第1話 金曜日、19時前
黒いセミロングの髪に、女性にしては少し高い座高。顔のパーツは整っていて、十分に美人と言えるのだが、口角は棒のように角度が付かず、集中しているせいか目つきは少し鋭く見える。
廊下側一番端、前から2番目の席に座る少女は教室内外から響く騒音に包囲されていた。とは言え、彼女がそれを苦痛に思うことは無い。1年2組、出席番号2番、鵜坂リコの意識は全て手に持つ書籍の中に入り込んでいるからだ。
そのことをよく理解しているからか、それともリコ自身が友達を作ってこなかったためか、この教室の中に、彼女に声をかけようとするクラスメイトは存在しなかった。
「おっはようロボちゃん!!」
たった今、飛び込んできた彼女を除いて。
ホームルーム開始一分前、教室前側の入口から走りこんで、リコへと向かう少女が現れた。息を切らせてひざを折り、髪は乱れて顔面へと垂れていることから察するに、教室まで走ってきたのだろう。
「おい飯間、廊下走るな!」
「すいません! 遅刻しそうだったので!」
推察を裏付けるようにホームルームの準備をしていたクラス担任からの注意が飛ぶが、対する少女が担任に向き直った次の瞬間、両手をそろえた斜め45度の謝罪が決まった。
これには担任も圧倒され、次からは気を付けろよとホームルームの準備に戻るしかない様子。
「おはよう飯間さん。今日も元気そうね」
流石にこれで無視するわけにもいかないので、リコは抑揚のついていない声で挨拶をする。一応、マイに目線を合わせはしたが、言い終えるとすぐに本の方に意識を戻してしまっている。
「ありがとうロボちゃん! ちゃんと返事できてえらいね!」
「どういたしまして」
次の一言に至っては目線すら合わせていない。
それでも返事を受け取った少女は、満足そうにリコの前の席に座った。
ショートカットの茶髪。平均的な女子高校生の身長に明るい声。リコとは対照的に口角は常に上の方で、表情も明るい少女。出席番号1番、飯間マイはクラスの人気者だ。
マイの顔も整っているが、リコとは少し系統が違う。リコが美人系だとするなら、マイはかわいい系といったところだろうか。どちらにせよ、人目を引く容姿であることには違いない。
少しすると、もうホームルームが始まるというのに、マイの周辺に人だかりができ始めた。女子だけでなく、男子も混ざった人混みは、リコの周囲をさらに騒がしくしてしまう。
しかし、後ろの席で一人本を読み続ける少女がそれを苦痛に思うことは無い。集中できる何かがあれば、騒がしいことはそう気にならないのだ。
ただ、人付き合いが嫌いなだけで。
◆◆◆
鵜坂リコは人嫌いだ。
本を読める時間が減るからと言えないこともないが、どちらかと言えば純粋に人付き合いが嫌いだという気持ちが大きい。それにはいろいろと過去の経験が影響していたりするのだが、今はひとまず省略しよう。
とにかく、そんな性格は高校に入ってからも続き、登校初日の自己紹介では「できるだけ自分に関わらないでください」と言い切ったほどだった。
幸い、リコの一つ前の席には、飯間マイという少女が居てくれた。
いつも明るく、話しかけやすい雰囲気のマイが、リコに対する用事を仲介してくれる。
代償としてマイに話しかけられる機会が多くなってしまったが、複数人から絡まれるよりはマシだろうと、リコはマイを突き放さずにいた。
「げっほ! ごほっ!」
しかしながら、そうしてほとんど誰とも関わらない学校生活を送っていたせいだろうか。
ここ一週間ほどリコは風邪をこじらせて休んでいるのもの、リコの見舞いに来る人間は誰一人として現れていない。
家族も心配してくれているし、学校からの電話などはリコの母親が代わりに受けてくれていたから、リコ自身、最初のうちは人と関わらなくて済み、自分のことだけに集中できるちょっとした休みのような感覚だったのだが……風邪をこじらせてしまった日からは快適とは言えない生活が続いている。
「頭痛い……」
熱と咳のせいで思考がまとまらず、勉強どころか本を読むことすら難しい。横になっているのが一番楽なので、ベッドの上から動くこともない。日に日にマシにはなってきているものの、辛いことに変わりはなかった。
(多分土日で治るだろうけど……勉強どうしよ……)
少し肌寒くなってきた季節の金曜日、19時前。リコはぼんやりと考えを巡らせ、解熱剤を買いに行った母の帰りを待つ。父の帰りが遅くなることは聞いていたので、しばらくはリコ一人だ。
