下弦の月があがる頃 Ⅰ
ゴールデンタイムと言われる時間。
あたしとエティエンヌはお蕎麦を食べていた。もちろん、緑のたぬきじゃなく本物のとろろ蕎麦を。
「やっぱ、お蕎麦は二八蕎麦だよね」
「はい。それと、この鰹節の出汁がなんとも言えませんね」
ふたりして通ぶったことを言いながら、ずるずるお蕎麦をすする。
まぁ、『腹が減っては戦は出来ぬ』ってことで、あんまりお腹に負担のないお蕎麦にしたわけなんだけどね。
「お茶を飲んだら行こうか?」
「そうですね」
我が家ではめずらしいコーヒーを終始無言で飲みながら、あたしたちは最後かもしれない時間を穏やかに過ごした。
「エティエンヌ、今日は鍛錬に付き合ってくれてありがとう。
ううん、短い間だったけど、今までいろいろありがとう」
あたしの言葉にエティエンヌは少しだけ目を瞠った後、胸に手をやり、軽く頭を下げた。まるで、ずっとあなたのそばにいますとでもいうように。
エティエンヌが手を差し出す。
手を取るあたし。
これから舞踏会でワルツでも踊るんだったらよかったのにと思いながら、あたしたちは場を渡った。
「今日は新月なのかなぁ? 月が見当たらないね」
いつも梢の上にある月が今夜は見えない。
「いいえ、今日は下弦ですから、月が上がるのはこれからでしょう」
「そっか」
あたしは短く答えると、守ヶ淵の今日は穏やかな水面を見つめた。
「出てこ~い! 継承者さまがわざわざ来てやったぞぉ~!」
エティエンヌとふたり、このまま突っ立ってるわけにもいかないので、守ヶ淵の中心に向かって怒鳴ってみた。
「そんな煽り文句で出てくるほど単純でしょうか?」
と、エティエンヌが呆れたように言った瞬間、ぼこぼこと水音が聞こえた。
「案外、単純だったみたいね」
オリーブの徴から、赤く染まったラピエールを取り出しながらくすりと笑う。
今回の竜神は最初から人形のまま、水の上を滑るように渡ってくる。
(まったく、今夜は腹が立つくらいきれいじゃないの)
長く白い髪が蝶のように広がり、赤い双眸と相まってため息が出るほどつやめかしい。わずかに開かれた口唇さえ、誘っているように見えるほどだ。
そのつややかな口唇がわずかに開き、低くぞっとするような声を紡ぐ。
「ずいぶん無粋な誘い文句だな」
いつもの“ゆらぎ”の声。しかも、まばたきしないから絶対に“ゆらぎ”だ。
「あらっ、失礼。和歌でも詠んでお誘いした方がよかったかしら?」
「ああ、次は熱烈な相聞歌でも頼むとしようか」
「それは無理ね。次の寄り代じゃ返歌なんて出来ないかもしれないじゃない?」
こいつらは寄り代の能力をそのまんま使うからね。
「それはここで竜神を倒すという宣言か?」
「いいえ、あんたをぶち倒すという宣言よ、“ゆらぎ”」
そう言い放った瞬間、走り始めていた。敵の後ろへ回り、中段から風の刃を放つ。
「しゃらくさい、我に同じ攻撃が通用すると思ってか」
“ゆらぎ”は振り返りざま、右手に出現させた雷神剣で、風の刃をなんなく叩き落した。
はいはい、思ってませんとも。
こちとら、か弱い女の子ですから、念のためとか、小手調べとか繰り出さないと太刀打ち出来ないんすよ。
「エティエンヌ、風以外の結界をお願い!」
相棒へのお願いはなんとも微妙なものだった。
「Oui Mademoiselle.」
苦笑交じりの返事が返り、すぐにピシリとガラスの割れるような音。
たぶん、何だかわからない結界が張られたんだろう。
さて、こっからどうしようか?今までの戦法は読まれちゃってるみたいだしな。
そんなこんなを考えてる隙に、敵さんの攻撃態勢が整っちゃったらしい。
凄まじい音とともに、夜空が切り裂かれ、雷光が落ちてくる。
“ゆらぎ”は振り上げた剣に雷光をまとわせると、上段に構えた。
うわっ、こんなんで切られたら、即死、間違いなしじゃないの。ってか、触れただけで感電死するよね。くわばらくわばら。
「行くぞ!」
“ゆらぎ”はそのまま大上段から剣を振りかぶる。帯のような雷光が向かってくる先はもちろんあたしだ。
けれど、一足先に“ゆらぎ”の右側へターンしていたあたしは真下からヤツの右肩を薄く切り裂いた。
えっ、なんで平然と笑えるの?
