宮廷図書館③
「おかえりなさいです、フィカさま、エセルさま!」
「おかえりなさいなのです……うむむ?」
エセルたちが家に着くなり玄関がバァンと開き、フィカの使い魔である白フクロウのロフと黒ネコのロネが歓迎してくれる。
いつもの光景なのだが、ロネの様子がちょっと変だった。小さな翼をパタパタと動かしてエセルに近づいたかと思えば、ベレー帽に鼻を近づけくんくんと匂いを嗅ぐ。
「この匂いは……ネズミなのです!」
「ヂィィ!?」
ロネは止める間も無く右の前足を動かすと、エセルのベレー帽をはたき落とした。途端にエキナリウスのマールが姿を現す。ロフの目もキラリと光った。
「ネズミ!」
「ボクの獲物なのです!!」
使い魔二匹が丸々太ったご馳走を前に理性を失った。
エセルの頭上で取っ組み合いの喧嘩を始め、羽が舞い、毛が飛び散った。
「わぁぁぁ、マール、逃げてっ!」
「ヂィィィッ!」
マールはエセルの頭からぴょんと飛び降りると、一目散に森の奥に向かって逃げ出した。
「逃げたです!」
「待つのです!」
「およし!」
マールを追いかけようとする二匹を止めたのはフィカの轟く様な声だった。雷に打たれたかの様に硬直する。
「あれはエセルちゃんのペットよ。食べるのは禁止! アタシたちは疲れてるの。さぁ、さっさと家に入って夕食にするわよ」
「は、はいです」
「ごめんなさいなのです」
主人に叱り飛ばされて、二匹は慌てて家に入った。フィカとエセルもそれに続く。
家の中は煮込んだ料理と焼きたてパンの香りに包まれていて、ほっとする空間だった。
「エセルちゃん、先に湯浴みしていいわよ」
「うん」
「エセルさま、これ、着替えです」
「ありがと」
ロフに渡された着替えを持って、エセルは浴室に向かった。
エセルはフィカの家の浴室が好きだった。天井から吊るされたランプからオレンジ色の柔らかい光がなげかけ、木造りの浴室全体を柔らかく包み込んでいる。
浴室の壁には大きな鏡がかけられていて、木の蔓を模した装飾が施されているのだ。
そしてその前には、色とりどりで香りもさまざまな石鹸が置かれている。
フィカは色も形もバラそっくりで、バラの香りがする石鹸を好んで使っているようだが、エセルが好きなのは金木犀の香りの石鹸だ。四角いつるりとした石鹸は全体的に透き通っていて、中心が橙色。泡立てるとほんのり甘い香りがする。その主張しすぎないところが好きで、エセルは金木犀の石鹸をよく使っていた。
「♪」
鼻歌を歌いながら石鹸をあわあわさせ、体にも頭にも塗りつけていく。今日は埃をたくさん被ったので、いつもより念入りに洗う。全身を泡でモコモコにしたところで、お湯をざぶんと頭から被る。
「ぷはぁつ」
綺麗になったところで湯船に浸かる。
真っ白なバスタブは楕円形で、四つの金色に塗られた猫足に支えられていた。
表面には淡いピンクのバラの花びらが散っていて、見た目からして贅沢である。
エセルにとって広めのバスタブは、座ると顎までお湯が迫る。ぬるすぎずあつすぎないお湯の中に浸かっていると、なんとも言えない幸せな気持ちになるのだ。
「今日は色々あったなぁ〜。いっぱい空を飛んで魔法都市に行って、幽霊さんに会って、本を探して」
エセルは今日の出来事を指折り数えた。
「そうだ。こっそり持って帰ってきた本、寝る前に読んでみようっと」
フィカが「価値がない」と断じた本は、タオルに包んで脱衣所に置いてある。あとで部屋に持ち帰って読んでみようと心に誓った。
湯船の中にいると、だんだん上がるのが億劫になってくる。特に魔法をたくさん使った日は顕著だ。何度かとろとろと眠ってしまって、ロフとロネに救出されたこともあった。
誰かが心配して様子を見に来る前に上がらなくちゃと、重たい体を動かして湯船から出た。
ぴかぴかでいい匂いになった体をふわふわのタオルで拭いて、部屋着に着替える。
そろそろ肌寒くなってきたので、やや生地が厚めのゆったりした白いネグリジェを渡されていた。頭からすぽんと被って袖を通し、それからタオルに包んで隠してある本を持って浴室から出た。
「あがったよっ」
とととと、と居間を小走りで横断して自分の部屋に行き、パタンと扉を閉める。どこに本を隠そうかなと考えて、衣服の詰まったクローゼットに手をかけた。ぎゅうぎゅうに詰め込まれている服の間に本を置く。
「これでひとまず、大丈夫……かな」
「エセルさまーごはんできましたです」
「冷めないうちに食べるのです」
「あ、うん!」
エセルはクローゼットの扉を閉めると、すぐに居間に引き返した。
お風呂は寝る前派のフィカは、三角帽子だけを脱いだ状態ですでにテーブルについている。
「何してたの?」
「うん、ちょっと……えへへ」
エセルは笑って誤魔化した。何を言っても不審がられる気がする。フィカはそれ以上追及せず、「ふぅん」とだけ言うと、キッチンで忙しなく働くロフとロネの方を向いた。
「お腹がすいたわ!」