一人でいることに寂しさはなかったが、休み明けの授業についていくためにはクラス内の誰かに頼らなければいけない。そんな未来のことを考えると、リコの気分は落ち込むばかり。
『ピンポーン』
そんなリコが横になっていると、インターホンの音が鳴った。一瞬、自分が出る必要もないかと考えたが、すぐに自分以外の人間が家にいないことを思い出す。
幸い、リコの家は一軒家で、インターホンにはカメラが付いていた。立ち上がれないほど体調が悪いわけでもなかったので、リコはベッドから身を起こした。
階段を降りてインターホンのカメラをオンにし、そこにいる人物を確認する。
「ええ……どうしよ……」
大抵の場合、見るだけでそれが何者か理解できることなどないものの、今回の場合はすぐに分かった。
リコの通う高校の制服に、茶色いショートカット。数少ないリコが顔を覚えている人物、前の席に座っていた飯間マイで間違いない。
家に招いたこともないので、まず間違いなくマイはリコに用があるのだろう。
配達やその他来客なら無視でも良いかと思っていたものの、流石のリコも自分に用がある人物相手に居留守を使うわけにはいかなかった。
「はい」
マイクをオンにし、とりあえずは応答の声。リコ自身は普通の声色のつもりだったが、体調の悪さもあり、発せられた声は少し機嫌が悪そうにも聞こえる。
画面に映るマイは少しハッとした表情をした後、カメラに向けて目線を合わせた。
「あーえっと、私、飯間マイと言います。鵜坂リコさんのお宅で間違いないでしょうか」
「はい。私が鵜坂リコです」
喉の調子が悪いのもあるが、マイク越しではリコだと確信することは難しかったのだろう。リコが返答すると、マイは少し慌てたような表情になった後、少しだけ黙って口を開いた。
「えっと……一週間も休んでたら勉強大変だと思って、授業のノート持ってきたんだけど、ロ……鵜坂さんはこれいる?」
その言葉でリコは少しの驚きを秘めた表情になるが、インターホンの向こうにいるマイには伝わらない。
マイがリコのことをロボちゃんと呼ばなかったのは、家族がいるかもしれないと考えたからだろうが、リコが考えたのは別のこと。なぜわざわざマイが自分の家にまでやってこれたのかということである。
そもそも住所を教えたことすらないのに……と考えたところで、結論は出た。
(ああ、多分先生に頼まれたのね)
こちらから話しかけたことはほとんどないが、マイは毎日話しかけてくる。席自体も近い上に、何度かマイがリコ対する用事を仲介してくれたこともあった。
そりゃあ、担任の立場からすれば、直接何かを届けてもらうには、これ以上ない適任に見えただろう。
「ありがとう、もらうわ。ポストに入れてもらっていい?」
リコは人嫌いではあるものの、最低限のコミュニケーションができないわけではない。断る理由もない上に、丁度悩んでいた勉強のことでもあったので、素直に感謝を伝えてそう言ってみる。
「あー……ちょっと量が多いから、全部入るかはわかんないかな」
「大丈夫、うちのポスト大きいから」
一週間休んでいたといっても、せいぜい数教科のノートだ。
束になった新聞が入るのだから、ノートも入るだろう。
さらに言うならいくらマシになったとはいえ、今のリコに直接他人に会えるほどの気力はない。
「そう? じゃあ入れておくね」
外の少女は少しだけ悩んだようだが、結局はリュックサックを地面に置いてしゃがみ込んだ後、数冊のノートを取り出し、インターホン横のポストに数回に分けて投入していくことにしたらしい。
その様子にリコは小さな違和感を覚えたものの、頭痛のせいでピンとは来ず、特に口に出すことは無いままそれを眺めていたところ、やがて、マイは全てのノートを入れ終えたようで……
「じゃあえーっと……ノートはまた今度返してくれれば良いから、元気になったらまた会おうね! おやすみ。いい夜を!」
「はい。ありがとう」
結局違和感の正体は分からないまま、リコはインターホン越しに立ち去るマイを眺めることとなった。
(結局いつもの飯間さんっぽいし、気のせいかな)
おそらくは、ロボちゃんと呼ばれなかったことに違和感を覚えてしまっただけなのだろう。
結局何故ロボちゃんと呼ばれるようになったのかも忘れてしまっていたが、いつもと違った呼ばれ方をすれば引っ掛かることもある。
リコはそう結論付けて、ベッドに戻ろうとした。後で返さなければいけないものとは言え、急いで取りに行く必要もない。
そう思って……
「……返す?」
直後、再びの違和感。
