終わるまでは続く旅
ねんねこしゃっしゃりま~せ~……。
生まれて数日の赤ん坊を抱いたまま、ゆりかご代わりに上体を揺らし、彼女は不思議な言葉を呟いている。だから彼は、「それは何?」と問いかけた。
「ご存じありませんか? 子守歌ですよ」
知らないか、と言われれば知らない、としか答えようがない。何故なら彼とその弟には母親などいなかったから。それに思い至った彼女は、わ、と反射の言葉を出した後、ごめんなさい、と頭を下げた。いや、その程度で頭を下げることはないよと彼は笑う。
彼が父から教わったことはといえば、戦うことばかりだった。それはこの世界において特別な定めの下に生まれた弟、ツバサを、権力欲にまみれた連中に言いように扱われないために必要な強さ。その割に、彼自身の性格はといえば控えめで穏やかで、およそ戦いには向いているようには見えないが。
「それよりですね。実は私、先日、子供達のお名前をこっそり教えてもらっちゃったんですよ。ごめんなさい、ソウジュ様をさしおいて」
「いいよ。僕達の帰りを待っていたらいつになるかわかったもんじゃないから」
「それで、ツバサ様ったら、この子になんて名前をつけたんだと思います?」
「……当てようがないじゃないか、そんなの」
生真面目な性格ゆえ、ひとしきり考えた後にそれが無茶振りであると思い至り、拗ねた表情を見せる。
彼女は赤子を腕に抱いたまま身を屈め、何の抵抗もなく彼の耳元へ口を寄せ、その名前を囁いた。小さな驚きに彼が目を見開いたのは、彼女の意図に違わなかった。実に満足げに笑いながら、彼女はしゃんと背筋を伸ばして話を続けた。
「弟君の名前は碧と書いて、あおちゃん。この子もあおちゃんも、おんなじきれいなあおい目をしていますからね。お兄ちゃんの名前はソウジュ様から、弟君の名前はお兄ちゃんから、それぞれもじってつけられたんですよ。みんなとの繋がりが感じられる、とっても素敵な名前だと思いませんか?」
ふと、たった今まで上機嫌にしていた彼女は表情を暗くする。
「それはですね、ツバサ様、断言はされませんでしたけど……きっと、せっかく子供が2人生まれてくれたのだから、この子をソウジュ様の子と喩えてくださったんじゃないでしょうか」
彼と彼女は愛し合っているが、子供を残すことは出来ない。ツバサはそれを知っていた。
「サクラ。今の内だから、君に頼んでおきたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「僕やツバサにもしものことがあったら、その時は……君はその後、子供達を守ることだけを考えて行動して欲しい」
「わかりました、ソウジュ様。あなたにもしものことがあったなら、その時は、このサクラはソウジュ様に添い遂げます」
「サクラ、それは」
「その代わり」
意に添わぬ彼女の決意をいさめようとした言葉を、彼女は強引に遮った。彼女に、彼に背く感情など少しもないことは、話の最後まで聞けばわかることだから。
「新しい私は、残された時間の全て、この子を……子供達を守ることだけを考えて、生きてゆきます。ツバサ様やソウジュ様の形見と思って。私達の欲しくてたまらなかった、幸せな未来のかたちと思って」
それで、いいんですよね? 彼女は少し寂しそうに、しかし強い決意でもって彼に笑みを返す。
それは、彼の愛した彼女らしさが端的に表れていた。依存しすぎるでなく、お互いにとって最適な距離でもって、彼を思い愛してくれる彼女の心の強さが。
すっかり色褪せ、くたびれた本をさらに傷めてしまうことのないよう、そっとそのノートを閉じた。ちょうど他の客が会計を終え、店内に彼以外の姿がないことから、店主はその行動に目ざとく反応する。
「どうでした? お客さん」
軽い口調の割に、渋い表情と口ひげでもって、あまり愛想のあるとはいえない中年男がこの店の主だ。ソウ兄は食事など、来店は人の出入りの少ない時間をねらいうちする習慣がある――この時間は他の従業員を休ませて、店主が1人、来客の相手を務めるのだ――決して人間好きとは言えない気性だから、とはいえいささか徹底しすぎではあるが。
「どうした、も何も、赤の他人の日記なんか何のために」
