それについては、何の感銘も受けない
足取り重く、しかしそれを出来るだけ感じさせないように自分自身をなだめながら席に戻ろうとしていた私は、思わず目の前の光景に棒立ちになった。
原嶋さんの前に、いつの間にか私じゃない誰かが座っている。
ザワリと、体の中が揺らぐ感覚。
反射的に足を踏みしめ、背筋を伸ばして姿勢を保つ。
焦ったり、動揺を面に出してはいけない。
状況を見極めなければ。
反射的に、奥歯をグッと噛みしめた。
ほっそりとした、少々華やかな雰囲気の艶めいた女性。
やや明るめの茶色の髪の毛を払う仕草も、無造作にはおられた毛皮のコートも、大ぶりの金色のフープピアスも、全てが華やかで、後ろ姿さえ自信にあふれて見える。
原嶋さんが私に気付いたその視線を追って、彼女が振り返る。
流行りのメイクの見本のような、私が同じことをしたら大惨事になりそうなしっかりしたメイクを施した華やか美人が勝ち誇った様子で蠱惑的な口元に笑みを浮かべる。
その表情に、元々重かった気分が漬物石並にズンドコ沈むのに反して、体の強張りがフッと抜ける。
何せ、彼女の笑顔の向こう側で原嶋さんが実に分かり易く、笑みを浮かべたままなのに全力で不機嫌だったからだ。
私、この空気の中で帰りますって言い出さなければならないのか。
そうなのか。
ホント、呼び出した野郎は全身ツルッと丸ハゲればいいと思う。
思わず口からため息が漏れる。
面倒だ。面倒過ぎる。
このままオールスルーして帰ってもいいだろうか。
だって私、この状況に不要なような気がする。
謎の女性の前には、私が注文したはずのケーキがひと口分食べかけられているし。
心なしか、飲み物も減っているような気がするんですけど。
なんか、理不尽じゃないですかね、コレ。
「ねぇ、柾志さん」
困惑を通り越して怒りが天元突破し、一周回って妙に冷静になった私から、自分でも引くほど冷たい声が滑り出る。
「どちら様?」
気が付いたら、原嶋さんそっくりの笑顔で微笑む自分がいた。
「うん、ごめん。ただの元友人だから」
私からの怒りを全身で受け止めて、原嶋さんの笑顔が若干引きつり気味なものに変化する。
だってさぁ。
食べ物の恨みは恐ろしいのよ?
私のケーキ。
期間限定の滅茶滅茶おいしそうなケーキ。
たぁ~べぇ~たぁ~なぁぁぁぁ?
「へぇ、そぅ。そちらの方はそう思っていないんじゃない?」
笑みを浮かべたまま、頬に手を添えて問い掛ける視線を女性へと向ける。
「初めまして。あたし、まーくんとは高校の同級生で、まーくんにとっては初カノってやつだったんですけど、きよかっていいます。よろしく、今カノさん?」
キャラキャラと耳障りな笑い声を上げて小首を傾げた彼女の耳元で、フープピアスが派手に揺れる。
何というか。
彼女の言葉をスルーする形で、私は視線を原嶋さんに戻す。
私の嫌悪感を隠そうともしない冷たい視線に、原嶋さんは眉間にエベレストを形成した状態でブラックと思われるコーヒーを一口飲む。
「優さんの言いたいことは分かってる……と思うよ。俺だって、同意見だ」
フッと息を吐いた原嶋さんと、私の言葉が図らずも重なる。
「「趣味、悪すぎますよね?」るよね?」
私の言葉に、原嶋さんは深く項垂れる。
「……だよねー。知ってた」
ああ、これは、ただの黒歴史か。
そう思って安心した自分自身に少しだけうんざりする。
同時にホッともする。
私は多分、この先も、それがただの歴史でさえあれば、問題ないと思えるんだろう。
それが過ぎ去った過去でさえあれば、今の彼が揺らぐことさえなければ、受容できるらしい自分に少しだけ安堵する。
私はきっと、自分が嫌だと思う程度には原嶋さんに執着しているということなんだろう。
自分自身で立ち上がれない程度に弱っている今ならば、尚更。
表面上、感情を揺らさないように取り繕うことは得意だけれど、それだって限度がある。
もしも、何かの拍子でヒビだらけになった部分に圧力が加われば、私は自分がどういう崩れ方をするのかよく分からない。