マイがリコの家に来たのは担任の先生に頼まれたからだろうが、わざわざ先生から頼まれたのなら、マイが届けに来るのは授業内容か、ノートの内容をまとめたプリントであるはずではないだろうか。
しかして、マイがポストに入れていたのは、明らかにノートそのものだった。それも、写しのプリントのようにコンパクトなものではなく、明らかにかさばる数冊のノートだ。
(返してねってことはつまり、自分のノートを入れちゃったのかしら)
だとすれば、なかなかの信頼が必要な行動のはずだった。
相変わらず熱はあるものの、せっかくベッドから出られた身体であったし、疑問を疑問のままにしておくにも気持ち悪かったので、リコは玄関に向かうこととする。
足を冷やさないために靴下は履いていたのでそのまま靴を履き、玄関のドアを開く。
直後、季節相応の冷たい夜風がリコを襲った。
「へっくし!?」
リコが着ていたのは上下ともに長丈のジャージだったが、この時間に外となると流石に寒い。
先程までずっと暖かい布団の中にいたのだから尚更である。
今すぐに布団に潜り直したいという気持ちが大きくなってきたが、大した距離でもないのでリコはポストに向かうことにした。
「ああ、やっぱり」
ポストを開くと、やはり中には数冊のノート。外から確認できる限りの全てに、マイのフルネームが記されていた。
マイはどうやら本当に、自分自身のノートを持って来てしまっていたようだ。
「まあいいか……」
リコは後日、この全てを返さなければいけないことが面倒に思えてきたが、借りる時の面倒がなくなったと思うことにして、ノートを順番に抱えていく。
「えっ、なにこれ」
だが、ポストの中から出てきたのはノートだけではなかった。数冊まとめて取り出そうとしたノートの束から、小さな手帳が滑り出る。
地面に落ちてしまうことはなかったものの、ポストの中から拾い上げた手帳の表紙を、リコは見てしまった。
「うわぁ……どうしよ」
表紙には、ノートの名前と似た筆跡で『日記帳』の文字があった。
まず間違いなく、マイのものだろう。
当然、リコが中身を見ることはない。
普通ならそれだけのはずである。
しかしながらリコの脳内には、この日記帳によって引き起こされそうな面倒ごとが凄まじい速度で浮かびつづけていた。
日記帳ということは当然日常的に使われているということであり、無くなれば当然気付くだろう。
その次は、どこで無くしてしまったかを考えるだろう。
行動を振り返れば、リコの家は必ず候補に入る。
今日はもう19時近いので、週末の間に訪ねてくるか、復帰してから学校で聞かれる可能性もあるかもしれない。
いずれにせよ、リコが日記帳を返せば、中身を見たかという質問は自然な流れで発生するだろう。
リコはマイがどんな人間なのかは知らないが、他人に日記帳を見られても良いという人間は少ないはずである。
流石に、それだけでマイに嫌われ、嫌がらせを受けるということはないはずだ。
しかし、リコが考えたのは別の可能性、この日記帳をこのままにしておけば、マイとリコの間に何らかの『新しい関係性』が生まれてしまうのではないかということだった。
(今すぐ返しに行く? でもあの人がどの道で帰ったかなんて知らないし、体調も悪いからあんまり外にはいたくない。だったら日記帳自体を処分しちゃうとか……いや、流石にそこまでしたくないし、バレたらもっと面倒な事になる……)
リコは立ち止まったまま思考する。
発熱のせいで上手く考えもまとまらず、脳内は混沌とし始める。
日記帳の内容は知らないし、確認するつもりもないが、内容次第ではマイが弱みを握られたと思ってしまう可能性がある。
リコにとっては今の『後ろの席と前の席』という関係や、『毎日挨拶を交わす』という関係性ですら嫌になるギリギリのラインなのだ。
唯一、『マイがリコに対する用事を仲介する』という関係性は利点の方が大きいと考えられているが、そのことでさえ一歩間違えれば嫌になるだろう。
とにかく、そんな思考を巡らせてしまうリコにとって、これ以上マイとの関係性を増やしかねないこの日記帳は、一刻も早く手放したいものだった。
「はっ、はっくしょん!」
結局、リコの思考は自身のくしゃみによって中断される。
肌寒い夜にジャージでは、そう長く外にいられるものではない。
だがしかし、思考のリセットが入ったおかげだろうか。
身体と同時に冷やされたリコの頭には、解決策らしきものが浮かんできた。
(ノートの間に挟まってたってことにして、知らないふりしよ……)
