2.
桜の花はピンク色だ。当たり前である。
世の中は、当たり前で溢れている。その中で、当たり前ではないことを探すのは一苦労だ。それでも、案外その当たり前ではないことは、日常の中でよく見落としていることも多い。
例えば…そう。普通はみんな、家族がいる。帰る家があり、笑顔で迎えてくれる家族がいる。それが、自身にはいないということ。
幼い頃に家族を亡くし、二人きりで過ごしてきた祖母も、今は入院生活だ。
この広々とした家で、一人で過ごすことにはもう慣れた。家事もあらかた、自分でこなせるようにもなった。今のところ、それに不満は無い。
ただ一つ不満があるのだとすれば…家族が欲しい。一緒に協力し合い、偶に喧嘩もして、そうして笑い合える、大事な存在が。
最近、一人の彼氏ができた。いや、もしかしたらずっと前から、お互いにハッキリとしないそれとない関係だったのかもしれない。
自分にとって彼は、家族のように大切な存在だ。彼の存在は大きく、二度と失いたくない存在だ。
だが、それでも彼との関係は、彼氏という名目のままだ。家族でもなければ、旦那とか、夫とか、そういった大きなものでもなく、ただの恋人なのである。
それが高校生のくせに、妙にもどかしくて辛く感じる時がある。早く家族になりたい。そう思ったことは何度目か。早く家庭を築いて、彼と日々を過ごし、彼との間にできた子供たちと生活をしたい。家族の当たり前を知らない自分は、それを一日でも早く知りたかった。
そんな日々を夢見ながら、今日は高校三年生の始業式を迎える。洗面台でクシを使い髪型を整えながら、黙々と自身の顔を見ていた。
そういえばこの間、彼に言われた事がある。「やっぱりお前の猫目は可愛いよな」と。
―私、猫目なのかなぁ…?
確かに昔から、自身は垂れ目よりも吊り目がちなことは分かっていた。だが、いざ猫目と言われると、それがどうなのかはイマイチ分からない。
正直猫よりも犬派の自分では、喜んでいいのか否か、あまり決定づけられなかった。まぁそこは、彼に喜んでもらえているだけ、よしとしておこう。
キッチンのほうから、チンという音が聞こえた。トースターに入れたパンが焼けたのだろう。
祖母が入院してから、それとなく洋風の食が増えた。トースターがある割に今まであまりパンは食べてこなかったし、スパゲティやパスタは、人生で片手で数えるほどしか食べたことがない。
ある意味これはチャンスと自分に言い聞かせては、それらを食し感動する日々が続いていた。
焼き上がったトーストに、バターを塗り込む。素朴だが、これがまた美味しい。一口食べると、トーストがサクッといい音を出した。
―それにしても…。
机の上のリモコンでテレビの電源をつける。ニュース番組の左上に表示されている時間は、まだ六時過ぎである。
祖母と生活をしていると、どうしても朝食が早い。その為、この時間帯に起きてしまうことが当たり前で、既に体に染みついてしまっている。大体は祖母と雑談をすることが日課なのだが、ここ一ヶ月はそれが出来ずに、暇な時間となっていた。
―…そうだ!