前回、ダメージを与えた場所を狙ったのになんともないっていうの?まさか、この短期間で治っちゃったとか?
いや、そうだとしても、落ち着け、あたし。
このままじゃ前回の二の舞じゃん。
あたしは “ゆらぎ”の次の攻撃に備えるため、ラピエールを正眼に構えた。
「継承者、汝もつらいのう。たかが、人の身で、我と、神と戦わねばならぬとはな」
“ゆらぎ”は口の中でぐふぐふとあざけるような笑い声を上げた。
そして、笑い終えた刹那、中段から雷撃を放ってくる。
めちゃくちゃ楽しそうに、人を痛めつけるのがうれしくてたまらないといった顔で。
「ほれ、まずひとつ。
それから・・・・ふたつ。そして・・・・三つめだ」
続けざまの攻撃に、あたしはラピエールを振り切れんばかりに振りまくった。
けれど、避けきれなかった雷撃がエティエンヌの結界の上でパチパチと跳ねる。
(重い・・・・重すぎるよ!)
何とか全部、返したものの、体が衝撃で吹き飛ぶ。
ごろごろ、ごろごろ、上なのか下なのか、わからない状態で何度も転ばされる。
やっと、止まったのは大きな樹に体を打ちつけたからだ。
「痛っ・・・・!」
体を丸め、ラピエールを支えに立ち上がろうとする。
こりゃ、打撲じゃすまないかも。特に、背中の痛みがひどい。
動くたびしびれるような激痛にあたしはうめき声を上げた。
そんな時だった、エティエンヌがあたしの前に立ったのは。その大きな背中はどんなことをしてもあたしを守るんだという強いオーラに満ちている。
(エティエンヌ、ダメだよ。あんたが戦ったら一緒にいられなくなっちゃうじゃん)
あたしは相棒のマントを強く引っ張った。
「ほら、エティエンヌは下がってて。コイツはあたしの獲物なんだから、んねっ?」
なんとか、本当になんとか、立ち上がって、笑顔でピースサインを送る。
「あなたって人は・・・・まったく。
それでは大きな傷だけ治しましょう」
“ゆらぎ”が雷神剣を振り上げながら、こっちへ歩いてくる。今度は確実にとどめをさすために。
「エティエンヌ、急いで!」
「もちろん・・・・」
エティエンヌの手が触れたとたん、耐えられないほどだった背中の痛みが瞬く間に消えうせていった。
「ありがとう、エティエンヌ」
すると、あたしたちの一部始終を見ていたらしい“ゆらぎ”が、ふいに立ち止まった。
そして、その赤い目が向けられた先は、なんとエティエンヌ。
「もしやラ・イールか?
六百年前もジャンヌの腰ぎんちゃくであったが。こんな姿になってまでこの女の傍にいたいとは・・・・笑止千万」
そう言うと、“ゆらぎ”はエティエンヌの鼻先に剣を突き付けた。
でも、何を思ったか、すぐ下ろしてしまう。
「お前は六百年前も今もたいそう目ざわりだ。
だが、もはや死んでいるものをこれ以上殺すわけにはいかんな」
“ゆらぎ”は大剣を肩に担ぎなおすと、くるりと踵を返した。
「ちょっとあんた。うちのエティエンヌをバカにするのは絶対に許さないからね。
六百年も同じ人を思い続けるなんて、めちゃくちゃ素晴らしいことじゃないの。
あたしは彼を尊敬してるわよ。まぁ、お化けのあんたにはわからないでしょうけどね」
「ああ、わからぬな。
人などこの世界を汚していくだけの存在。
そんな汚れた生き物の持つ想いなど、その身と同じ汚れたものでしかない」
「ふぅん、あんたとは永遠に相容れなそうね」
あたしはラピエールをぶんと振ると、風の刃で“ゆらぎ”の袖を切り裂いてやった。
「問答無用ということか、継承者よ」
当たり前じゃん。あたしの相棒をバカにした罪、その体で受けてもらうわよ。
青眼から刃を左横に寝かせる。
「えいッ・・・・!」
どん、と足を鳴らして踏み込み、伸ばした腕で“ゆらぎ”の胸を一息に突く。
一度では、避けられてしまうかもしれないから、あたしは三度続けて素早く突きこんだ。
これは、新撰組の沖田総司が得意としていた技だ。
幕末オタクのあたしたち姉弟がお互いを練習台にしてこの夏、習得したばかりの。
けれど、ヤツが大剣を胸に宛がい、未然に防いだせいで、当たったのは三度目だけ。しかも、完全に突き切れてはいない。
あたしはチッと舌を鳴らした。
「ほう、その刀と技は初めて見るな。この国独自のものか?
