もう一色
朝七時、七:〇〇am、三一時。どれだろう。気分は三一時だ。寝起きがものすごく悪い。見た目にも表れている。寝癖がものすごい。今日は活火山か。
歯磨きもほどほどに、消費期限に目を通さなくなった食パンを片手にあのジャムを塗る。私は適量だ。まだパンの粗目が見える。
「はむ」
美味しいという電気信号は受け取るが、いかんせん実感が湧かない。どうなっているんだ私の体は。味覚をどこに置いてきてしまったのだ。はたまたこのジャムのせいか。
「行ってきます」
今ではルーティンと化しているこの行為も、最初は寂しかったもんだ。何も帰ってこないと分かっている廊下に一人呟くのは来るものがあったから。
「おっはよっさんっ。エビシは今日もギリギリだね」
家を後にして五分ほど、いつもの交差点にデフはいる。決まって右足に重心を置き、右腰に右手を添える。それが彼なりの立つというものなのだろう。
「ギリギリなのは一分を六〇秒と勝手に決めた世界のせいだ」
「世界を罵るか? それは僕の神を罵るのと同じだぞ」
「知ったことか。私の神も世界を作っているが、別に悪いものは悪いと言う」
「まっ、それもそうか。その程度で怒んないだろうし」
通学路を歩く。聞こえはいいがただの道だ。大人になれば出勤経路というのだろう。ナビに従えば順路か。彼に言わせれば、
「ドロドロじゃなくてよかったよな」
「なにが」
「僕たちが歩くこの道がだよ」
まただ。また省略している。彼はさぞスキップがうまいのだろう。二人でUNOをしたらきっとスキップしかしない。手札に一枚もなくても。そんな気がする。
「な、に、が」
「順番が違えばそうなっていたかもしれないだろう? 固まるより前に、僕たちが歩かなくてよかった」
「君は二段階認証でもしてるのかい。いつも私が二回聞かないと答えないが」
「まさか、君ほど話を聞いてくれるのは君しかいないだろう」
また適当を並べている。そんな会話をいくつか交わした頃、チャイムの余韻に浸っている正門を飛びこえ、下駄箱に靴をしまう。
「そういえば、今日転校生が来るらしいよ」
「初耳だ。どうして知っているんだ」
「昨日転校生に会った」
「それはとんだネタバレだったな」
転校前日に転校先の生徒と会うとは、その生徒も早とちりな人間だ。あと一日待てばいいものを。まぁ、そうそう人の出会いを制御できるものでもないか。
「その転校生の名は何というんだ」
「知らないよ、僕は名前を覚えるのが苦手なんだ」
たったっと廊下を歩く音が馴染んでいくと同時に、ある教室から聞き馴染みのある声が聞こえてくる。私たちの担任が何かを話しているらしい。朝礼からさほど時間が経っていないことから、恐らくデフの言っていた転校生だろう。
「おはようございます」
「おっはさん!」
目立ちたくないならデフの隣に居なければいい話なのだ。トイレか何かといって別で来るべきだった。
「ちょうどいいとこに来た。デフ、エビシ、転校生だ。ほら」
担任の横には私やデフよりも背丈の低い、黒髪の少女が立っていた。体の三分の一程もある彼女の髪が、風もない教室にもかかわらず不思議と靡いて見え、カーテンよりもこの空間に馴染んでいた。しかしそれよりも目を、いや耳を引いたのは声だった。
「初めまして。グヒといいます。秋からの転校になりますが、よろしくお願いします」
彼女の声は大したものだった。初めて聞くにも関わらず印象に残る。可愛いとか綺麗とか、そういうものではない。何か頭に残る質をしている。
彼女はさっと頭を下げ、ふわっと上げた。どこか、育ちがよさそうだ。これが育ちのいい人間でなければ、私なんか育ってすらない。
「やっぱ昨日の子じゃん」
デフは失礼を覚えずに育ったのか、さっそく昨日のたまたまについて話し出していた。
「はて、どこかでお会いしましたか?」
おかしな話だ。デフに聞いていた話と違うではないか。どちらかが嘘つきか、どちらかの勘違いか。
「あれ、そうだっけか。人違いかも」
違和感、その時感じたのはそれだ。私の知るデフが簡単に折れる人間ではなかったからか、それとも初めての展開に、私自身も困惑しているのか。春でも夏でもない、虫が騒ぎ出す頃に感じる胸の綿がほつれる感覚が、私の目つきを訝しげに細めさせた。
「あなたも、私に会ったのですか?」
「いえ、私は。彼、デフが会っていると聞いていたので。少し驚いてしまいました」
「誰にでも勘違いはありますからね」
心臓が、やけに鼓動する。一度、慣れた感覚だ。この感覚に身をゆだねれば簡単に生きられる、その瞬間のあれ。
「 そうですかね」
私は強引に彼女と担任の目の前を横切り、自分の席へと着いた。金魚の糞のようについてきていたデフも右隣に座り、席を取られたクラスメイトのジェキがソワソワしている。可哀そうに。
「お前って、よそ向けだとああなのな」
「君はよそ向けを作りなよ」
「それじゃあ、グヒの席は......。今開いてるのはデフの席か。じゃあそこで」
デフの席に座ろうとしていたジェキがソワソワを超えておどおどしている。
「これからよろしくお願いします」
厄介なことにデフは俺の左隣だ。彼女からは質のいい何かとは別に、不思議な何かを感じる。まるで、デフの時に感じたそれに近い。
「ああ、よろしくな」
隣に視線を向けた時、俺たちの日常に新たな色が生まれた気がした。