週末の間にマイが訪ねてくれば、その時探して見つけたことにすればよし。
学校に戻ってからなら、まだ見られていない教科のノートにはさまっていたことにして返せばよし。
我ながら完璧な解決策ね、なんて考えながら、リコはノートの束を抱えなおす。
(というか、こんな時間に女子高生一人で出歩いてて、あの人大丈夫なのかな)
ポストを閉め、玄関に振り返ってふと、リコはそんなことを考えた。
心配というよりは、純粋な疑問。
リコの家は学校から非常に遠いというわけではないが、近くもない。
歩いて45分ほど。一時間はかからないくらいの距離だ。
だというのに、どうしてマイはこんな時間に訪ねてきたのだろうか。
(まあ、私が気にすることでもないか)
リコはそう考え、玄関に向けて歩く。
リコにとってのマイは、そう深い関わりのある人物ではない。
現状適切な距離感を保てている、ただのクラスメイトなのだ。
『ビビビビビビビビッ!!』
「えっ?」
直後、突然聞こえたのは、数秒に渡る耳障りな電子音。
音の聞こえ方からして、すぐ近くというわけではない。
鳴り始めてから五秒もしないうちに聞こえなくなったので、夜の住宅地で気にする人も少ないかもしれない。
ただし、リコはその音に聞き覚えがあった。
(今の、防犯アプリの音……?)
高校生活が始まったばかりのころ、学校で一時間分だけの防犯講習のようなものがあった。
とある防犯アプリケーションはその中で紹介されたもので、携帯電話にインストールすれば、簡単な操作で素早く不快な電子音を響かせることができるというものだ。
電子音が鳴り始めてから五秒後には、自動で指定した連絡先に位置情報が送信されるという優れものだったはずである。
リコのクラスではその授業の後、五秒経過する直前で通報をキャンセルするというチキンレースが少しだけ流行り、読書中のリコは大変不快な思いをしたことから、強く記憶に残っていた。
(すぐ止まったってことは、誰かが間違えて使った?)
簡単な操作で素早く通報できるということは当然、間違いの可能性もある。
しかし、リコもリコの家族も防犯講習があるまではアプリの存在を知らなかったため、そう有名なものではないはずである。
それだけでならまだいいのだが、確実に防犯アプリの存在を知っていて、なおかつ今この近くの屋外にいるはずの人物に、リコは心当たりがあった。
(まさかとは思うけど、飯間さん?)
心当たりとはもちろん、先ほど見たばかりの飯間マイのことだ。
彼女なら確実に防犯アプリを知っているし、インストールしている可能性もある。
家の前にタクシーやその他車両が止まったような音はしなかったから、おそらくマイは徒歩か自転車で立ち去ったのだろう。
ということは本当に何かがあって、マイが防犯アプリを使った可能性もあるのでは?
(もしそうだとして、私が行く必要はある? 何かあったとしても解決できる気なんてしないし、何もなかったらもっと面倒じゃない?)
再び、リコは考える。
また立ち止まって、回らない頭が痛み始めた。
「ごっ!? ごほっ!ごほっ!」
先ほどはくしゃみで中断された思考が、今度は咳で中断される。
リコの頭もリセットされ、最初に目に入ったのは、抱えていたノートの束。
そしてその上にあった、マイの日記帳だった。
(まあ、何もなかったらこれ渡しに来たって言えばいいか)
リコは、ノートの束をポストに戻し、日記帳を片手に音の聞こえた方に歩き始めた。
それは、発熱した頭でこれ以上何かを考えるのが面倒になったからだった。
そして、どうせ日記帳を渡せれば全部解決すると、投げやりに考えていたからだった。
つまりリコは、音の聞こえた方角で本当に何かが起こっていた場合、何をするかということについては、全く考えていなかった。
◆◇◆◇◆
「はっ……! はっはっ……!」
街灯が少なく、月明かりもほとんどない住宅街。
とある高校の制服と、リュックサックを身につけた少女は走っている。
茶色いショートカットの正面は切羽詰まったような表情で、しかし声をあげることはことは無く、ひたすらに走っている。
曲がり角があれば必ず曲がる。
度々後ろを振り返る。
何かに追われているようなその様子は、明らかに普通ではない。
「は、はぁ……はぁ……」
しばらく走り続け、後ろを振り返った後、街灯のない道端で、少女は座り込む。
住宅街の壁に、背負うリュックサックを押しつけて俯く。
しばらくそうして固まったあと、少女はふと俯いた顔の前に、手袋のはまった両手を広げた。
