第弐拾漆話 孔明
鈴は自宅に籠っていた。
外に出たくない。動きたくない。会話したくない。考えたくない。食べたくもない。飲みたくもない。呼吸すらしたくない。
それでも浅ましいもので、兄の諸葛均の運ぶ料理と水への誘惑には勝てずに、なんだかんだ食べてしまう。そんな自分が嫌で仕方なかった。
(お兄ちゃんはもう、食べることも話すこともできないのに……)
兄の葬儀は村のみんなのものと合同で行った。そうしないと追いつかないほどに人が死んでいた。
もちろんそれとは別に、家族で――といっても均と2人だが、しめやかに自宅で孔明の死を悼んだ。
それ以降、一週間近く鈴は自室で何をすることもなく過ごしていた。
何度か劉備が訪ねて来たようだが、今の彼女に会う気力はなかった。いや、資格はないと思っていたのかもしれない。彼女がいたから兄は死ぬことになった。劉備にとって親友といってもいい男の死は、鈴のせいで生まれたのだ。
(なんで自分は生きてるんだろう。私のために、お兄ちゃんが死んだのに。玄徳お兄ちゃんだってお兄ちゃんが生きてた方がいいに決まってる。私なんかより、数段に……)
そう思うとこのまま餓死したくなって、けどお腹がすくのが嫌で、喉の渇きに耐えられなくて食事に手を伸ばす。そんな自分が浅ましいと思ってしまうのだ。
むしろ餓死なんてめんどくさい死に方を望むのも、自分が本気で死のうと思ってないことを表している。死にたいのなら梁で首を吊ればいい。包丁で首を掻き斬ればいい。なのにそれをしない。
(私の意気地がないからだ。死ぬのが怖くて、なにもできない。ただじっとここにいる。均お兄ちゃんにも迷惑かけて……)
均は最初は色々話しかけて来たけど、ろくな返答もしない鈴にあきれ果てたのか、今ではほとんど話しかけてこない。それでも律儀に1日2食。自分のものと合わせて食事を用意してくれる。粟飯に山菜、川で取ったらしい魚と質素なものだったが、そこにどこか均の優しさが溢れている。そんな気がした。
そして一カ月が過ぎようとしていたころだ。
ノックの返答を待たずに均が彼女の部屋に入って来た。
「鈴」
「…………」
鈴は応えない。というより言葉を忘れてしまったようだ。
それでも反応はして、億劫そうに顔をあげて出入り口の方を見る。そこにいた均の影が動くのが見えた。
「本当はもっと前にちゃんと話すべきだったけど、お前のことを考えると何も言えなかった。孔明兄貴には、お前の方がなついてたからな」
「――――ない」
そんなことはない、そう言おうと思ったがやはり喉がからまってうまく喋れない。
「俺だって悲しい。けどお前の方がもっと悲しい思いをしてた。そう思うと、何もしゃべれなかった。ごめん」
めんどくさがりでいい加減な印象しかなかった兄の殊勝な言葉に、鈴はわずか驚いた様子で顔を上げる。
「でも、もう時間切れだ。劉備たちが明日、出発するって」
「ぅ!」
久しぶりに聞いた彼の名前。それがどういう意味を持って彼女の胸にしみ込んだか。それは当人にしか分からない。
「それで、俺は簡雍さんについてくことにした。さすがに俺は戦場に向かない。けど、俺ももう働かなくちゃだから。だから俺はそっちに行く。お前は……どうする?」
あるいは一緒についてく、と即答するのを待っていたのかもしれない。
けど鈴は答えない。それは彼女の中に答えがなかったからでもある。
「そう、か……」
無言が答えだと納得したのか、均はそう頷いた。
「明日の朝には出発するってよ。だから会うなら今夜が最後だ。それだけ。邪魔した」
そう言って鈴の部屋から出ていく兄。パタン、と小さく扉が閉まり、中は再び暗がりと無音に支配される。
いや、音がある。それは断続的に響いて、耳障りだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
それは自分の呼吸だった。荒く苦し気な呼吸音に、鈴は自分が今、過呼吸に陥っていることに気づく。
なんでもっと早く教えてくれなかったんだ、と兄に文句を言いたい。だがそれは自業自得だ。自らの殻にこもって対話を拒否し続けた。そのツケが回ってきたのだ。
(なんでこうなったんだろう。皆どっかに行ってしまう。バラバラに……。なんで。ほんのちょっと前は、皆がいて、幸せで、それ以上はなくて……それで、それでよかったのに。なのに!)
鈴は己の中に問いかける。けれどもそこに答えはない。当然だ。自分が知らないことを自分が答えられるわけがない。
むしろ鈴にとっては答えは欲しくなかった。けどそれではダメだ。どこまでも悲しみの悲哀の海に沈んでいくだけ。そう言った時に必要なのは自らの言葉ではない。むしろ――
(もうどうしたらいいか分からないよ……誰か、助けて。助けて……孔明お兄ちゃん!)
