた。
「な、何だ。」
全身が見えない力に引っ張られる。女神が何かを叫んでいる。しかし、その声は歪んだ空間の向こうへ遠ざかっていった。
淡い光が黒く濁る。
誰かが、こちらを見ている。
そんな気配がした。
「待ちなさい! その者の転送先は――。」
女神の声が途中で途切れた。
真の意識は強引に引きずられ、視界が真っ白に染まる。
そして。
◇◇◇◇
頬に、ざらりとした感触があった。
「……ん。」
真はうめき声を上げ、ゆっくりと目を開けた。
白い空間ではない。
目の前に広がっていたのは、乾いた大地だった。
草木はほとんどなく、ひび割れた地面がどこまでも続いている。遠くには岩だらけの丘が見え、空には雲ひとつなかった。
風が吹くたびに砂が舞い上がり、肌に細かな痛みを残す。
「……っは。」
真はしばらく、目の前の光景を理解できなかった。
ここはどこだ?
さっきまで、女神がいたはずだ。冒険者として暮らせる世界へ転生させてくれると言っていた。これから新しい人生が始まるはずだった。
なのに、なぜ。
「いやいやいや……待て待て待て。」
真は慌てて上半身を起こした。
周囲を見回す。
建物はない。道もない。人影も見当たらない。
あるのは、荒れ果てた大地だけだった。
そして、少し離れた岩場の向こうから。
何かの唸り声が聞こえた。
低く、腹の底に響くような声。
真の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
「……嘘だろ。」
新しい人生は、始まったばかりだった。
どうやら、思い描いていた異世界生活とは、ずいぶん違うものになりそうだった。