「ちょっと!」
お行儀悪くもテーブルを叩いて注意を引いた自称元カノのきよかさんを、チラリと見遣る。
スッと手元に視線を移せば、左手の薬指に薄い青と緑の中間色のような、大粒の色石がはまった指輪がある。
本物のパライバトルマリンならばそれなりの値打ちものだが、ブルートパーズならば話が違ってくる。
本物か、まがい物か。
細くなる目、弧を描いた口元。鏡を見なくても、私は今相当に底意地の悪い表情を浮かべている自信がある。
例え妄想の中でさえこういう面の皮が極厚の人物には、幸せになど浸らせたくないと私の中のグレーゾーンが全力で叫んでいる。まぁ、妄想は自由ってことだ。
どちらにせよ、この女性は既婚者か、それに相当する人物。
決まった男性がいながら、人の婚約者にこれほどにも堂々と手を出そうとするとは、なかなかに素敵な思考回路の人物らしい。
こういう人物とは、一生涯相容れる気がしない。
良い歳して、隣の芝生云々とか、隣の柿は云々とかっていう先人の金言が理解できないとは、残念な人物だ。
人のものを欲しがったとしても、それが自分にとって良い品、つまり人から奪い取ってまで得たものが良縁となるとは限らないということをこの人は学べなかったのだろう。
チラチラと視線を走らせて、身につけたもののグレードを測る。
恐らく、それなりの値打ちのものなのだろうとは思う。
華やかで煌びやかだ。
それでも、それを身に着けた人間の言動もまた値打ちのうちだと、近頃はそういう言葉が特に耳に痛い。
だけど。
正直、今の私が負けるような気がしなかった。
「柾志さん?」
テーブルの上のティーセットとその前に座り込んだ珍客を視線でひと撫でして小首を傾げて見せれば、原嶋さんが申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。
「喜代加、君が勝手に手を付けたのは君の分じゃない。その分の代金を払えとは言わないから、早く帰った方が良いと思うよ?」
もの柔らかな笑顔と口調に、有無を言わせない圧力を加えて原嶋さんが最後通牒を突きつける。
「えぇ! 何よ! あたしのこと、何とも思わないの?」
「うん、全く。……というか、あの当時の自分自身を思い出すといくら若気の至りとはいえ、あまりにもお粗末だなって腹が立つけど。むしろ今までもこれからも君の幸せを全力で祈ってるよ」
原嶋さんのいかにも胡散臭い笑顔には、分かり易く拒絶の意思がマジックで記入される勢いで表現されていて、私は表情が崩れないように必死だった。
主に、ざまぁって気分でいっぱいですが何か?
食べ物の恨みは以下略。
私のケーキセット、と原嶋さんに手を出そうとは、太ぇ野郎だぁ。いや、細いし野郎でもないけどね。うん。まぁ、それは形式美ってことで。
「あと、俺のことまーくんって呼ばないで。本気で鳥肌モノだからヤメテ」
蛇足のようなセリフに、本気の拒絶を感じる。
目が死んだ原嶋さんの笑みに、さっきのお祈りメールならぬお祈りコメントよりも深刻で真剣な拒絶を感じるのは何だろう。
「え、愛称駄目ですか?」
「うーん、駄目っていうか……どうしても嫌なだけ」
思わず問い返した私に、原嶋さんの視線が逸らされ、死んだような目のまま自称元カノさんをチラッと見る。
ああ、うん。そっか、黒歴史の一部なのね。何となく察した。
それは後で何かあった時に深掘りするネタとしてキープしておこう、そうしよう。
「はぁ? 何言っちゃってんの? そこの牛みたいな地味女と、あたしと比べてあたしの方が劣るとでも言いたい訳!?」
「牛……」
自称元カノさんの表現に、思わず白目を剥きたくなった私は悪くないと思う。
っていうか、私のどこに牛要素があるんだ胸部か、それとも臀部か、確かに細い方じゃないと思うけど、どっちかというと太い方ではあるかと思うけど、牛って結構筋肉質で力持ちだって知らないのか!