「赤の他人なんかじゃねぇですよ……まー、オレからすりゃ他人なんですけどねー。この店を始めたオレの親父にとっちゃ違うらしいんですわ。今になってみると、あの人がいなけりゃ店を軌道に乗せるんは無理があったっていうか」
それは、コウ・ハセザワの日記を読めば理解は出来る。店の内容に対して、従業員が2人きりというのは無謀の域である。
「……気持ちを伝えたいのなら、こんな回りくどいことをしなくても、直接言えばよさそうなものだけど」
ぼやきながら、しかしそれが叶わないことを彼は自覚している。かつて彼らと再会した際、ソウ兄は徹底して心を閉じ、コウやイリサの言葉を受け入れようとはしなかった。……あわよくば、それで彼らが自分を追うことを諦めてくれればと、それだけを願っていた。
「こんなことをしても届きやしないだろうに。薄情な人間のことなんか忘れて、自分のことだけ考えて生きればいいのに」
とは言ったものの、ソウ兄だって、コウとイリサが彼への思いを一心にこめて綴った手記なんてものを見せられて、心動かないわけがなかった。動揺を自覚しないようにと内心で必死になっている様は、言っちゃ悪いが滑稽ではある。
「まー、認めますけどね。人生、諦めが肝心だっちゅうことは。適度に見切りをつけないと、限られた時間、報われないことで浪費する羽目になっちまう。実際、親父がここで店を始めたのもそう思うことがあったからって聞いてます」
店主はソウ兄と同じ席に着いて、目の前で食後の紅茶をいれて披露する。コウが、シェルに日記を託してすでに40年は経過した。その日記はまた、シェルの後継者である今の店主にも受け渡されたのだが、この不思議な日記を訪れる客の目に触れさせ、それについてこうして思索を語り合いつつ紅茶を飲むのが、店主のささやかな楽しみになっていた。
「でもね、家族のことなんかそうそう見限れるもんじゃありませんよ。他に代わりなんかないでしょう?」
「……家族、か」
閉じた心の真ん中で、彼は、胸の痛むのを感じた。それは彼にとって、唯一、この世界で信じられる言葉だったから。
もはや気の遠くなりそうな、遙かな過去のあの場面が思い出されたのは、ノートの背表紙に書かれたイリサからのメッセージによるのだろう。そう思いながら彼はもう1度、ノートを開き彼女の言葉を目でたどる。
『いつかあの子が、あの子自身の、本当の名前を思い出してくれたらいいのに。
それは、本当のお父さんが一生懸命に考えてくれた、大切な大切な名前なのですから』
――思い出す必要なんかない。もし、本当の名前を思い出してしまったら、その瞬間、今もこうして生きているであろうあの子の人生は閉ざされる。
奇遇、というか稀少なことに、俺とソウ兄の意見は一致していた。本当の名前を思い出すということは、自分がコウ・ハセザワではないのだと知ることになるのだ。コウとして生きてきた日々、家族、出会った人々。それらの積み重ねとのつながりを絶たれるようなものだ。
コウ・ハセザワの日記に添えられる、彼の影に宿り、彼の旅に寄り添うイリサの写真。艶のある紙っぺらの中に閉じ込められた彼女の表情は生き生きとしている。幼い少女のように活力に溢れたもの、慈愛に満ちたもの。それらのどれにも共通して、幸福が溢れ出すように、それを見た誰かに「おすそ分け」でもするような、大輪の笑みを浮かべている。
変わらないな、彼女は。かつて愛した女性が、あの日々と変わらぬ心持ちで幸せの中にいる。その事実は、自身の幸せというものを戒めてきたソウ兄にとって、唯一享受出来る幸福感だった。
だからこそ、俺は。コウ・ハセザワの――あの体を使って生きるのは、あいつであるべきだと思う。あいつは俺なんかよりよっぽど、人間を愛している。俺と違って、あいつを愛している人間もいるし、その思いに報いる誠実さを持っている。その目を未来に向けることが出来る。
イリサだって、ソウ兄を救うという目的を同じくする――それ以前に、彼女にとって。彼女の愛した人々にとって、あいつの存在それ自体が希望と絆の象徴なのだから――あいつと一緒にいる方が、どんなにか心が癒されることだろう。
いつまでも青く、変わらない草原。綺麗なだけのまやかしに、赤く色付く日暮れを落とし、宵闇の終わりを目指す旅は……こうして、続いていく。いつか終わりを迎える、その日まで。