その境界線が、自分にも分からない。
「そっか。残念だけど、しょうがないね」
急な呼び出しを告げた私に、あなたは物分かりの良い大人の顔で微笑む。
引き留められもしないことに、安堵すればいいのか寂しく思えばいいのか、自分の心の在りかが良く分からない。
良くも悪くも、嘘をつかない人間などいない。
人は優しい嘘か残酷な嘘か、あるいはまれにその人が事実だと信じ込んでいることを口にするか。
真実も事実も、証明しようがない。
皆嘘つきで、この世界は欺瞞と虚偽に満ちている。
私は、生きていること自体が嫌いだ。
その言葉にすら嘘が含まれているのは確実で、だから私は、時々自分がどこにどうして存在しているのか分からなくなる時がある。
信じるに値するものなど、どこにあるというのだろう。
人間関係は誤解と勘違いでしか成立しないと、誰かが言っていたのを聞いたことがある。
その時には気にも留めなかったその言葉が、重い。
私は作り笑顔の下で、奥歯を噛みしめる。
分かっている。
引き留めることも、引き留められることも正しくないことなんて。
こちらの都合を全く気にしてもくれない相手に、それも雇用関係を盾に一方的に時間と自由を奪われることなんて、社会人をしていれば珍しいことじゃないと分かっている。
それでも、言葉に出来ない不快感が、表現しようもない嫌な感覚が腹のあたりにとぐろを巻いている。
応じてはいけないと、私の中の感覚が警鐘を鳴らしている。
だから、ただ、私は彼の存在を言い訳にこの嫌な感覚を肯定したかっただけなのかもしれない。
『あなたは、わがままだから』
いつか言われた言葉が、耳元で音になる。
テーブルの下、膝の上に置いた手をグッと握り込む。
『多少のことは我慢して、感謝すべきでしょ。それが出来ないなんて、自分を甘やかし過ぎなのよ』
見えない鎖に縛られ、無理矢理頭を押さえつけられる不快感に奥歯を噛みしめる。
ここを譲れば私にとって大きなものを失うことになるという感覚を、いつだって言葉にすることが難しい。
理屈で説明できない感覚を、否定されることにばかり慣れる。
やみくもに嫌だという私を、いつだって持て余されることにばかり慣れていく。
説明もできず、理解もされないなら。
私は、何も感じたくない。
私を否定する相手の存在さえ、受け入れたくない。
「優さん」
原嶋さんの声に、物思いから引き戻される。
「本音では、一方的に来いと言われて応じる義務なんてないと思う」
少しばかり不愉快そうに呟かれた言葉に、目を瞬く。
私の中ではどちらかというと仕事優先の原嶋さんの言葉とは思えない言葉に、さっきまでのほの暗い感情がどこかにすっ飛んでいく。
「俺だって、計算はするよ? メリットとデメリットをいつだって天秤にかけて決めてるし、それで言えば今回の呼び出しは可能なら蹴りたい案件だよ。十中八九、行って碌な話しが聞けないパターンだと思うし」
優秀な営業である原嶋さんの言葉には、私の中からは出てこなかった説得力っていうヤツがしっかり含まれていて、私の思いを肯定されているのになんだかちょっと悔しくなる。
「たぶん、向こうにとって不測の事態が起きたのを誤魔化すために、こちらにとってメリットが薄いことをごり押しされるのがオチだっていう感じがする」
ふと合った目の中に不安と心配がはっきりと見て取れて、知らず知らず肩に入っていた力が抜ける。
嫌なことを嫌と簡単に言えない状況を心配してくれる人がいる。
その状況に陥ったことを責められるわけでも、回避できないことを嘆くのを我がままだと断じられることもない。
それだけで私は、なんだか頑張れるような気がした。
「今回の話を持ってきた父の顔を立てるためにも、断る選択肢がなくて」
力が抜けた顔に、自然と笑みが戻る。
「でも、しっかり見て、聴いて、それで判断しようと思っています」
「それは、断るっていう選択肢があるってことだよね?」
原嶋さんの言葉に、私の憂鬱の根本的な理由を見た気がした。
私は笑みを浮かべたまま、静かに首を振る。
「恐らく、それは無理だと思います」
思いもよらなかったらしい私の回答に、原嶋さんが息を飲む。