『幸せになれよ』
ハッとした。
兄の名前を呼んだ途端に聞こえてきた声は、間違いなく兄の声。
そしてそれは兄、孔明の臨終の言葉だ。
彼は鈴を守り、そして幸せを願った。
それが今の彼女の現状にかぶる。
果たして今、自分は幸せか。兄の望んだとおりの自分になっているか。
(なってない。こんなんじゃ、ダメだ。でも……)
どうしたらいいか分からない。
そんな時にも兄の言葉が浮かぶ。
かつて彼は鈴にこう言った。
『お前は風だな。何があっても走って走って、走り抜ける。俺は羨ましいよ。俺にもそんな行動力があったらって』
それは彼なりの自嘲だったのだろう。王朝の先兵としてこき使われる毎日。自分に何もないがゆえに、どこかに所属して命令を聞くしかない。
そんな彼と対称にいるのが劉備、そして鈴だった。
自らの足で歩く、走る。それができる人間に孔明は憧れていた。
確かに鈴は走った。劉備の家に行くときも、どこに向かう時も、歩かずにひたすらに、がむしゃらに走り抜けた。それが自分の存在証明をするのだと言わんばかりに。大地を蹴り上げ、風をまとい、音すらも味方につけて走り続けた。それが彼女だった。
(私は……)
その時。1カ月ぶりに色が、音が戻った。
彼女の視界に映る世界は光景も色彩も歪んで音すらも不協和音を奏でる。これまで彼女の世界を閉じ込めていた殻が割れた音。
「そうだ。走ろう」
思い立ったがすぐに立ち上がる。これまでずっと座り続けていたのだ。立ち眩みが彼女を襲うが、それを頭を振って無理やり追い出す。
そして扉を開けると、勝手知ったる自宅の居間を突っ切る。そこには均が夕食の準備をしていたらしく、突然出ていく妹におどろき、
「鈴!?」
「劉兄ちゃんのところに行く!」
「……ははっ」
唖然とした均だったが、その笑いには愉悦の色が混ざっていた。
彼自身は何もできなかったが、彼女が自分で立ち直った。いや、彼自身も彼女が立ち直るための時間を、肉体的に支えてきたのだが、それよりも妹が復活したことが嬉しかった。これからの結果次第ではまたダメになるかもしれないが、それでも今までよりはマシだ。そう思っての笑みだった。
「はっ、はっ、はっ」
鈴は走る。
1カ月。ずっと何もしてこなかったのだ。息がすぐに上がるし、足が、わき腹がすぐ痛くなる。吐き気も出るし、むしろその場で口から湧き出る胃液を吐いた。吐いてなお走った。
自宅から村の中心部。そこにはもう誰もいない。何もない。朝に挨拶してくれるおばあさんも、店の準備をする肉屋のおじさんもその奥さんも。みんなみんな死んでしまった。
けど違う。鈴は生きている。生きているから、苦しくて悲しくて死んでしまいたいと思う。
それでも生きている。生きている以上は、走らないといけない。人生という道を、ひたすらに。ただひたすらに。いつか死という古い隣人がその肩を叩くまで。必死に。決死に。どこまでも。
やがて大きな桑の木が目に入る。その先、小さな家屋が見える。彼の家は無事だったようだ。だがその前の広場に、大きな穴があいているのを鈴は見た。それは黄巾の蒼武が落ちた穴だが、そんなことは鈴は知らない。ただ劉備の家が無事だったことにホッとしたのだ。
目的の人物はすぐに目についた。
彼は1人、彼の家の目印でもある桑の木を見上げていた。
「劉兄ちゃん!」
彼の名を呼ぶ。するとハッと気づいた劉備は、鈴を認めるとすぐに駆け寄ってきた。
「鈴! どうして」
「あ……はぁ……はぁ……劉、兄ちゃん……」
「大丈夫か、顔が真っ青だぞ」
これまで毎朝のように駆けていた。それがこうも心配されるまでになるとは、1か月の不摂生は確実に鈴の体力を削っていたようだ。
それでもここに来たのは話をするため……なのだが。
「はぁ…………はぁ…………はぁ……」
「おい、水でも飲むか」
「いい、の。劉兄ちゃん、に、言いたくて……来たから」
「鈴……」
大きく息を吸って吐いて、ようやく呼吸が戻ってきた。もう話せる。そう思った鈴は、劉備に向かって口を開き、
「――――」
言葉を失った。
そう。彼女は衝動的に会いに来ただけで、結果自分の未来をどうするのか何も考えたものではない。だから何かを言おうとしても、自分の中で結論が出ていないのだから何も言えない。
「一端、家に入るか? 今は雲長と益徳もいるけど」
それに対してはぶんぶんと首を横に振った。さすがに他の人に聞かれるのは違う。そう直感した。
「あの、ね」
ようやく鈴は話を始める。ただそれは彼女の中でまとまった言葉ではない。ただ思いつくがままに並べた言葉。
