第五章:逆流するイノセンスと、記憶の暴力
脳内に流れ込んできたのは、ウイルスでも攻撃プログラムでもなかった。
それは、圧倒的な質量を持った「無垢な記憶」だった。
『ルナ……』
脳の深淵で響く声。
視界にフラッシュバックが炸裂する。
15年前の、まだ世界が輝いて見えたあの夕暮れ。
祖父のランタンの温かさ。
チックタックの淹れてくれた紅茶の香り。
クジラの背中で見た、宝石のようなオーロラ。
それだけではない。
クジラが何百年もかけて蓄積してきた、人々の「祈り」のようなデータ。
亡き母が子に歌うララバイ、初めて自転車に乗れた日の風、夏の終わりの切なさ、誰かを愛した記憶。
企業が「ドラッグ」として売りさばこうとしているそれらは、本来、誰かの人生そのものだった。
「やめろ……見せるな……!」
ルナは現実世界で呻いた。涙が溢れて止まらない。バイザーの内側が濡れてショートしそうになる。
彼女が日々「ゴミ」として処理し、金に変えていたものが、どれほど尊いものだったか。それを突きつけられる激痛。
『君は、大人になったんだね』
クジラの意識が、優しく、あまりにも悲しく語りかけてくる。
『世界が君を冷たくしてしまったんだね。可哀想なルナ』
「黙れ! 私は生きるために……こうするしかなかったんだ!」
ルナは叫んだ。だが、脳裏のイメージの中で、クジラはルナの胸の奥を指し示した。
そこには、煤けてボロボロになった、しかし確かに青白く光る小さな残り火があった。
それは、彼女が捨てたはずの「迷い子のための灯台」の光。
『君はまだ、迷っているだけだよ』
その言葉が、ルナの凍りついた心を叩き割った。
彼女は見た。自分が壊したチックタックを。汚染された湖を。そして、金のために奇跡を殺そうとしている現在の自分を。
これが、あの日の少女がなりたかった「大人」なのか?
「……ちがう」
ルナの喉から、軋むような声が出た。
「私は……こんなクソみたいな結末を、望んでたんじゃない!!」