「今の時点で、断れるような要因がないんです。給与面でも、業務内容でも、福利厚生面でも、何も大きなマイナス要素がないんですから。第一、親に就職に尽力してもらって、それを断る選択肢なんて最初から私にはありません」
我慢して、我慢して、我慢して。
そうして口にした言葉を一蹴されることに、慣れざるを得なかった。
説得できるだけの明確な材料をそろえられなければ、論破されておしまいだということは感覚として骨の髄にまで染み込んでいる。
必死に拒絶するよりも、あきらめて受け入れてしまった方が楽なのだ。
我ながら歪んでいると思う。
でも、言葉に出来ないほど疲れるのだ。
理解されないし、理解できない。
その事実に抗うことは、気力を根こそぎ奪われる愚行でしかない。
求めても得られないなら、私は笑顔の仮面をつけて平気なように振舞うしかない。
それが嘘だとしても、その方が楽だと覚えてしまったから。
「優さん。それって、本当に大丈夫って言えるの?」
思わず零れ落ちてしまった言葉にしかめられる顔を、笑みを浮かべたまま見る。
愚問。
それでも、思わず言ってしまった言葉に後悔するあなたの存在が、ボロボロのままの心に染みる。
ちょっとひりひりして痛い感覚に、私は瞳を伏せる。
「言えなかろうとその選択肢しかないのなら、意味なんてないでしょ? ……それに。大丈夫とそれ以外の境界線なんて、そんなの。その境界線が、自分自身にも分からない。だから、こんな状態になってるんだと思います」
言い終えた途端に、耳鳴りがする。
それを隠して、微笑む。
いつだって求められるのは、都合の良い作られた事実だけだ。
普通なんて概念、私にはよく分からない。
だけど、その場で自分が求められた役割を忠実に熟すことは多少慣れてきたと思う。
だから、こうして隠した本音を暴くのはルール違反だと思う。
原嶋さんの視線を無視して、マイペースにケーキを食べてお茶を飲む。
気分的に最悪でも、相変わらずケーキは美味しくてお茶はいい香りで。
でもその味も香りも、私の心を少しも浮き立たせてくれなかった。
「願望になんて、何の意味もないんですよ」
願っても祈っても叶わない。
だから私は、神も仏も、自分自身さえ信じない。
あの時、そう決めたんだ。
思わず本音を言い放ってしまった私は、原嶋さんの顔を見るのが怖くてお茶を手にしたまま俯いて背を丸めた。
そんな自分に失望する。
「それでも、俺は信じてくれってごり押ししたいね」
思いもよらない言葉に、思わず背筋が伸びる。
「嫌だから嫌っていうぐらいの筋の通らない我がまま、俺はなんてことないと思うよ。癇癪? そんなの大したことないでしょ。それよりも、嫌なことを嫌って言うことすら出来ない関係って何?」
少しだけいらだった様子の原嶋さんが、テーブルをコツコツと指先で叩く。
「その程度の我がまま、俺的には余裕だから」
妙に力が入った様子で力説する原嶋さんに、笑いが零れる。
ひとしきり笑う私を、原嶋さんは嫌な顔ひとつせずに、静かに見守る。
たったそれだけのことで、冗談みたいに気が軽くなった。
「わがまま言っても良いの?」
「うん」
「嘘もつくかもよ?」
「うん」
「憎まれ口だって叩くかも」
「うん。喧嘩したりするかもね」
重ねる言葉を、原嶋さんが大したことなんかじゃないというように笑い飛ばす。
そのどことなく不敵な笑みに、笑いが込み上げて来る。
「ちゃんと伝えて。俺は、優さんが思っていること、感じていること、ちゃんと知りたいし共有したい」
「うん。頑張る」
「じゃあ、帰ってきたら電話、してね」
「え?」
原嶋さんの言葉に首を傾げた私に、原嶋さんが不機嫌さを隠しもせずに呟く。
「人のデートぶった切ってまで呼び出した話しの内容、俺だって知りたいんだけど?」
「あ、うん。ソウデスネ?」
「俺だって相当ムカついてますけど、何か?」
後半は私には聞かせる気がないらしく、口の中でモゴモゴと呟く原嶋さんにスッと小指を差し出す。
「分かりました。じゃあ、約束」
一瞬私の行動に面食らった原嶋さんは、秒で気を取り直して私の指に指を絡め。
「約束、ね」
少しばかり嬉しそうに、そしてくすぐったそうに笑った。