「飯間さん?」
「ひっ!?」
声が聞こえた瞬間、茶髪の少女の肩が跳ねる。
同時に、少女の視線は声の方に向いた。
「……ロボちゃん?」
「まあ、そうだけど」
声の主は黒いセミロングの髪を伸ばした、ジャージ姿の少女。
鵜坂リコは、歩き出してからたった数分で飯間マイを見つけられてしまったことに、内心驚いていた。
同時に、明らかに普通ではないマイの様子を見て、早くも後悔し始めていた。
いつもは笑顔ばかりのマイの顔に、涙と汗が浮かんでいるのを見て、心の底から家に帰って布団に包まって寝たいという気持ちが沸き上がってきていた。
「あの、ロボちゃんって今携帯持ってる?」
その言葉で、リコの後悔は急激に加速する。
学校で今の質問をされたなら、連絡先の交換が目的だと思えたかもしれない。
だが、19時頃の暗がりで、汗と涙を流しながら俯いていた女子高生が、突然現れた知り合いに携帯電話の有無を確認する理由を、なんとなくリコは察してしまった。
「今は持ってない」
だが、残念ながらリコは今、携帯電話を持っていない。
元々、ポストの中身を確認するために出てきただけなのだ。
先ほどまで布団の中に居たのだから、リコの携帯は自室の机の上で充電されていることだろう。
つまり、携帯を持っていればできるような、今この場で誰かに電話をかけるといったこともできないのだ。
「そっか、じゃあできれば、一番近い駅かなにか教えてくれないかな」
その言葉を聞いて、リコは少しだけ安心する。
(ああなんだ、ただ道に迷っただけかな)
はっきり言ってリコは、マイが何かしらの事件に巻き込まれた可能性を考えていた。
防犯アプリの音、異常な様子に携帯の確認と、不安になる要素は多かったが、その後に助けを求めに来るのではなく、道を尋ねてくるのなら、重大な事態ではないのだろう。
それこそ、道に迷って迷子になってしまっただけかもしれない。
(駅か何かってことは……帰り道が分かるような目印を教えてあげた方がいいか)
リコは少し考えて、口を開く。
「それだったら」
「見つけたぞ!」
リコの言葉を遮る、やたらと大きな声。
声質は男性的で、明らかにマイの声ではない。
実際、マイの顔はリコとは反対側に勢いよく向いていた。
「あっ? もう一人いるのか?」
そう言って近づいてきたのは、長身で短髪の男性。
顔はやつれており、目つきは悪い。
暗くてよく見えないが、髭も手入れされていない気がする。
リコは咄嗟に、目の前の男性が何者なのか考えてみたが、痛む頭では見覚えが無いということしかわからなかった。
同時にリコは、この男性にあまり関わるべきではないということも直感した。
「えっと……」
リコは言葉に詰まる。
頭の中が再び、家に居ればよかったという気持ちで一杯になる。
どんな返答をしても間違いになる気がして、リコの思考は停止する。
結局リコがとった行動は、言葉を詰まらせたままマイの方に視線を向けるというものだった。
(ああ、もうやだ)
即座に、マイに視線を向けたことを後悔する。
男性を見るマイの表情が、明らかに異常だったからだ。
先ほどまでは潤んでいる程度だったマイの瞳から涙が流れ始めている。
いつも笑顔を浮かべていた口は、半開きになって息を漏らしている。
そしてなにより、そんな表情を浮かべたマイの全身が震えている。
その顔から読み取れる感情は、恐怖だ。
マイに何があったのか、リコにはわからない。
この男性が何者なのかもわからない。
ただ、リコの視線に気付いたマイが、目を合わせてきたことはわかった。
(本当に勘弁して……)
そして、目を合わせて来たマイが、明らかに助けを求めていることもわかってしまった。
「おい、あんたこいつと知り合いか?」
男性が尋ねる。
表情から感情は読み取れないが、やけに目が座っている。
マイの状態には気づいているはずなのに、ただリコの方を見てくる。
リコは何も出来ない。
声を出すことも出来なければ、身体も動かず、このままでは何かまずいと思いつつも、思考も進まない。
「あ……あの……」
意外なことに、次に口を開いたのは、リコと同じく固まっていたマイだった。
「道、教えてって言ったけど、やっぱり、いいです」
リコは目を見開く。
「いきなり、すいませんでした。気にしないで、ください」
やけに他人行儀な口調。途切れ途切れの息遣い。
それでもなんとかつなぎ合わせたような言葉を残して、マイが立ち上がる。
立ち上がって、男の方に向き直る。
(は? なんで?)
