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八つ目の大罪  作者: act
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第5話 傲慢の男

「使わないなら――ここで終わる」


男の声が、狭い路地に落ちた。


黒世透は動かなかった。


正確には。


動けなかった。


男の立ち方が変わった瞬間。


空気まで変わったように感じた。


重心は低い。


肩に力は入っていない。


両手は自然に上がっている。


構えとして派手ではない。


でも。


隙がない。


さっきまでの二人とは違う。


明らかに。


戦うことに慣れている。


透はフードの奥で男を見る。


『……』


聞こえない。


欲の声。


何もないわけじゃない。


ある。


ただ。


遠い。


深い。


薄い膜の向こうにあるみたいに。


「能力を使え」


男がもう一度言う。


透は答えない。


代わりに聞く。


「俺の能力、知ってるみたいだな」


男の目がわずかに細くなる。


「強欲」


それだけ。


「名前までついてる」


透は壁際へ半歩ずれる。


逃げるためじゃない。


距離を見るため。


「誰が決めた」


男は答えない。


「お前たち?」


沈黙。


透は続ける。


「何百年も記録してるんだろ」


男の表情は変わらない。


でも。


ほんの一瞬。


呼吸が浅くなった。


当たり。


「……どこまで聞いた」


初めて。


男から質問が返ってくる。


透は口元だけで笑った。


「十分」


嘘。


知っていることは少ない。


でも。


知っているふりをする方が。


相手は余計なことを喋る。


「強欲は、触れないと使えないと思ってる?」


男の視線が。


透の右手へ落ちた。


一瞬だけ。


それでいい。


接触条件。


こいつらは知っている。


少なくとも。


過去の記録として。


「やっぱり」


透が言う。


男は何も返さない。


でも。


もう遅い。


反応が答えになっている。


「前にもいたんだな」


男の眉がわずかに動いた。


「強欲が」


沈黙。


透は確信する。


いた。


自分以外に。


過去にも。


「お前たちは何百年も観察している」


男が低く言った。


「七つの大罪を」


透はその言葉を拾う。


お前たち。


七つ。


何百年も。


記録じゃない。


観察。


もっと体系的。


「教団か」


男の視線が止まる。


今度は。


分かりやすかった。


透は内心で整理する。


組織。


七つの大罪。


長期間の観察。


能力者への対処法。


一ノ瀬麗の監視。


こいつらは。


かなり深く知っている。


「名前まで知ってるなら」


透は言う。


「強欲が何をするかも知ってる?」


男が一歩前へ出る。


「欲望を解放する」


その言葉。


透の中で引っかかる。


解放。


自分は。


そう呼んだことがない。


「解放」


透が繰り返す。


男の顔がわずかに歪む。


言い過ぎた。


そういう顔。


透はそこを逃さない。


「そう呼ぶんだ」


男はもう答えなかった。


次の瞬間。


距離が消えた。


速い。


透の視界から。


男の身体が一気に大きくなる。


拳。


顔。


透は反射的に頭を下げる。


風が耳の横を抜ける。


避けた。


そう思った直後。


腹に衝撃。


蹴り。


息が消える。


透の背中が壁へぶつかった。


肺が潰れたみたいに。


空気が入らない。


「っ」


声が出ない。


男は止まらない。


透が体勢を戻す前に。


腕を掴まれる。


捻られる。


肩に痛み。


そのまま地面へ押し付けられそうになる。


透は無理に耐えない。


身体を回す。


腕を抜く。


少しだけ。


遅い。


拳が頬をかすめる。


視界が揺れる。


透は数歩下がった。


口の中に鉄の味。


男は追ってこない。


余裕がある。


「能力を持った程度で」


男が言う。


「自分が特別だと思ったか」


透は唇の端を拭う。


「別に」


本心だった。


少なくとも。


さっきまでは。


特別。


そんな言葉に興味はなかった。


ただ。


この男は。


自分より強い。


能力なしで。


知識と。


訓練と。


判断だけで。


透を押している。


それが。


少し。


気に入らなかった。


「お前みたいなのは何度も見てきた」


男が言う。


「力を得て、勘違いする」


透は男を見る。


『……』


まだ聞こえない。


浅い。


薄い。


表面に出ているものは。


全部制御されている。


怒りも。


恐怖も。


焦りも。


ない。


そのせいで。


掴めない。


「何度も?」


透は息を整えながら聞く。


「強欲も?」


男が前へ出る。


答えない。


でも。


それだけで十分だった。


透は後退する。


一歩。


二歩。


男の拳。


避ける。


二発目。


肩に当たる。


三発目。


腹。


また。


息が止まる。


透は膝をつきかける。


男の手がフードへ伸びる。


まずい。


顔。


透はその手を払い。


距離を取る。


フードは残った。


男が初めて少し苛立つ。


ほんの一瞬。


『逃がすな』


聞こえた。


浅い。


使えない。


もっと。


透は目を閉じない。


男を見る。


その奥。


欲しい。


もっと。


表面じゃない。


この男の。


もっと深いところ。


何を抑えている。


何を隠している。


何を欲しがっている。


知りたい。


透の頭の奥で。


