第1話 実験
人間には、欲がある。
誰かを羨むこともある。
腹が立つこともある。
何もしたくない日もある。
愛されたいと願うこともある。
それを罪と呼ぶのなら、
たぶん、罪のない人間なんて存在しない。
少なくとも――
俺は、そう思っていた。
あの日までは。
人の心の奥に隠されたものが、
聞こえるようになるまでは。
第1話 実験
「やめたい」
昼休みの教室に、そんな声が落ちた。
けれど、誰も反応しない。
窓際の後ろから三番目。男子生徒が友人と笑っている。机に広げたスマホの画面を指差しながら、昨夜のゲームの話をしていた。
口元は笑っている。
声の調子も明るい。
それでも、もう一度。
『やめたい』
黒世透は頬杖をついたまま、その男子を見る。
聞こえているのは自分だけらしい。
正確には、耳で聞いている感じではなかった。音として空気を震わせるわけでもない。ただ、言葉だけが頭の奥へ直接落ちてくる。
ここ数日で、同じことが何度かあった。
誰かが普通に笑っている時。
何でもない顔で廊下を歩いている時。
教師の話を聞いている時。
ふいに、その人間が口にはしない言葉が聞こえる。
ただし、考えていること全部ではない。
もし全部なら、この教室にいるだけで頭がおかしくなるはずだ。
聞こえるのは、ごく一部。
しかも。
『やめたい』
妙に強いものだけ。
透は視線を男子から外した。
何をやめたいのかまでは分からない。
部活か。
友人関係か。
学校そのものか。
そこはどうでもよかった。
重要なのは、あの言葉が本当に本人の中にあるのかどうか。
男子が席を立った。
「購買行ってくるわ」
友人へそう言い残し、教室を出る。
透は少し間を空けて立ち上がった。
追っていると思われない程度に。
廊下には昼休み特有のざわつきが残っている。階段へ向かう生徒、教室を行き来する生徒、購買へ急ぐ生徒。
人目は十分にある。
だからこそ都合がいい。
階段の踊り場で、男子が向かいから来た生徒を避けるため半歩横へずれた。
透はその横を通る。
「あ、ごめん」
肩が軽く触れた。
ほんの一瞬。
男子が足を止める。
透は振り返らなかった。
そのまま階段を下りる。
五歩。
六歩。
後ろから声がした。
「……やっぱ無理だわ」
一緒にいた友人が聞き返す。
「何が?」
「部活。今日、辞めるって言う」
透の足は止まらない。
「は? 急じゃね?」
「急じゃない。ずっと辞めたかった」
男子の声に迷いがない。
さっきまで笑っていた時とは違う。
透は階段を下りきり、人の少ない廊下へ曲がった。
そこで初めて、わずかに息を吐いた。
三回目。
聞こえた言葉。
接触。
その直後の行動。
偶然と考えるには、もう回数が多すぎる。
自分に何かが起きている。
そこまでは確定していい。
問題は。
何が起きているのか。
透は窓に映った自分を見る。
いつもと変わらない顔。
当然だ。
見た目まで変わっていたら、それはそれで面倒だった。
能力。
そう呼ぶにはまだ抵抗がある。
けれど、他に適当な言葉もない。
人の中にある何かが聞こえる。
触れると、それが表に出る。
少なくとも今のところは。
透は教室へ戻った。
嬉しいという感情はなかった。
怖いとも、まだ思わない。
ただ。
もう少し確かめたい。
それだけだった。
◇
最初に起きたのは四日前。
放課後。
校舎裏の駐輪場へ向かう途中だった。
夕方の光が校舎の壁を橙色に染め、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえていた。
建物の陰。
同じクラスの男子が、三人組に囲まれていた。
相手は別の学校の制服だった。
「だから貸せって。明日返すから」
「いや、金ないんで」
「じゃあスマホ」
一人が笑いながら同級生の肩へ腕を回している。
冗談のような口調。
でも、距離が近すぎる。
同級生も笑っていた。
笑うしかない人間の顔で。
透は少し離れた場所で足を止めた。
助ける。
そういう選択肢が頭に浮かばなかったわけではない。
ただ、三対一。
自分が入れば三対二。
殴り合いになれば余計に面倒になる。
先生を呼ぶ方が早い。
そう判断して、踵を返しかけた時だった。
『こいつムカつく』
透の足が止まる。
後ろを振り返る。
誰も喋っていない。
『マジで殴りたい』
今度は、はっきりした。
囲まれている同級生。
俯いている。
肩はわずかに震えている。
口は閉じたまま。
なのに。
『殴りたい』
言葉が頭の中へ響く。
『殴りたい』
さらに強くなる。
耳鳴りに近い。
透は眉を寄せた。
うるさい。
理由は、それだけだった。
声を止めたかった。
透は三人組へ近づいた。
「何?」
一人が睨む。
透は相手を無視して、同級生の横へ立った。
「先生来るぞ」
咄嗟に出た言葉だった。
そのまま。
同級生の肩に触れる。
次の瞬間。
鈍い音がした。
一番近くにいた男の顔が横へ弾ける。
誰もすぐには動けなかった。