私じゃ比較対象にならないわよ!!
あんなに堅マッチョくないから!
「俺はそれについては、何の感銘も受けない」
自称元カノさんのすっきりした胸元に視線を置いて、やけにニヒルに笑う原嶋さんに、残念な気持ちでいっぱいになるのはなぜなんだろう。
私、全力で肯定されているのになんだか嬉しくない。
そういえばこの人、〇っ〇い星人だったなぁって今更のようにしみじみ納得。
いや、別におっ〇〇星人が悪い訳じゃないのよ、むしろある意味正常だなって思うけどさ。
うん。
「それに、自分中心に世界が回っている系空気読めない馬鹿は俺嫌いだから」
私の心中を察してか、流石に色々面倒になっって来たのかどちらなのかは知らないけれど、原嶋さんの渾身の毒舌が炸裂した。
「なっ」
「それにさ、一度捨てたゴミは拾うべきじゃないだろ。勝手な都合で捨てられたり拾われたりする方にも感情とか意志は存在すると理解して、多少は配慮出来るようになるべきだと俺は思うけどな。そろそろ年齢に不足はないんだし?」
笑顔の外面を被ったブラックが降臨中な原嶋さんなう。
「ホンッと、昔っからあんたってサイテー。見る目なかったって後悔するんじゃないわよ!」
椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、私にぶつかって来る勢いで突進してきた自称元カノさんを間一髪かわし、私は原嶋さんを見る。
「なんて言うか」
「昔っから、言動が何となくチープなんだよな」
ため息交じりな原嶋さんの言葉に、言い掛けた言葉を飲み込む。
「安っい小者みたいな捨て台詞吐くんだよね。それが余計に何の感銘も与えないって、分かればいいんだけどね」
懐に手を入れた原嶋さんが、スマホを操作する。
その口角が少しだけ上がるのを、私はじっと見ていた。
「まぁ、何もないに越したことはないけれど、備えは必要だしね」
チラリと見えた録音アプリの恐らくデータを、クラウドに収納中。
中身が何かなんて、明らかだ。
「下らないことで俺の大事な時間と、俺の大切な人の楽しみを台無しにしたことを後悔することになるかは、彼女が決めることだけどね」
スマホを上着にしまった原嶋さんが、すかさずウェイターを呼び止めて新しいケーキと飲み物を注文する。
私が椅子に座る頃には、ひと口だけしか食べられていないケーキと、ピンクのグロスが付いたカップと半分になったティーポットが下げられていった。
色々と無駄の多い人だなと、廃棄されるケーキとお茶の冥福を祈る。
私が席を外していなければ、無駄にならなかったものを。惜しいことをした。
下げられていくケーキとお茶を目で追っていた私の内心を知ってか知らずか、原嶋さんが私の手を取る。
「優さん。優さんは、信じていて。優さんにとって俺が過去にならないように、君をがっかりさせないように頑張るから」
知らず知らず緊張して冷えた手に、温もりが染みる。
原嶋さんの言葉に、私は失望することに慣れ、期待することに疲れてしまっている事実を突きつけられる。
誰かの期待に応え続けることは、酷く難しい。私はその難しさを、よく知っている。
もしも、その言葉を満たせなかったとしても。
今はその努力をしてくれる気があるという事実を私は喜ばなければならないだろう。
きっと、手を離すのは私からではなく、原嶋さんの方からだろうから。
失望させるのはあなたではなく、きっと私だから。
だからその時が来たら、許しを請わなければならないのはきっと私だろうから。
「大丈夫。あなたを、信じてる」
私は何度も練習した飛び切り嬉しそうに見える自然な笑みを浮かべ、心にもない嘘を、吐いた。
いや、嘘ではないかもしれない。
だって私が信じていないのは、あなたではなく、私自身のことだから。




