7.さやかは中学2年生
「ごめんなさい。遅くなりました」
さやかは、さやかの派遣を希望している、老夫婦の家の玄関に立ち、インターホンを押して、話した。
あの後、バスと電車を乗り継いで、ここに到着したのは、夜の9時を少し回ったところだった。
「おかえりなさい」
ドアが開くと、優しい笑顔をたたえた、おばあさんがさやかを迎えてくれた。
さやかが小さい頃から、さやかをご指名で派遣するように依頼している老夫婦である。
おばあさんといっても、50歳の後半で、背筋はピンとしており、若々しい雰囲気を漂わせていた。
さやかは案内されるままに、食卓へ向かう。そこには、さやかを招いたからといって、特別豪華なメニューではなく、いつもどおりの、ご飯、味噌汁、焼き魚といった、日常どおりのものであった。
さやかは、この老夫婦の娘という設定で派遣されているのだから、当然である。
「遅かったな」
食卓には、おじいさんが、ビール瓶を片手に晩酌していた。さやかに気がつくと、読んでいた新聞をたたんで、食卓に向かった。
さやかは食事を取りながら、この家での中学2年生の設定どおり、学校での出来事を話した。
もちろん、全部作り話であったが、老夫婦はそんなさやかの話を楽しそうに聞いていた。
食事を終え、さやかは、おばあさんが案内してくれた、自分の部屋に入る。学習机の上には、高校生向けの参考書がならび、隣の本棚には、赤い表題の少女マンガや、文庫本が収められていた。
ベッドは、パステルブルーのシーツで、枕元にはクマのぬいぐるみと時計が置いてあった。
さやかは着替えとバスタオルをもち、下へ行き、キッチンで洗い物をしている、淑子の背中に、
「お母さん、お風呂、先に入るね」
と言ってから、浴室へ向かった。
お風呂から上がったさやかは、老夫婦が用意したパジャマに着替えて、居間でお茶を飲んでくつろいでいる大造と淑子に向かって、
「お父さん、お母さん、おやすみなさい」
と、おやすみのあいさつをして、自分のために用意された部屋へ戻り、ベッドに入った。
どのくらいの時間が経過したのだろう。さやかは、暗闇の中で、目をさました。人に見られている気配がしたからだった。枕元の携帯電話のディスプレイには、夜中の4時と表示されている。まだ、窓の外は真っ暗だった。
「さやかさん…」
自分を呼ぶ声がしたので、さやかはベッドに入ったまま、そちらを見た。淑子が、深刻そうな表情でさやかを見つめていた。
「どうしたの、こんな夜中に」
淑子たちの娘という設定なので、くだけた言い方になる。
「今まで、どうして、さやかさんを指名して、ことあるごとに来てもらってたか、わかる?」
淑子は、さやかのそばへやってきて、腰を下ろした。
淑子の方から、設定外の事を言い出したのは、初めてだった。さやかは少しとまどって、
「お母さん? 何をいっているの」
「さやかさん、もう演技しなくてもいいの」
淑子はなだめるように言った。
「なにか、私にご不満な点でも、ございましたでしょうか…」
さやかはそう言ってから、起き上がって、灯りを付けようとしたが、
「いいの、このままでいて。話しやすいから」
淑子に言われて、さやかはゆっくりと、布団の中に戻った。
「さとし、っていう名前に聞き覚えないかしら」
淑子の質問に、さやかは覚えがなったので、わけがわからず首を振る。
「私たち夫婦にはね、さとし、っていう男の子と、さえこっていう女の子がいたの。でも、さとしは、中学校に上がった頃からいじめられるようになり、思いつめていた。そんな中で、さえこが思い病気になって、私たち夫婦は、さえこにかかりきりで、さとしが思い悩んでいたことに気がつかなかった、…いえ、気がついていたのかもしれない」
淑子の告白は、次第に熱を帯びてきた。さやかは、仕事なので、真剣に聞いているふりをしていたが、内心、どうでもよかった。淑子に、こう呼ばれて、抱きしめられるまでは。
「ごめんね、さとし、かまってあげられなくて…」
淑子の泣いているのが、耳元からさやかに伝わってくる。
その瞬間、さやかは自分のことを全て思い出したのだった。