「本当はまだ何もわかってないの。お兄ちゃんが死んだことも、村がこんな酷いことになっちゃったのも。全部、何もかも夢だったんじゃないかって、そう思う時もあるし」
「鈴……村は」
「……うん。分かってる。全部、夢じゃなかった。本当に起きたことだって、認めたくないけど、それが事実」
「鈴、俺はお前のお兄さんのことを……助けられなかった」
「ううん。あれは劉兄ちゃんのせいじゃない。お兄ちゃんが望んだ結末」
「でも……いや、そうだな。俺は一度、ちゃんと鈴に謝らなくちゃいけない。俺らが……俺が、下手なことをしたから連中に嗅ぎつけられて、こんなことに……」
「難しいことは分からないよ。でも、お兄ちゃんたちはこの世界を正そうと思ったんでしょう。だからそれはいいことなんだよ」
「……そうか。そう言ってくれるか」
劉備は一時、空を仰いだ。その瞳から涙がこぼれたか、鈴には判断できなかった。
「それなら私もごめんってことで。私ね、なんとなく嫌なものの感じが分かるの」
「どういうことだ?」
「嫌なもの、腐った卵とか、人の感じとか。でもあの日は感じなかった。よくわからないけど、月に1度は感覚が弱まる日があるの。それがたぶんあの日。だから私が気づけなかった。気づけてたら、皆を逃がして、こんなことにはならなかったのに」
「そ、そうなのか?」
劉備は動揺していた。鈴にそんな能力があったなんて、気づきもしなかった。
「そのこと、孔明は?」
「知ってた。けど、お前はそれでいいって言ってくれた。町の皆も受け入れてくれた」
「なんてこった。俺だけか。知らなかったの」
「変な人みたいに思われるの、嫌だったから」
「俺が鈴を嫌うわけないだろ」
「ん……」
それは本来なら涙が出るほど嬉しい言葉だったが、この1カ月で涙が枯れたのか、泣くことはできなかった。
「仮に鈴のそういう勘? みたいのがあっても、それは鈴が悪いわけじゃない。悪いのは黄巾だ」
「そう、かも……うん。そうなの、かな」
「そうだ。鈴に責任はない。だから安心していいんだ」
鈴の心に劉備の言葉が染み渡る。これまで死んでいた心が生き返った気がした。
しばらくの沈黙ののち、劉備は鈴に向き直り問いかけた。
「それで、お前はどうする、鈴?」
「……分からない」
「そうか。じゃあ簡雍と一緒に行くか」
「…………。お兄ちゃんはね」
「ん」
「幸せになれって言ったの」
「そうか」
「私の幸せはそこにはきっとないよ」
「そんなことはない。簡雍の仕事だって天下のためには重要だ。何より安全でいずれお前にも良い人が――」
「違うの」
劉備の言葉を遮り、鈴は思う。何のためにここに来たか。何のために生きて来たか。その答え。それを自分の想いと共に吐き出す。
「私がいる場所は、劉兄ちゃんの隣だよ」
劉備の言葉を遮って、鈴が言い放つ。それは自らの想いを告白することと同じ。
それでも鈴に後悔はない。高揚もない。ただ言葉を投げただけだという感覚が彼女の中にある。
対する劉備は、鈴の真摯で混ざり気のない真実の想いに、思わずため息をつき、口を開く。
「……すまん」
その一言で、彼の中に自分の求めていた答えがないことを鈴は知った。落胆はない。彼の中には今、1人の少女を見ている余力はないのだと分かるから。
「謝らないでよ」
「そうか。そうなんだな、鈴」
「うん。でも劉兄ちゃんの夢が叶う時までは、世界が平和になる時までは。私は隣にはいられない。その夢は、お兄ちゃんの夢でもあるから」
「ああ、そうだな」
「だから私はお兄ちゃんになる。お兄ちゃんが生きていた事績を残して、お兄ちゃんの夢を、劉兄ちゃんと一緒に叶えたい。そのためなら……なんだってする。お兄ちゃんが私たちを育てるためにしたように。私は劉兄ちゃんの隣じゃなく、一緒にいることでそれを叶えたい。だから――」
そこで言葉を切り、鈴は自らの覚悟をその舌に乗せ、言い放つ。
「私は――諸葛亮になる」
その後、劉備たちは冀州の盧植の下で各地を転戦。
劉備、関羽、張飛の3機の蒼武の活躍は各地で有名になり、特に祖帝号という蒼色に輝く巨大な蒼武の機動性と破壊力には誰もが口に噂を乗せたという。
そしてそれを操るのは、まだ12の少女だということも。
読んでいただきありがとございます。
劉備、および孔明編の序章が終了でございます。孔明の遺志を継いだ劉備と鈴が、曹操と共にどう戦っていくか。次回、閑話を挟んでの本編に戻りますので、お待ちください。
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