何かが軋んだ。


痛み。


こめかみ。


耳の奥。


視界の端が滲む。


男がまた踏み込む。


『負けるはずがない』


聞こえた。


透の目が開く。


今までより。


はっきり。


でも。


声の位置が違う。


深い。


さっきまで聞こえなかった場所。


男の拳を避ける。


『俺はこいつらとは違う』


二つ目。


透は壁際へ下がる。


男が追う。


『俺は正しい』


三つ目。


一つじゃない。


重なっている。


欲望。


いや。


信念に近い。


ずっと。


本人が正しいと思っているもの。


そのさらに奥。


透は。


もっと。


聞こうとする。


痛い。


頭が割れそうになる。


それでも。


やめない。


知りたい。


この男が。


何を。


一番。


隠しているのか。


男が透の胸ぐらを掴む。


「終わりだ」


距離。


ゼロ。


透の手が。


男の手首へ触れる。


その瞬間。


聞こえた。


『俺は――』


一段深く。


『大罪を持つ人間より上だ』


透の指が止まる。


これだ。


「そういうことか」


男の表情が変わる。


「何が」


透は答えない。


代わりに。


その欲を。


押し上げる。


解放。


教団がそう呼んだ。


なら。


その言葉を借りればいい。


男の身体が止まった。


一秒。


二秒。


透を掴む手に力が入る。


強く。


「……何をした」


声が低くなる。


さっきまでと違う。


冷静さが。


少しずつ。


削れていく。


『負けるはずがない』


『俺はこいつらとは違う』


『俺は正しい』


『俺は上だ』


重なる。


どんどん。


大きくなる。


男が透を壁へ叩きつける。


衝撃。


でも。


動きが雑になった。


速い。


強い。


なのに。


読める。


怒りじゃない。


焦りでもない。


証明したがっている。


自分が上だと。


透は拳を避ける。


今度は。


ほんの少し余裕がある。


男の蹴り。


半歩ずらす。


壁に当たる。


鈍い音。


「お前みたいな」


男が息を荒くする。


「力に振り回されるだけの人間が」


拳。


透はかわす。


「俺より上なわけがない」


その言葉。


もう。


心の中じゃない。


口に出ている。


透は男を見る。


「俺は何も言ってないけど」


男の目が揺れる。


一瞬。


それだけで。


十分。


透は足を払う。


男の体勢が崩れる。


倒れない。


さすがに。


でも。


初めて。


明確な隙。


透は肩を押す。


男が壁へぶつかる。


透は距離を取る。


追撃しない。


勝つ必要はない。


殺す必要も。


倒し切る必要もない。


欲しいのは。


出口。


そして。


情報。


「一つだけ」


透が言う。


男が睨む。


「教団は。大罪を消せる?」


男の顔。


わずかな反応。


ある。


方法が。


透はそれだけで十分だった。


「……お前」


「じゃあ」


透は背を向ける。


「また」


男が追おうとする。


でも。


一歩。


遅い。


透は路地を曲がる。


走る。


後ろで足音。


でも。


さっきまでより。


離れていく。


男は。


冷静さを失っている。


透は振り返らない。


フードを押さえる。


頬が痛い。


腹も。


身体は。


かなりひどい。


それでも。


悪くない。


七つの大罪は実在する。


過去にも強欲がいた。


教団は能力を記録している。


自分の力を「解放」と呼んでいる。


そして。


大罪を消す方法も。


多分。


持っている。


透は暗い道を抜ける。


痛みより。


頭の中の情報の方が。


気になっていた。


それと。


もう一つ。


さっき。


聞こえた。


あの深さ。


今までとは違う。


人の中には。


まだ。


もっと下がある。


透は自分の右手を見る。


知りたい。


どこまで。


聞けるのか。


◇


路地に残された男は。


動かなかった。


壁に片手をつき。


荒い呼吸を整える。


部下が近づく。


「大丈夫ですか」


男は答えない。


頭の中に。


さっきの言葉が残っている。


俺はこいつらとは違う。


俺は正しい。


俺は上だ。


否定したい。


そんなものは。


自分の中にはない。


教団に入ったのは。


正しいから。


大罪を持つ人間を管理するのは。


必要だから。


危険だから。


そこに。


上下なんて。


ない。


そう思っていた。


「……違う」


小さく。


声が漏れる。


でも。


否定するほど。


さっきの感覚が。


鮮明になる。


大罪を持つ人間。


制御できない人間。


欲望に振り回される人間。


自分は。


違う。


鍛えてきた。


学んできた。


抑えてきた。


正しくあろうとしてきた。


だから。


自分の方が。


上であるべきだ。


男の呼吸が止まる。


その考えを。


初めて。


自分で認めた。


瞬間。


空気が。


わずかに震えた。


部下が顔を上げる。


「……今」


男は自分の手を見る。


何かが。


変わった。


身体じゃない。


もっと。


内側。


ずっと押し込めていたものが。


形を持った。


男はゆっくり顔を上げる。


暗い路地の先。


強欲が消えた方向を見る。


そして。


小さく呟く。


「次は」


声は。


もう。


さっきまでと同じではなかった。


「俺が上だ」




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