だが、継承者よ。そなたがまことのジャンヌであれば、我はすでにこの場にはおらぬだろうよ」
「だから? あの女がどうだって?
あんたが戦ってるのは紫堂緋奈、このあたしよ!」
超MAXで腹が立つ。ラピエールを持っている右手が震えるほどに。
あたしは唐突にわき上がった殺意にゆり動かされて、もう一度突きを繰り出した。
今度はヤツの右手を狙って。
どん、と足を踏み鳴らし、ラピエールをぴんと伸ばす。
今度は、過たず、右手を深く深く突き刺した。
やった、当たったっ!
“ゆらぎ”の手から雷神剣が滑り落ち、地面に大きな音を立てていく。
けれど・・・・。
「面白いのう。そなたは生まれ変わりだというのによほどジャンヌを嫌いと見える。
ははははっ・・・・!
継承者よ、もっと怒れ。もっとジェラシーを呼び起こせ!」
「えっ・・・・?」
なんで、ちっともダメージを受けてないの?
なんで、あんなに喜んでいるの?
しかも、さっきよりずっと生き生きとしてるなんて、絶対おかしいよ。
「緋奈、いけません。七つの大罪は“ゆらぎ”を活性化させます。
二つの大罪を同時に“ゆらぎ”に向けてはいけません」
後ろにいるエティエンヌが、悲鳴を上げるように叫ぶ。まるで、破たん者にするように鋭く。
七つの大罪 ―――――――― 。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰。強欲、暴食、色欲。
これらの罪を負うた者は、死後、煉獄でもがき苦しむという。
そして、これらの罪により滅ぼされた背徳の街、ソドムとゴモラのことも聖書に書かれている。
確かに母さんも遺書に書いていた。
“ゆらぎ”は直接向けられた負の感情の方が自分を強大にすると気づいたんだって。
それはこういうことだったんだ。
なら二度と間違っちゃいけない。
あたしは波立った心を落ち着かせるため、大きく深呼吸をした。
そして、目を閉じ、左ポケットに入れたチビ狐にそっと触れてみる。
思い出すのは狐さんの笑顔、ちょっと困ったような顔、生八つ橋を次から次へとほおばる顔。
たぶん、今も、耳をアンテナみたいにピンと立てて心配してるだろう。
だから、一刻も早くここから帰って安心させてあげたい。
ゆっくりとまぶたを開ける。もう大丈夫だ、心は、鏡のように凪いでいる。
「まったく面倒臭いなぁ、キリスト教徒じゃないってのに」
ぶつくさ文句を言いながら、もう一度ラピエールを正眼に構える。
あたしはあたしなのだと何度も唱えながら。
「ほう、八百万の力を借りたか? あの煩わしい大和の神どもの?
まったくあやつらは煩そうてたまらぬ。
だが・・・・この国には、急がば回れということわざがあるそうだな」
地を這うような暗い声がそう言い放った“ゆらぎ”は続けざまに雷撃を放ってきた。
まるで昼のごとき雷光。
あたしはそのひとつひとつを危なげなく避けていった。
同じパターンの攻撃を食らうほどバカじゃないしね。
“ゆらぎ”の目がすうと細められる。
雷神剣を天に突き刺すように振り上げた“ゆらぎ”は天に届けとばかり大きく声を張り上げた。
「招来! 嵐よ、来たれ!」
瞬間、守ヶ淵の上に大量の黒雲がむくむくと湧きあがった。
夜目にも真っ黒な雲が冬空に瞬いていた星座を貪るように食いつくしていく。
「きゃあ・・・・!」
と、同時にものすごい突風とゲリラ豪雨。
吹き飛ばされそうになったあたしはラピエールごとエティエンヌに抱きとめられた。
「ありがとう。とんでもないことになったね」
「はい。ですが、それだけヤツが追いつめられたということでもあります。
もう少しですよ、緋奈」
エティエンヌは背中をポンポンと叩き、元気づけてくれた。
「うん」
そう頷いてみたもののどうしよう。もう万策尽きたって感じなんだけどな。この雨と風じゃ、風の刃も身の軽さも役立たないし。
あたしは地面にラピエールを突き刺すと、両手に力を込めてぐいっと顔を上げた。
嵐の中、“ゆらぎ”が、白く長い髪を狂女のようにはためかせながら、呵々と笑っているのが見える。
(これ以上、何をしようっての?)