ふと、同じく机の上に置いてあったスマートフォンを手に取る。
電話帳を開き、一人の名前を表示しては、悪戯心でその人物に電話をかけた。
ぷるるる…。七、八回ほどコールが鳴っては、留守番電話センターに繋がった。やはり寝ている。仕方ない、もう一度かけてやろう。一度電話を切ると、再び同じダイヤルに電話をかけた。
再び七回目のコールが鳴った後。ようやくその声は聞こえてきた。
「んー…誰」
聞き慣れた声。それでもとても眠たそうに、ガラガラな寝起きの声だった。
「おはようございます。モーニングコールですよ」
「ああ…?心奈か?」
「えへへ。どう?起きた?」
「バカ野郎…今何時だ…まだ六時過ぎじゃねぇかよ、まだ一時間も寝られんぞおい」
眠気と苛立ちが混じった声をそれはあげた。
「偶には早起きもいいでしょ?暇だから、雑談でも付き合ってよ」
「ああ?…おめぇなあにいってんふぁおお…」
欠伸交じりに言った言葉は、結局何を告げたのか分からなかった。
「もう…ヒロ!起きなさいよ!」
「うぉあ!?いきなり大声出すんじゃねぇよ…」
心奈の彼。真田裕人が、驚いた様子で言った。どうやら、やっと目が覚めたらしい。
「お、起きましたねぇ。とりあえず、トイレとか色々済ませたら、またかけてよ。待ってるから」
「ああ?…わぁったよ」
舌打ち交じりで面倒くさそうに彼は告げると、ぷつりと電話が途絶えた。
心奈は彼からの電話をウキウキと待ちながら、トーストを一口かじった。
「ホント酷いよね!あいつ!」
心奈は、新しい教室で叫んだ。
「まぁまぁ。寝起きなんだもの、仕方ないんじゃないかな?」
その話を聞いていた親友。宝木美帆が、苦笑いを浮かべている。
「私は犬派だーって言った途端、上から目線で『猫のほうが頭がいい』とか、『犬はただただ本能で生きてるだけ』とか、どっから仕入れてきたかも分からない雑学でドヤ顔しちゃってさ!酷いったりゃありゃしないよ!」
「あはは…」
「もうっ!今度会ったらビンタ一発食らわせてやるんだから!」
心奈は机に突っ伏すると、大きくため息を吐いた。
「でもよかったなぁ。また心奈と同じクラスで。やっぱり二人の事は心配だし、いちいち聞きに行く手間が省けてよかったよ」
美帆が言った。
「んー?まぁ、それはそうだねぇ。おかげであいつの愚痴を、すぐ美帆に聞いてもらえるしね」
「はは…」
心奈の高校は、毎年クラス替えが行われる。完全にランダム制な為、今回美帆と連続で同じクラスになれたのは、稀にみるラッキーパターンらしい。
「そういえば、裕人君たちはクラス替えってあるのかな?」
「あー。あっちは三年生は無いんだってさぁ。今日あいつに聞いたら、『まぁいつもの三人プラスアルファで璃子がいるからよかったけど』って言ってた」
声色を変えて、彼の真似をして話した。
「へぇ。裕人君も裕人君で、運が良かったんだね」
「みたいだねぇ…」
結局、怒りながらも彼の話をしてしまうのは、本心では彼の事を怒っていないからなのだろう。別に彼の事を嫌いになった訳じゃないし、ただちょっと、ムカムカしているだけだ。
昔、彼と仲良くなってから、この感情を知ることができた。
「さて、そろそろ時間だから、席戻るね」
「あ、うん。分かった」
美帆は立ち上がると、自分の席へと戻っていってしまった。名列順で並んでいるため、彼女とはあまり席は近くないのが残念だ。
心奈は机の上に頬杖をつくと、ただただ無心に時計を見ていた。
「お、君が俺の隣?」
ふと、隣の席やってきては、そこに座った男子生徒に声を掛けられた。彼の事は今日初めて見るし、完全に初対面だ。名前も知らなければ、存在すらも初めて知った。
「あ、うん」
「ふぅん。名列一番だから、名前はあで始まるよね?あ、待って!当ててみるから!」
「ふぇ?あ、うん」
見るからに爽やか系男子で、優しそうな印象が漂う彼は、急に必死になって自分の苗字を考え始めた。
「んーっと、赤城とか?」
「違うよ」
「あれ、じゃあ…青山とか!」
「ううん」
「んー…赤松…とかは似合わなさそうだし…」
―別にそこまで必死にならなくてもいいんじゃないかな…?
