アサ
霧は低く垂れこめ、村の屋根をひとつの白い塊のように包んでいる。
茅で葺かれた低い屋がいくつも寄り添うように並び、その間に踏み固められた道が走っていた。
湿った土の匂いが、まだ朝の眠りの残る空気の中に沈んでいる。
――どこかで、音がした。
木と土とが触れ合う、鈍い響きだった。
少女アサは、裸足のまま戸口に立っていた。
年の頃は十ほど。
髪は幾つかに分けて結ばれ、細縄で留められているが、その結びは粗く、どこか子どもらしい雑さが残っている。
頬にはまだ丸みがあり、耳元では小さな骨の飾りが軽く揺れていた。
その表情はおとなしく、まるで声を出すことを忘れてしまったように静かだった。
子どもは、この村にアサひとりしかいない。
年寄りは畑へ出る。
女たちは水を汲み、男たちは山や野へ散っていく。
誰も彼女を呼ばず、誰も彼女を求めない。
ただ、時間の中に置きざりにされているようだった。
アサは、村外れの森へ向かうのが好きだった。
木々の隙間を抜け、落ち葉を踏みしめながら奥へ進む。
やがて、巨大な岩が現れる。
その場所では、鳥の声も虫の羽音も遠い。
森全体が、息を潜めているようだった。
岩肌は乾いた褐色を帯び、長い歳月に削られたざらつきが無数の陰影を生んでいる。
その荒れた地の上に、異様なほど整った紋様が刻まれていた。
幾重にも重なる弧状の線。
渦。
円。
流れるような刻線。
ひと言でいえば――炎に似ていた。
溝の内側には、鈍い朱が沈んでいる。
鉄分か、あるいは塗り込められた顔料か。
だがアサには、時折それが血のように見えた。
斜めから光が差すと、紋様は一瞬だけ赤く浮かび上がる。
まるで岩そのものが目を覚ますように。
視線は自然と中心へ導かれ、また外へ押し戻される。
呼び込み。
閉じ込め。
循環させる。
そんな意志が、紋様の中にはあった。
アサは岩に手を触れる。
冷たい。
けれど、その奥で微かに脈打つものがある気がした。
怖い、とは少し違う。
呼ばれている。
そんな感覚だった。
アサは退屈という言葉を知らなかった。
だが、胸の奥には、いつも薄く広がる空白があった。
その空白に、ある日、ひとりの男が入ってきた。
男は投馬国から来た行商人で、ミナギと名乗った。
背には編み籠。
衣には、この土地では見慣れぬ織りの文様が走っている。
投馬国――
海にひらけ、遠い国の言葉や品が流れ着く場所だと、村人たちは噂していた。
アサは、その男を見た。
年の頃は十六、七ほど。
浅黒い肌。
髪は後ろで束ねられ、耳には濃い青の勾玉が揺れている。
衣は簡素だった。
だが身のこなしは軽く、旅慣れた者の空気を纏っている。
商人らしい穏やかな笑み。
整った顔立ち。
けれど、その目だけは妙に鋭く、澄みきっていた。
――その時。
ミナギの視線が、不意にアサを捉えた。
群れの中から、真っ直ぐに抜けてくるように。
アサは動けなかった。
目が合う。
その瞬間。
ミナギの瞳に、ごく僅かな驚きが走ったように見えた。
――まるで。
探していたものを見つけたかのような目だった。
やがてミナギは何事もなかったように視線を外し、再び村人たちへ向き直る。
だが、アサの胸には、まだその感触が残っていた。
籠の中には、小さな石や骨、乾いた薬草、磨かれた玉が入っている。
この村では見ぬ硬い青石や、黒く光る薄刃の石も混じっていた。
村人たちは彼を囲み、品を眺める。
だがその視線は、品よりも男自身へ向けられていた。
「呪い師だ」
誰かが低く呟く。
空気が、わずかにざわついた。
恐れと好奇心が入り混じる。
その中で、ミナギだけが微動だにしなかった。
静かなのに、妙に目を離せない。
――やがて、年寄りのひとりが言った。
「しばらく様子を見る。役に立つなら置いてやろう」
それで決まりになった。




