第26話 花嫁を探して②
「ヴィー……」
三年間、一度も届かなかった名を、ロイドはもう一度呼んだ。
先ほどよりも声が出なかった。
女が顔を上げる。
青い瞳が、まっすぐロイドを捉えた。
その瞬間、彼は駆け寄りそうになった。
抱きしめて、名前を呼んで、二度と離さないように腕の中へ閉じ込めたかった。
三年間探していたのだと。
一日も忘れていなかったのだと。
生きていてくれてありがとうと、伝えたかった。
だが、動けなかった。
ビアンカの瞳には、何も浮かんでいない。
ひとかけらの驚きも。
数年ぶりかの懐かしさも。
再会の喜びも。
どれもない。
ロイドの目に映ったのは、見知らぬ旅人を見る、戸惑った表情だった。
「あの……」
ビアンカが小さく首を傾げる。
「私に、声をかけていますか?」
ひどく丁寧な言葉だった。
ロイドが知っている彼女は、そんなふうに話しかけない。
いつも当たり前のように自分の名を呼ぶ。
ロイ、と甘えるように。
ロイド、と怒ったように。
二人きりの時には、耳元で囁くように。
ロイドの視線が、女の腰へ落ちた。
毛布の下に、尾の形はない。
幻ではなかった。
他人の空似ではない。
尾を失った、青い瞳の白銀狼。
右の耳の付け根にある、ごく小さな傷。
幼い頃、ロイドと木へ登って落ちた時についた傷だった。
ビアンカ
間違いなく、彼女だった。
「シルビア!」
その時、背後から男の声が飛んだ。
先ほどナイフを投げていた黒髪の若い男が、こちらへ駆けてくる。
腰には細い投げナイフが何本も下がっていた。
男は車椅子の持ち手に手を置き、ビアンカを庇うようにロイドとの間へ立った。
「どうした。何かされたのか?」
「いいえ、違うの。大丈夫よ」
ビアンカは男を見上げ、安心させるように微笑んだ。
「この人が、私を見て……名前を呼んだから」
「シルビアの名前を?」
シルビアと呼ばれた彼女は、ふるふると首を横に振る。
「ヴィー、って」
男の目が警戒するように細められる。
一方、ロイドの耳には、別の名だけが残った。
シルビア
ここで、ビアンカはそう呼ばれているのか。
別の名で、別の男を信頼し、自分の知らない場所で生きている。
ロイドは拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
その痛みがなければ、正気を保つことさえできなかった。
「あなたは……」
ビアンカが、ロイドを見つめている。
ほんの少し警戒した様子で、不思議そうに眉を寄せていた。
「私を知っているんですか?」
答えなければならない。
おまえはビアンカだと。
俺の妻なのだと。
俺のたった一人の番だと。
そう言わなくては。
だが、ロイドの喉は動かなかった。
彼女がすべてを忘れているのなら。
迫害された過去も。
地下室で見た母親の姿も。
切り落とされた尾も。
崖から落ちた恐怖も。
忘れたことで、こうして笑えているのなら。
自分がその過去を突きつけることは、本当に正しいのか。
ロイドには、わからなくなった。
それに、自分はもう、彼女が愛した頃のロイドではない。
この三年間、罪人を拷問し、殺め、許せない者を容赦なく追い詰めた。
血に濡れた手で、新しい国の土台を作ってきた。
「……人違いだったようだ」
ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
ビアンカの瞳が、わずかに揺れる。
「よく似た女を知っていたものだから」
「そうですか」
「悪かったな」
ロイドは、それ以上彼女を見ていられなかった。
踵を返す。
一歩進むたびに、身体の内側を引き裂かれているようだった。
生きていた。
三年間、望み続けた奇跡が目の前にある。
それなのに、彼女に触れることができない。
自分の名を呼ばせることもできない。
背後から、車椅子の小さな軋みが聞こえた。
振り返ってはいけない。
そう思うのに、耳は彼女の声を拾ってしまう。
「シルビア?」
男が心配そうに呼んでいる。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「わからないの」
ビアンカの声が震えていた。
「どうしてかしら」
しばらく沈黙があった。
それから、彼女は胸元を押さえて、小さく呟いた。
「あの人を見たら、ここが、すごく痛くて」
ロイドの足が止まった。
振り返ることはできなかった。
けれど、三年間、何を呼びかけても答えなかった胸の奥で。
確かに、ビアンカの遠吠えが聞こえた気がした。
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