“ゆらぎ”の左手がすうっと上がった刹那。鼓膜を破くほどの稲妻が轟いた。
同時に、目も開けていられないほどの雷光。
「えっ・・・・?」
これは熱いの?それとも痛いの?
それともそれとも・・・・死んじゃったの?
どうやら雷の直撃を食らったらしい。
条件反射で目を開けたあたしはラピエールを引き抜きながら後ろに倒れていった。
「緋奈っ・・・・!!」
頭の中をエティエンヌの絶叫と、万華鏡の耳の奥をくすぐるような音が響き、そのまま意識を手放そうとした・・・・。
(やっぱりダメだったよ、聖樹、冴子、狐さん、ごめんね)
けれど、あんさんは、まだ死んでまへんで!」と、いう狐さんの声に叩き起こされる。
(えっ、なんで?)
「チビ狐、渡したやろ」
頭の中の疑問にリアルに返事が返り、恐る恐る目を開ける。
すると、顔のど真ん前にお稲荷さんがぷかぷか浮いていた。
「お稲荷さん、なんで?」
あたしは目を丸くして、狐さんが本物か確かめようと、彼の胸の毛に手を伸ばした。
やはり、襟巻にしたいような立派な毛皮の感触がする。
「あんさんに死なれたらかなわんのや!」
怒ってるとも泣いてるともわからない返事をして、あたしの手を軽く払いのけた狐さんはくるりと“ゆらぎ”の方へ向き直った。
「あんさんが西洋の妖か。うちのもんがえらい世話になったのう」
うわっ、そのセリフ、まるでヤクザの出入りみたいじゃん。
あたしは心の中で強く突っ込んだけど、戦闘体制に入った彼は気付かず、尻尾を大きく膨らませた。
「ちいとばかりハンデをもらうで」
と、断ってから、狐さんは白い狐火を幾つも吐きだした。
けれど、その威力は嵐の中じゃかなり弱い。
「緋奈、わしがコイツを引きつけるさかい、その間に攻撃するんや!」
「了解! エティエンヌ、もう一度結界をお願い!」
あたしは相棒に真空結界をもう一度張ってもらうと、中段からいくつも風の刃を生みだした。
嵐のせいで威力が弱いとはいえ、狐火と風の刃の連続攻撃に、さしもの“ゆらぎ”も防戦一方。雷神剣で跳ね返すのがやっとという有様。
「緋奈、続けていきまっせ!」
「よっしゃ~~~~!」
あたしと狐さんの連係プレイ。狐火と風の刃が交互に“ゆらぎ”に襲い掛かる。
「ほい、当たったで~~~~!」
面白い位、攻撃が当たるようになる。“ゆらぎ”の濃紺の狩衣のあちこちが引き裂け、ヤツの両手も火ぶくれで真っ赤だ。
そのせいか、急に嵐が弱まり、黒雲の裂け目から星が覗き始めた。
今だ、今しかない。
(行くで)
(うん、行こう)
あたしたちは心の中で頷き合うと、肩で息をしてる“ゆらぎ”を睥睨した。
狐さんが、ヤツの回りをすごいスピードで回り始める、その口から狐火を幾つも吐き出しながら。
あたしは両手にラピエールを握りなおすと、大上段に構え、チャンスを窺っていた。ヤツがあたしに注意を向けなくなるその時を。
けれど、追いつめられた“ゆらぎ”は、左手を振り上げ、そして夜闇をつんざく稲妻。
どれかが当たるだろうといわんばかりの、無数の雷撃が円状に落ちてくる。
刹那、バシュンという大きな音。
雷撃のひとつが当たってしまったのだ。狐さんの力を失った体が地面に叩きつけられる。
「狐さん・・・・!」
あたしはダッと駆け出した。
けれど、体のあちこちが焼け焦げた彼はぴくりとも動かない。
「お願い、またあたしを孤児にしないで。あたしを置いていかないで・・・・」
彼を抱き上げると、その火傷だらけの体をぎゅっと抱きしめた。
すると、狐さんの目がうっすら開き、
「わしは神やで。神が人間みたいに死ぬわけないやろ」
でも、その憎まれ口が精一杯だったらしく、それっきり気を失ってしまった。
(絶対に許せない。首を洗って待ってろよ、“ゆらぎ”)
体中、火が点ったように熱くなる。
あたしは立ち上がると天に向かって右手を突きだした。
「智天使の長、神の英雄の名を持つ聖天使ガブリエルよ。
あなたの愛し子が希う。今宵の月を天に戻したまえ」