月だけが見てる
「ど、どうして…?なんでですか?」
ざあざあと雨の音が響いている。
自分が狼狽えた声を出しているのを他人事のように聞いていた。体が震えている。この部屋はこんなにも暖かいのに。彼の服から離された右手は、行き場を失ってソファに沈み込んだ。
彼は眼鏡越しに私を見ていた。いつもと変わらないはずの視線が、酷く冷たく、重く感じられる。
この人は誰なのだろう。頭の隅っこでそんなことをぼんやりと考えた。
「なんでも、だよ。キスはできない」
普段と至って変わらない、低くて優しい声で、彼は私を諭した。ああ、彼は紛れもなく“佐藤さん”なのだ。私に優しくしてくれた、ただそれだけの人だったのだ。
ぽたりと雫がソファに落ちた。口角が上がる。きっと私は今、いびつに微笑んでいるのだろう。
やっと気づいたのだ。
熱を上げて、惚れ込んでいたのは私だけ。“佐藤さん”は私のわがままを聞いてくれる優しい他人だったのだ。
「千鶴ちゃん」
遠くで彼の声がする。ぽたぽたと涙は止まらなくて、ソファの上に水溜りを作る。私はぼんやりとその様子を見ていた。
「千鶴ちゃ」
肩に誰かの手が乗せられる。温かい。
与えられた刺激は私の意識を浮上させた。
「かえり、ます」
涙を拭うこともせず、私は立ち上がった。
リビングを抜け、廊下を突き進み、玄関にある私の靴に足を突っ込む。がちゃんと荒々しくドアを開いて、そのまま濡れた通路を駆けた。
“佐藤さん”は追いかけてこなかった。
エレベーターを待つのが嫌だった。早くこのマンションから立ち去りたくて階段をかけ降りた。
静かなマンション構内に、私の足音だけが響いている。
踊り場をぐるりとまわろうとして、足を捻って転んだ。
「…うう」
声を上げて泣き出してしまいそうなのをぐっと堪えた。ここではダメだ。通路に響いてしまうから。
マンションを出れば、きっと雨音にかき消される。その一心で私は駆けた。
一階の通路を抜けて、駐車場の前の道路で立ち止まった。
「帰り方、わかんない…」
彼の車で二回、ここへ来たことがあるだけ。
最寄り駅までの道なんてわかるはずもない。それに、こんなずぶ濡れなら電車に乗せてもらえないかもしれない。
あまりにも惨めで、また視界が歪んだ。春の冷たい雨が体を突き刺す。堪え切れない嗚咽が口からこぼれ落ちた。
サツキの葉が生い茂る花壇に腰をおろして、気持ちを落ち着ける。雨が冷たくて、体が震えるけれど、涙は止まった。とりあえず、父に電話しよう。今日は休みのはずだから…。
雨よけになる所まで歩いて、携帯を取り出した、その時。
「千鶴ちゃん!!!」
聞いたこともない、切羽詰った声で誰かが私の名前を呼んだ。振り向いた時には、私の冷たい体を誰かが抱きしめていた。
「佐藤…さん…?」
弱々しい掠れた声はきっと雨にかき消されてしまっただろう。彼からの返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは泣きそうな佐藤さんの声。
「もう、君を、っ離さない……」
耳元で囁かれる言葉に、また視界が歪んだ。雨の中、私達は泣きながら抱き締めあっていた。
家に戻って、まず最初に佐藤さんはお風呂に入れてくれた。
奇跡的に濡れていなかった鞄の中身を確認して、シャワーや水温調節のやり方をさっくりと教えてくれた後に、彼はすぐにお風呂場から出て行った。
「さと…隆幸さん、上がりましたよ」
うっかり佐藤さんと呼びそうになったけど、なんとか取り繕う。隆幸さんはソファじゃなくてカーペットのあるフローリング上に座っていた。ちょいちょいと手招きをされ、近寄る。
「ぅ、わ」
下から引っ張られたと思ったら、あぐらをかいた隆幸さんの膝の上にいた。不思議と恥ずかしさはない。吹っ切れてしまったのかもしれない。
それから彼は自分の気持ちとかどうしてキスしてくれなかったのかとか、沢山話してくれた。
私達は思いを伝えているようで伝えていなかったんだね、と隆幸さんは笑う。
髪を撫で、頬を撫で、唇を撫でた。普段彼が私にしてくれるみたいに。この思いが伝わるように。
「隆幸さん。もう、キスしてくれますよね」
口にして、なんだかキス魔みたいだと恥ずかしくなった。
けどもう引くことはできない。彼の膝から降りて、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「……いいのか」
「なにが?」
「もう、逃がさないよ。本当にいいの」
「逃げませんよ。最初から逃げるつもりなんて、これっぽっちもなかったもの」
真っ直ぐに、彼の心に届くように。ゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぐ。
ぎこちなく肩に触れる手は、いつもの隆幸さんとは全く違う。けれど、感じられる優しさは全く同じだった。
目を閉じる。柔らかくて、温かい唇が額、鼻先、瞼とキスの雨を降らす。
薄く開いた私の唇に、吐息がかかる。ぞくり、と背筋が粟立った。
「…ん、んぅ」
唇と唇が触れ合った瞬間、腰がぴくんと跳ねた。
こんなの、知らない。キスだけでこんなに、こんなにも体が反応するなんて。
隆幸さんは角度を変えて、一度唇を離した。唇だけじゃない、体全体が熱でも出たかのように熱い。
「隆幸さん、もっと…」
彼の服の裾を掴んでねだる。もうなりふり構っていられない。
彼が欲しくてたまらない。
隆幸さんは薄く笑うと、ひょいと私を抱きかかえた。
ああ、私、しちゃうんだ…。
ベッドに寝かされ、隆幸さんが馬乗りになって私を見つめた。ばくんばくんと心臓が跳ねている。
眼鏡を外した隆幸さんはいつもよりなんだか、こわい。
はあ、と熱い吐息を吐いてどちらからともなく唇を合わせた。隆幸さんの熱い舌が私の唇を舐める。ぞくりと体が震え、私は薄く口を開いた。
「んっ、んぁ」
柔らい舌が私の舌を絡めとる。知らず、びくびくと体が跳ねた。
鼻にかかった甘ったるい声が聞こえる。
自分がこんなはしたない声をあげているのだと、認識した途端体がカッと熱くなった。
「千鶴ちゃん、もう、いいか」
隆幸さんが欲に濡れた目で私に聞いた。きゅん、とお腹の下の方が疼く。
こくりと頷けば、隆幸さんは擦り合わせた腿にするりと触れた。熱く、湿った掌が腿の外側からふくらはぎ、爪先までゆっくりと撫でていく。
きゅっと丸めた爪先を、彼は愛おしそうに撫でてキスをした。
背徳感に、頭がくらくらする。
その夜は二人して理性のタガが外れてしまったかのように求めあった。
甘えた声が出るのも抑えられず、何度も何度も隆幸さんの名前を呼んだ。まるでそれしか言葉を知らない子供のように。
額に浮いた汗も拭わず、二人でベッドに倒れ込んだ。荒い息で見つめ合う。
「千鶴、ちゃん」
「ん…なん、ですか…?」
「愛して、る」
「……ふふ、ん…私、もです」
雨はいつの間にか上がっていて、満月がカーテンの隙間から覗いている。太陽には見せられない関係だけれど、月はきっと許してくれるだろう。
目を閉じた。彼の唇が降りてくるのをただ待っている。