何故そんな行動をするのか理解できない。
何故そんな目をして背中を向けるのか理解できない。
リコの熱と頭痛に支配された頭では理解できない。
ただし、絶対に。これだけは絶対にと、思うことがあった。
マイとこれ以上の関係を持ちたくないと思っていても、この場から一刻も早く離れたいと思っていても、一つだけ。
(このまま帰っても、スッキリしないんだけど)
ただそのことと、マイの態度と、ぐちゃぐちゃな思考がムカついたというだけで、
「何言ってるの? 飯間さん」
鵜坂リコは、飯間マイの肩を掴んだ。
「この後私の家に来るって話だったでしょ?」
咄嗟に出た出まかせで、マイの目が見開かれる。
直後にリコは後悔する。
この後どう続けるかを考えていなかった。
「ほらこれ、忘れ物でしょ? 他にもノートとか一杯残ってるんだから、持って帰ってもらわないと困るわ」
咄嗟に思いついたのは、日記帳を掲げて見せること。
直後、マイが明らかに動揺の表情を見せる。
「なんでそれ持ってるの!?」
リコが(あっこれ失敗かも)と思うより早く、マイがリコに詰め寄る。
「中身見てないよね!?」
しかし、そのおかげでマイはこちらを向いて、少しだけ男から距離を取れた。
「あー!もう行こう!!」
もうなんとでもなれとリコはマイの腕を掴む。
そのまま思いっ切り引いて走る。
「なっ!? 待ちやがれ!」
(もう知らない。理解しなくていいや)そんな考えでリコは走る。
いつしか腕を引かれていたはずのマイも走り始める。
引いていたはずなのに横並びになる。
同時に、マイと繋いでいた手から、奇妙な感覚が伝わってきた。
(なんか濡れてる?)
少し気になったが、確認する暇もない。
「―――ッ!!」
走っていると、何かが背後から聞こえた。
(うん? 今なんて?)
誰かの声であることはわかったが、聞き取れなかった。
叫び声というには発音が多かったような気もした。
『ごっ』
強く頭を打ったような感覚。
直後、視界が暗転する。
全身から力が抜ける。
そして、道路に膝を打つ。
視界に道路が映る。
また暗転する。
「―――――!? ―――――!!」
誰かの声で、リコの意識が戻る。
(あれ? なんか赤い?)
リコが考えられたのはそれだけだった。
それ以上なにもわからなかった。
次に、(頭が痛いからか)と思ったが、痛みは感じなかった。
赤色の先に口を大きく開き続ける飯間マイが見えたが、ノイズキャンセルがかかったように何も聞き取れなかった。
「――ちゃん!! ロボちゃん!!」
ようやく聞き取れるようになった頃には、リコの視界は道路と並行になっていた。
眼を動かして赤い視界の端を見ると、長身の男がいた。
「ああ、やっぱできちゃうのか。ああ、どうしよ」
男は明らかに動揺した表情をしていて、右手になにか持っていた。
それは大きな透明の何かで、何かが滴っていた。
(赤っぽいからもしかしてって思ったけど、透明なら氷だからただの水かな)
リコがそんなことを考えていたが、直後に道路もなにか濡れていることに気が付いた。
見ると、自分の頭が水たまりに沈んでいることに気付いた。
(あれ?今日雨だっけ? 梅雨はもう終わったんじゃ?)
リコはやけに考えがまとまらないことを不思議に思っていた。
そのせいか、全身が全く動かないことには気付けていなかった。
「ロボちゃん!」「これできるなら……」「起きてロボちゃん!」「できるよな……?」
どうでもいい思考を巡らせ、繰り返しマイの声を聞いているうちに、また男が何か喋り始めていた。
「――――――」
今度は落ち着いた男の声が聞こえたが、やはり聞き取れなかった。
(うん? 今度は白い?)
リコは視界が白くなったのかと思ったが、正確には男のいる方が光っていたようだった。
光はどんどん大きくなって、リコの視界と、視界に映るマイを覆いつくした。
(あれ? おかしくない?)
リコの意識が完全に途切れた。
◆◇◆◇◆
(……?)
意識が戻る。
(なんだっけ……私は……)
何もかもがぼんやりしたような感覚。
一瞬、自分が何なのかわからなくなる。
少しして、彼女はこの感覚に恐怖を覚えた。
(私はなに? 忘れてる?)
