錯綜する想い Ⅲ
今はPM21:00。
こんな時間に出かけて来たのは里香ちゃんが夜の九時、この稲荷神社の前で行方不明になったからだ。
手水屋で両手と口を清め、拝殿の鐘を鳴らし、お供え物を置いてから、二拝、二拍手、一拝する。昼間と違い、参拝するのでネットで作法を調べてきたのだ。
たぶん・・・いや九十九パーセント、ムリだろな。
でも、竜神がいるならもしかしてってこともあるよね。
あたしは、賽銭箱の前でこれでもかっていうくらい祈りまくった。
十分後。やっぱダメか。
あたしは、あきらめて家に帰ろうとした。
「痛っ・・・・!」
いきなり後頭部に軽いものが当たる。
「あんさん、これはなんでっしゃろ?」
あたしは、頭にぶつかってきたものを拾いあげると、声の主の方へくるりと振り向いた。
「えっ・・・・?」
なんと、賽銭箱の上に五十センチほどの白い狐がぷかぷか浮いているではないか。
そりゃ『お稲荷さん、姿を現してください』ってお願いしたんだから、驚くのは失礼だろうとは思うのよ。
でもさ、あまりにもunbelievableだよね。だって、神様だよ、神様。
「えっと、それは赤いきつねです。
しかも、コンビニ限定のふっくらお揚げ二枚入りなんですよ」
「そか、ふっくらお揚げ二枚入りか。そりゃあゴージャスやなぁ。
って、違うやろ! なんで供え物がカップうどんかと聞いとるねん!」
おお、芸人にしたいくらい鋭いツッコミだ。
「すいません。ちゃんと油揚げを買おうと思ったんです。
でも、お風呂に入っていたらお豆腐屋さんが閉まっちゃって。
だから、うちにあった赤いきつね・ふっくらお揚げ二枚入りで我慢してもらおうかと・・・・。
やっぱりダメでしたかね?」
あたしは揉み手しながら、恐る恐る訊ねた。
「まあ、しゃあない、今回だけは許したるわ。
そいで、あんさんはわしになんぞ聞きたいことがあるんやろ?」
「はい、わたしは、緑が丘三丁目に住んでいる紫堂緋奈と言います。
実は、一昨日、友達の妹がここの前で行方不明になりました。
お稲荷さんは、何かご存知ありませんか?」
と、訊ねると、今までおしゃべりだった狐さんは急に黙ってしまった。
彼はしばらく黙ったまま何かを考えてるようだったけど、
「わしはあんさんが何をしようとしとるのか知っとる。伏見の稲荷大神にもあんさんを助けるように言われとる。
だがな、あんさんを助けるゆうことはあの竜神を滅するのに力を貸すゆうことや。
わしはあの竜神が好きやったからどうも複雑なんや」と、淋しそうに言った。
「はい、わたしも竜神様のことを考えると心が痛みます。
でも、行方不明の子供たちに何か罪があったのでしょうか?」
すると、狐さんは小さく「そやな」と言い、
「あんさんが探しとる子供はまだ生きとる。他の子供らもな。
今は守ヶ淵の繭玉の中で守られとるが、それも長いことやないで」と、眉間を押さえた。
「長いことじゃない? それってどのくらいですか?」
あたしは息せき切って訊ねた。
そりゃ里香ちゃんたちが生きてたってのは朗報だけど、リミットが明日とかじゃ目も当てられない。
「そうやな、およそ十日ってとこやろ。
あの年頃の子供はまだ体力がないさかい」
十日!?もう二日経ってるじゃん!
あたしはいても立ってもいられず、守ヶ淵へ走りだそうとした。
「こらこら、落ち着くんや。あんさんが無暗に突っ走って何ができんねん。
ものは考えようや、まだ八日もあると考えんかいっ!
大体、人はいつから水の中で息が出来るようになったんや!」
「はは、このまま行ったって溺れ死ぬのがオチですよね」
あたしってバカだ。
それに“ゆらぎ”に子供たちを返してくださいと言ったところで素直に返してくれるわけないじゃん。
「そや、何事も準備が必要なんや」
「そうですよね、帰っていろいろ考えてみます」
「ああ、そうせい。
そや、あんさんにひとつ忠告しておくで。
あんさんが守りたいもんを守るんには、あんさんの心を殺さなきゃあかんのや。
そりゃ誰かを好きやゆう気持ちは人を強くしよる。
だが、あんさんの場合はどうや? 弱くなっとりはせんか?」
白い狐は近くまで浮かんでくると、その小さな手であたしの頭をぺしぺし叩いた。
これはエティエンヌを避けていることを知っての助言なんだろう。
あたしの我が儘のせいで事態は悪化しているのだから。
それなのに、こうして狐さんに諭されるまで素直になれなかった。
「はい、お稲荷さんの言う通り、あたしの我が儘でした。
ちゃんと教えてくれてありがとう」
あたしは、両手を伸ばすと、狐さんの小さな手を押し頂くように握った。
「わかってくれればいいんや。
あんさんが頑張らんとこの日の本もいけんようになるからな、あんじょう気張ってや!」
「はい、頑張りますと言えたらいいんだけど。あたしに出来るんかな?
本当はいっつも逃げてしまいたいと思ってるんだよ!」
なんでだか、するっと本音が出て来てしまった。初めて会った相手だというのに。
「そりゃ逃げたくなっても当たり前やろ。いいや、逃げないのはあんさんぐらいやろな。
だがな、あんさんはひとりやない。わしも、いいやわしら稲荷すべてが味方することになっとるから少しは心強いで」
「うん。お稲荷さん、三万社が味方してくれるんなら“ゆらぎ”も怖くないかもしんない」
あたしは、狐さんの気持ちが素直に嬉しかった。
彼は確かに一番偉いお稲荷さんにあたしの面倒を見ろと言われたんだろう。
けれど、あたしの愚痴に付き合ってくれたのは彼の気持ちなんじゃないかなと思えたから。
「実はな、あんさんのことはあんさんの父御にも頼まれたんや」
「えっ、父さんが?」
「そや、仕事に行く前なんかよう来てくれておったんやが。
のうなる前はあんさんのことばっかり頼みよってな。よっぽど心残りやったんやろな。
最後は男泣きに泣いて『緋奈をよろしくお願いします』と何度も頭を下げよった。ほんまいい父御やな」
狐さんはそう言うと、遠くを見るような目つきをした。
「父さんがそんなことを?」
「ああ、あんさんはそんな父御の子や。
強く優しく生きていけるはずや。そやろ?」
「うん、うん・・・・」
あたしは、頷いた。鼻水が垂れまくってどうしようもない状態になっていたけど、それでも嬉しくて仕方なかったから何度も何度も頷き続けた。
狐さんは「しゃあない子やな、緋奈は」と言いながら、あたしが泣きやむまでずっとあたしの頭を撫でてくれた。
「ありがとう、お稲荷さん」
ようやく泣きやんだあたしは、心からお礼を言った。
「ああ、だが、もう帰りや。
緋奈も年頃の女の子なんやさかい、二度とこんな遅くに来るんやないで!」
白い狐はまるで父親のような小言を言い、“赤いきつね・ふっくらお揚げ二枚入り”を持って、ぱっと姿を消した。
「今度はちゃんと油揚げを持ってくるからね」
あたしは社に向かって深々とおじぎをした。
もう一人の父さんが出来たような不思議な気持ちで。