できることなら、さっさと自己紹介をしてこの会話を終わらせたい。彼氏ができたといっても、やはりそれなりにまだ初対面の異性と話すことには、抵抗があった。
昔親友だった彼女には昔、これを男性恐怖症と呼ぶんだと言われたこともある。確かに昔は、男の子と話す以前に、顔を見ることすら出来なかった。それと比べたら、だいぶ進歩してきたと思う。
「うーん。じゃあヒント!」
「えぇ?うーん。最初は、あか。から始まるよ」
「あか?あかあか…赤平、赤野、赤井、赤津、赤尾、赤谷…」
「ふふっ、全部違うよ」
「嘘だぁ?もう分かんないや」
彼は諦めたように苦笑いを浮かべた。きっともう、名乗ってもいいよというサインだろう。
「じゃあ、言うね?私は明月心奈。よろしくね」
「あかづき?へぇ、珍しい苗字だな。よろしくな、心奈」
「ふぇぇ!?な、なんで下の名前なの?」
突然下の名前で呼ばれて、思わずドキリとする。
「ん?あれ、俺の友達はみんな下の名前で呼んでるんだけど、もしかして嫌かな?」
「え、えーっと…まぁ、呼びやすいほうでいいよ…」
「お、ホント?オッケー、心奈。じゃあ、今度は俺の名前当ててみてよ!」
「わ、私もやるの!?」
「もちろん!俺は最初、おから始まるよ」
「お…?」
―な、なんでこんなことしてるんだっけ、私?
気がつけば話を彼に流されてしまっている。つくづく思うのだが、美帆然り、彼然り、自分はよく話に流されやすいタイプなのかもしれないと、最近思うようになってきた。
「お…大森、とか?」
「お!あー、やっぱりそうくるよなぁ。正解。俺、大森誠司。よろしく」
「お、大森君?分かったよ、よろしくね」
大森誠司。話は多少強引なのだが、彼にはそれに邪気が見られない。きっと、友達も多いんだろうな、と心奈は感じた。
「いやー、大森って人、やっぱり多いよなぁ。簡単に名前当てられちゃうんだもんなぁ」
「まぁ…それは仕方ないね」
「んー、そうなんだけどさぁ」
キーンコーンカーンコーン…。彼が言ったタイミングで、校内にチャイムが鳴り響いた。
それとほぼ同時に、教室に臨時の男性教師が入ってくる。担任発表はこの後の始業式の時なので、この先生が担任とはまだ分からないのだ。
「はい、じゃあ時間だから、みんな体育館移動してー」
先生が指示すると、クラスのみんなは一斉に教室を出始めた。
「それじゃ、また後で話そうな!」
「え?あ、うん」
大森がこちらに手を挙げて、ニコニコして言った。
彼は数人の男子グループの輪の中に入ると、楽しそうに話しだしていた。
「こーこな!」
突然、肩をバシッと叩かれた。確認しなくても、それが美帆ということは分かった。
「なんか楽しそうに話してたけど、大丈夫?」
「へ?大丈夫って、どういう大丈夫?」
「うーん?男の子と話してて怖くないかっていうのと…」
美帆はそこで一旦言葉を切ると、楽しそうに微笑んだ。
「あの子を好きになっちゃわないかってこと」
「す、好き!?何言ってんの美帆。私には一応…!?むぐ…」
「分かってるよ!その上で、心奈が二股かけないかが心配なの!」
美帆が心奈の口を強引に押さえた。
「ぷは…。二股って言われても…私まだそんなの分かんないし…」
「んー。そう?じゃあ私から、一つだけアドバイス」
彼女は数歩歩いて心奈の前に立つと、人差し指を立てながらこう言った。
「裕人君の事。予め、もっと知っておいたほうがいいかもね」
「ヒロの事…?」
「うん。なんだかんだ言ってても、まだまだ知らないこといっぱいあるでしょ?それを知ったうえで、やっぱり裕人君なのか、それとも違う男の子なのか。それは、心奈が自分で決めることだよ」
「私が決める?」
そういえば今まで、裕人以外の異性を考えたこともなかった。それもそうだ。数年間、他人を拒絶しながら生きてきたのだから、誰かを想う筈がない。二股という言葉の意味を、心奈はまだ深く理解できなかった。
「…あ!ほら、心奈!もうみんな先行っちゃってるよ!行こう!」
「ふぇぇ!?ちょ、美帆!待ってよぉ!」
言い逃げして走って行く美帆を、心奈は考える間もなく急いで追いかけた。