「はいです!」
「ただいまお出しします!」
ワイングラスが宙を飛び、フィカの前に着地する。ポンッと音がしてワインボトルが現れて、なみなみと赤ワインをグラスに注いだ。フィカはそれを手に取って、ひとまず喉を潤していた。
エセルの前には足の低いグラスに注がれた葡萄ジュースが現れた。手に取って飲むと、体の中に染み渡る。そういえば魔法都市に行っている間、飲まず食わずだったことを思い出した。
いったん思い出すと、お腹がひどく疼き出す。一気に葡萄ジュースを飲み干すとおかわりが補充され、それもごくごく飲んでしまった。
「それです」
「それそれなのです」
ロフとロネの合図に合わせ、料理の載った大皿がキッチンからビュンビュン飛んでくる。
「今日のスープは、栗とキノコのチャウダーです」
「サラダはさつまいもと黄金かぼちゃのクリームチーズ和えなのです」
「フィカ様のメインは鹿肉のローストにナッツのソースを添えて」
「エセルさまには、たっぷりとチーズを載せた厚切りパンなのです」
お腹がぺこぺこだった。
エセルは、自分の前に置かれた料理を次々に平らげる。
秋の恵みがふんだんに使われた夕食は、今まで食べた中で一番美味しく感じた。
夢中で食べるエセルは、ふた切れのパンをあっという間に食べ終えて、追加で三切れ食べた。
パンに載ったチーズがとろりとしていて、濃厚でやみつきになる。
「はふぅ、おいしい」
「よかったです」
「たくさん食べるのです」
体が綺麗になり、お腹が満たされたエセルはまたしても眠くなり、テーブルにだらしなく体重を預けてうつらうつらとしてしまった。
「エセルさま、眠いのです?」
「うん……」
「お疲れなのです」
「うん……」
ロフには翼で頭を撫でられ、ロネには肉球で頬をプニプニされる。翼は柔らかくてくすぐったいし、肉球は温かくて弾力が気持ちいい。エセルは起き上がる気力もなく、二匹にされるがままだった。
「エセルちゃん、部屋で寝た方がいいわよ」
エセルとは違い大人なフィカは食後の紅茶を楽しんでいて、まだまだ眠気とは程遠そうだった。
「うん……おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさいです」
「おやすみなのです」
重たい体を起こして椅子から立ち上がり、足を引きずるように動かして部屋に引っ込む。
このまま寝よう、と思ったエセルだったが、頭に引っかかりがあった。
「あ、そうだ……ほん」
ダームスドルフから持って帰ってきた本があったのだった。
日中は慌ただしく過ごしているので、夜にしか読む時間がない。
体はひどく疲れていたし、頭はとても鈍かったけど、本の内容が気になるのでクローゼットを開けて服の間に隠しておいた本を引っ張り出し、ベッドにもぐりこんだ。
腹ばいになって枕に顎を乗せ、ベッドのヘッドボードに本を立てかけた。表紙をそっとなぞってみる。
濃紺の表紙に、クリーム色の文字で『エクレバー冒険記』と書かれていた。
タイトルの下には、竜にまたがった少年の姿が描かれている。白一色のとてもシンプルな絵だ。
魔法図書館にある本は表紙も中身も厚めで若干ごわごわとした紙だけど、この本は違う。
表紙の紙は分厚くつるつるとしていて、中の紙は薄かった。
「素材が違うのかなぁ。羊皮紙じゃないのかも」
とりあえずめくってみる。
遊び紙をめくると、まず地図が現れた。どこかの大陸の地図のようで、街や城、森、丘、谷の名前なんかが書いてある。
その次には目次が現れ、その次がようやく物語の始まりだ。
どうやらこの本は、エクレバーという少年が宝を探して大陸中を旅する物語のようだった。
エセルがこれまで読んだどの本とも違い、文体は砕けていて、まるで誰かが話した内容をそのまま文字に起こしたかのような本だった。
エクレバー少年の目線で物語がずっと続くので、臨場感があり、まるでエセルもエクレバーと一緒に旅をしている気分になれる。そんなわくわくする話だった。
エセルは、疲れていることも眠かったことも忘れ、夢中になってページをめくった。続きが気になって気になって仕方がなかった。
けれど、エセルはまだ九歳の少女なので、欲求は本能に抗えず、本を読んでいる不自然な体勢のままいつの間にか眠ってしまっていた。
その夜エセルは、少年エクレバーと一緒に竜に乗って空を飛ぶ夢を見た。
竜はエセルが操る箒よりもよほど高く、早く空を飛ぶ。
耳元をびゅうびゅうと風が吹き抜け、エセルは落ちない様に必死で竜の鱗にしがみついた。
前に乗るエクレバーがエセルを振り向く。描写に出てきたままの、三つ編みにした赤茶色の髪と黄金色の瞳だ。
エクレバーが「落とされない様にしっかりつかまってろよ!」と言い、エセルは「うん!」と頷いた。
次の瞬間、竜が旋回してエセルは竜の背中から振り落とされた。
エクレバーの驚いた顔がエセルの瞳に映り、どんどん遠のいていった。