なにか絶対に忘れてはいけないことを忘れてしまったような感覚。
(怖い……さっきよりずっと……)
ひたすらに恐怖だけが襲ってくる。
感じたことも無いような、強い恐怖。
(……さっき?)
しかし彼女は同時に、既視感を覚えた。
今ほどではないが、つい最近同じような恐怖を感じたことを思い出す。
(さっきも……怖かったな。飯間さん……飯間マイさんはどうなったんだろ)
飯間さんまで思い出すと、名前は自然に出てきた。
飯間マイ、彼女も酷く怯えていた。
(いや……そういえば私は? 私はどうなったの?)
そこで気付く。
マイはともかく、自分はどうなったのだろう?
マイも怯えていたが、自分だって怖かったはずでは?
(そもそも私の名前は?)
そこまで考えると、誰かの声が聞こえた。
「ロボちゃん……」
(そっか、私はロボちゃん?)
確か、マイは自分のことをロボちゃんと呼んでいたはずだ。
つまり、自分の名前はロボちゃんなのだろう。
『いや! そんなわけないでしょ!!』
「えっ!?」
即座に否定する。
自分はれっきとした日本人であり、マスコットキャラクターのような名前はしていない。
『う、さ、か! 鵜坂リコ! それが私の名前! あーあぶなかった!』
「えっ? えっ?」
ようやく名前を思い出せたリコは、もう忘れないようにと強く心の中で思う。
少しの間だけとは言え、自分の名前を忘れるとは何事か。
何が危なかったかと言えば、ロボちゃんなどという今時お掃除ロボットにすら付けられないような名詞を、自分の名前だと認識してしまうところだったことだ。
『はーもうなんなの!? 風邪は全然治んないし、ポスト見たら日記帳入ってるし、届けに行ったら変な人いるし! なんでこういろいろ面倒なのよ!』
吐き出すように言葉を並べる。
自室のベッドで寝ているだけならまだしも、何故こうも面倒事が連鎖するのか。
今日は厄日か仏滅か、なんにせよ良い日でないことには間違いない。
マイは「いい夜を」なんて言っていたが、振り返ってみればとんでもない夜だった。
「えっと……ロボちゃん?」
『あっ』
しかしながら、どうやら振り返るにはまだ早かったらしい。
聞き覚えのある声でリコは固まる。
固まって、感情をぶちまけたことを後悔する。
先ほど聞こえ、今聞こえた飯間マイの声は、実際に近くで発せられていたらしい。
「ロボちゃん? 近くにいるの?」
『まずいどう切り抜けっ、えっ?』
思考を巡らせていたリコだったが、マイの言葉で気が抜ける。
近くにいるも何も、声が聞こえるのだから近いに決まっている。
『……まった。ここどこ?』
そこで、気付いた。
さっきから考えは持てるが何も見えない。
手を動かしてみようにも動かせない。
いや、動かせないというかそもそも手の感触が無い。
そこまで考えて、リコは先ほどの強く頭を打ったような感覚を思い出した。
『手も動かせないってことは、ひょっとして全身麻痺? 頭打ったから? てことはここ病院? 飯間さん近くにいるの?』
次々に考えが浮かぶ。
声には出していないはずだが、思ったことがそのまま身体から出て行ってしまっている気もする。
そんな気持ちの悪い感覚でさらに頭が混乱する。
「あーっと、ロボちゃん落ち着いて!!」
『うわっ!』
大きな声。
リコは大きく驚いたが、おかげで思考がリセットされる。
「確認なんだけど……ロボちゃんというか、鵜坂リコさんでいいんだよね……?」
『う……うん、ごめん』
「ああよかった! 近くにいるんだ!」
どうやら自分の声……というか、伝えようとしていることは伝わっているらしい。
マイの声は近いので、おそらくは本当に近くにいるのだろう。
しかしリコは相変わらず何も見えないし、手足も動かせない。
『とりあえず飯間さんはどこにいるの? こっち何も見えないんだけど……』
「えっと……どこかはわかんないかな。でも空は見えるよ! 月が綺麗!」
『な……なるほど……?』
空が見えるということは、多分空が見える位置にいるのだろう。
月が綺麗ということは、多分今は夜なのだろう。
そしてどこかはわからないということは、ここはどこか知らない場所なのだろう。
というか、遮るものがなければ地球上どこでも空は見えるし、月も見える。
つまり結論としては、ここがどこかはわからないということになる。
『とりあえず、目に付いたものを教えてもらえる?』