透も。
殴った本人も。
数秒遅れて、殴られた男が叫ぶ。
「は?」
同級生がもう一発殴った。
今度は鼻。
血が飛ぶ。
「おい!」
残りの二人が掴みにかかる。
同級生は止まらない。
押されても。
殴られても。
また拳を振る。
その顔には、恐怖も迷いもなかった。
『もっと』
透の頭へ声が響く。
『もっと殴りたい』
さっきより強い。
いや。
強すぎる。
『もっと』
同級生が倒れた相手へ跨がろうとする。
このまま続けば。
まずい。
そこまで考えた瞬間。
「やめろ」
透の声が出た。
同級生の身体が止まった。
糸が切れたように。
その場へ崩れる。
三人組は顔を見合わせた。
倒れた同級生。
立っている透。
意味が分からない。
その表情のまま、逃げていった。
透は追わなかった。
地面に倒れた同級生を見る。
呼吸はしている。
意識だけがない。
そして。
さっきまで頭を埋めていた声も消えていた。
静かだった。
透は自分の右手を見る。
何が起きた。
答えは出なかった。
ただ。
その日を境に。
人の中にある声が聞こえるようになった。
◇
午後の授業が終わる。
教師が教室を出た途端、椅子を引く音と話し声が一気に広がった。
透は席を立つ準備をしていた。
今日の結果だけでも、かなり分かった。
接触は条件の一つ。
そして、聞こえた言葉に沿って相手が動く。
ただし。
あの言葉が何なのか。
欲望。
本音。
衝動。
どれもしっくりこない。
考えていること全部ではないのは確かだった。
むしろ。
普段なら表に出さないものだけが聞こえているように思える。
「なあ」
声をかけられた。
顔を上げる。
四日前の同級生だった。
「あの日さ」
一瞬。
身体が警戒する。
顔には出さない。
「どの日?」
「ほら。俺が倒れた日」
「……ああ」
病院では異常なしだったらしい。
本人も、貧血か何かだと思っていた。
少なくとも。
今までは。
同級生が周囲を気にしながら声を落とす。
「黒世、変なこと聞くけどさ」
「何」
「あの時、俺……誰か殴った?」
透は相手を見る。
「なんで?」
「分かんないけど」
同級生は右手を眺める。
「夢見るんだよ」
「夢?」
「誰か殴ってる夢」
乾いた笑い。
でも、目は笑っていない。
「妙にリアルなんだよな。拳の感覚とか。手が痛い感じとか」
透は黙った。
あの日。
同級生は、自分が暴れたことを覚えていなかった。
絡まれていたこと。
透が現れたこと。
そこまでは覚えている。
その先だけが抜けていた。
完全に消えていたと思っていた。
違う。
戻ってきている。
夢という形で。
あるいは。
最初から消えてはいなかったのかもしれない。
「殴ったの?」
同級生が聞く。
「知らない」
透は即答した。
嘘ではない。
自分は殴っていない。
同級生は少しだけ安心した顔をした。
「そっか。変なこと聞いて悪い」
そう言って離れていく。
透はその背中を見送った。
記憶は戻る。
なら。
自分のことも思い出す可能性がある。
肩へ触れた直後に何が起きたのか。
これは面倒だ。
次からはもっと慎重に使う必要がある。
普通なら。
ここで止めるべきなのかもしれない。
関わらない。
使わない。
それが一番安全だ。
透はそう考えた。
考えただけだった。
止めようとは思わなかった。
むしろ。
記憶が戻るなら。
どこまで戻る。
時間が経てば全部戻るのか。
夢だけなのか。
本人は自分の行動をどう受け止めるのか。
考えることが増える。
それを不快には感じなかった。
自分でも少し意外だった。
その時。
「楽しそう」
女の声がした。
教室の入口。
見知らぬ女子が立っていた。
この学校の制服ではない。
肩より少し長い髪。
夕方の逆光で、表情の細部までは見えない。
でも。
こちらを見ていることだけは分かった。
目が合う。
女子はわずかに笑った。
その瞬間。
『見つけた』
頭の奥へ言葉が落ちた。
透は動かなかった。
今まで聞いた声とは違う。
殴りたい。
逃げたい。
やめたい。
そういう押し込められた衝動とは違う。
もっと明確で。
狙いがある。
しかも。
自分へ向いている。
「誰?」
透が聞く。
女子は答えない。
口元だけに笑みを残して、廊下の向こうへ消えた。
数秒。
透はそのまま座っていた。
それから立ち上がる。
教室の外。
右。
誰もいない。
左。
やはり誰もいない。
足音すら聞こえなかった。
透は廊下の中央で立ち止まる。
妙だ。
でも。
嫌な感じはしなかった。
知らないことが増えた。
それだけだった。
記憶。
自分以外の誰か。
そして。
自分を知っているらしい女。
明日。
確認すればいい。
透は空になりかけた教室へ戻る。
窓の外では、夕日が校舎の端へ沈みかけていた。
胸の奥に残っているのは恐怖ではない。
もっと単純なものだった。
知りたい。
さっきの女が何者なのか。
自分に何が起きているのか。
この力が。
どこまで続くのか。