「オッケー! って言っても、実はよくわかんないんだよね。一面瓦礫の山って感じで」
『瓦礫の山? それって……』
そこでリコはあることに気付く。
今の自分は並行感覚すら怪しいが、そういえばマイの声は上から聞こえる気がする。
『ひょっとして私、埋まってない?』
「あっ」
マイも気付いたようで、間の抜けた声が上から聞こえた。
「ロボちゃんあの……声?の方向からして多分私の下に居ると思うんだけど、出られそう?」
『あー…………無理かな。全身の感覚無いし』
「えっ!?」
マイはショックを受けたような声の後、マイの言葉が途切れる。
リコもそれに応じるように黙り込む。
しばらくの沈黙。
「えっと……掘るね!」
『えっ!?』
マイの突然の意思表示に、リコはさっき聞いたような叫び声をあげた。一瞬止めようともしたが、よくよく考えるとそれしかないような気もする。
というか既に上方から何かが崩れるような音が聞こえている。
『大丈夫!? ケガしない!?』
「大丈夫! 手袋してるから!」
『そういう問題なの!?』
リコは思わずそう叫んだが、リコの質問の方も少しずれている。
(えっと……冷静に、冷静にならなきゃ)
リコは混沌とした現状を整理するため、一度頭をクールダウンさせる。多分自分は間違いなく埋まっているが、会話はできている。
おそらく、奇跡的に十分な呼吸ができるだけのスペースは確保できているのだろう。
その証拠に意識ははっきりしているし、こうなると逆に、急いで瓦礫をどかせば危険な可能性もある。
(というか、呼吸が出来て声が届くなら、私ってそれなりに浅い場所にいるんじゃ?)
そのことに気付いた瞬間、リコは妙な感覚を覚えた。
(あれ? なんか動かせそう?)
手とも脚とも違うような、妙な感覚。
何かを動かせそうという感覚だけが、リコに伝わってきた。
『飯間さん! 多分もう動けそうかも!』
「ほんと!?」
嬉しそうなマイの声。
リコはそれに答えるように、感覚のまま「動かして」みる。
『ガラガラガラガラッ!!』
「きゃあ!?」
何かが崩れるような音と、マイの悲鳴。
『大丈夫!?』
リコは咄嗟に「動かす」のを中断するが、崩れる音は止まらない。
むしろ、どんどん大きくなっている。
「地面が揺れてる! なんかせりあがってるし!」
『どうなってるの!?』
「わかんない!!」
いきなりの地震か、また別のものか。
もしかすると、瓦礫の下にリコとは別の何かがいた可能性もある。
(どっちにしろ、早く出ないと危ない!)
リコはそう考え、「動かす」のを再開する。そうしているうちに、先ほどまでなかったはずの手足の感覚が戻ってきた。
『飯間さん! 何かにつかまってて! 多分もう出られる!』
「わ、わかった!」
リコはマイの声が聞こえない方である、「下」に手をつき、起き上がる。起き上がったら膝を曲げ、地面に対して立ててみる。
「ロボちゃん!? なんかどんどんせりあがってるんだけど!」
『多分もうちょっと!』
マイの困惑に対し、リコは一言だけ答えて、立ち上がった。
「きゃああああああああ!!?」
空から差し込む月明かりが、リコの上に降り注ぐ。
ついでに言えば、マイの悲鳴も上方から聞こえた。
そこで初めて、リコには周辺の景色が「視えた」。
『……なにこれ』
リコに視えたのは、自分を囲む瓦礫の山。
瓦礫の土台になっているのは、岩だろうか。
もしかするとここは岩山かなにかなのかもしれない。
だが、そんなことよりも決定的に、強すぎる違和感が一つ。
『なんか……高くない?』
視点が高過ぎる。
いつも通り、「前が見えて、後ろが見えない状態」ではあるのだが、どう考えても足元が遠い。
二階から地上を見下ろしているような感覚から察するに、おそらくリコの視点は地上四メートルほどの位置にある。
そんなことよりも恐ろしかったのは、今のリコ自身に地に足を付けている感覚があること。
そしてその感覚を伝えているのが、視点の下に伸びる瓦礫のような何かだったことだった。
「あの…………ロボちゃん」
『……うん』
「これ…………ロボちゃん……?」
リコは自分の身体を見回してみる。手のつもりで動かし、目の前に現れたのは、自分から伸びるレンガ混じりの瓦礫の塊。
おそらく、今のリコは瓦礫の塊そのものであるようだった。
「わかんないかな……」




