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それからも身の縮む思いをするようなやり取りは続いた。
和やかに話していたかと思えば、公爵さまが時折空気の読めない発言をしてアレクシアさんが厳しい声を上げる。わたしはそれにびくびくしつつも受け答えをしたり、アレクシアさんを宥めたりで、精神的に疲労困憊である。
「準備完了じゃ」
いい加減泣きが入りそうになった頃、パーテーションからバージェス先生が顔を覗かせた。良かった、これでやっと解放される!
そしてすかさず時計を確認してヒヤリとした。
えっ、今四時三十五分!? 結構ギリギリだ。あそこでアレクシアさんを引き留めておいて良かった……!
「クリスはこちらへおいで。お二方はわしらと一緒に外へ出て頂きますぞ」
「あ、はい! それじゃあお二人とも、失礼します!」
待ってましたと言わんばかりに早速公爵夫妻に断りを入れて、そそくさとパーテーションの奥へと向かう。仕切られたエリアに入ると、真っ赤に彩られた床が視界に飛び込んできて、わたしは目を瞬かせた。
「うわ……」
床にはびっしりと複雑な模様が一面に描かれていた。とても緻密で凄く変わった模様の魔方陣だ。
成程、これじゃあ時間かかるはずだよね。っていうか、この複雑さなら早いくらいだよ。流石その道の人は違う。
それはそうと、これって踏んだらまずいよね。でも模様が細かすぎて足の踏み場がないよ。どうやって動けと……。
「ネリー、これって……」
「定着させてあるから踏んでも大丈夫だよ」
みなまで言わずとも、ネリーは理解してくれた。流石ネリー!
そういうことなら遠慮する必要はないね。わたしはいそいそと彼女の元まで駆け寄った。
「ネリー、お疲れ様!」
「クリスもお疲れ様」
どうやらわたしたちの会話はこちらにも聞こえていたようだ。ネリーの苦笑いがそれを物語っていた。
「あはは……」
「とりあえずはい、これ持って」
と言って渡されたのは、小さなメモリーミラーと赤黒い液体が入った小瓶。
これ何? と首を傾げると、ネリーが申し訳なさそうに眉を寄せた。
「今後の為に記録は取らせて欲しいんだ。顔はわからないようにするから……」
この処置には物凄い労力がかかっているはずだ。加えてこれは数少ない症例みたいだし。そのことを考えれば拒否なんてできないよ。
「そんな顔しないでよ。わかってるから」
「ありがと。処置が終わったら閉じてくれていいからね。それと、その瓶は魔力増強剤。今すぐ飲んで」
「何で?」
「多分相当な量の魔力を受け渡すことになるから。ほら早く」
ネリーに促されて、蓋を開ける。すると強烈な匂いが鼻をついて、わたしは顔を顰めた。薬草と血の臭いだ。嫌だなあと思いつつ、鼻を摘まんで一気に飲み干す。それでも血生臭ささは誤魔化せなくて、ネリーがすかさず差し出してくれた水を急いで流し込んだ。
「ううっ、臭いも味も酷い……」
「その分効果満点だよ。もう身体温まって来たんじゃない?」
ネリーの言う通りだった。飲んだのは少しの量なのに、身体は火照り魔力がお腹の底から満ち溢れるようだ。
「はい、じゃあベッドの側で待機する!」
「あ、ねえ、呪文とかはないの?」
「ないよ。はいはい座って! 何ならもうキスしててもいいよ。じゃね、健闘を祈る!」
わたしは苦笑してネリーに手を振った。そしてチェストの上にメモリーミラーを置き、ベッドの傍に腰かける。
今は四十分。始めるのは四十三分からでいいよね。時間にならないと発動しないんなら、始めても意味ないし。何より意味もないのに口を付けるのは、物凄く申し訳ないから……。
しばらくは時計とにらめっこをして、時間が来るのを待った。そして針が四十三分を指し示した時、わたしは意を決してクリスに口付けた。
妙な気分だった。酷く胸がドキドキしていて落ち着かない。でもそれは好きな人とキスをしているから、なんて理由じゃなく、彼がちゃんと元に戻れるかという不安によるものだ。
ふと脳裏に先程のクリスの姿がよぎる。霧のようにあやふやで、今にも消えてしまいそうな姿だった。あれを見た時、どんなに怖かったことか。
思い返していたら、あの時の感情までもが蘇り、わたしは思わずぎゅっと目を瞑った。
お願い、どうか元に戻って……!
そのまま微動だにせず変化を待つ。程なくしてその時は訪れた。
じわりと瞼越しに感じる光の気配。それは次第に強くなり、きっと目を開ければ、眩いほどの光があふれているのだろうと思わせる強い刺激に変わっていった。
それと同じくして、身体を満たしていた魔力が動き出す。暖かい温もりが全身を駆け巡り、唇を伝わって流れ出ていくのがわかる。物凄い勢いだ。
あ、このままだと意識飛びそう。
そう思ったのと同時に、ずっと力が抜けてわたしはクリスの肩口に顔を埋めてしまった。嘘でしょ。まだ、クリスが目覚めてないのに!
焦る心とは裏腹に、身体は全く言うことを聞いてくれない。どうしよう、どうしよう……!?
何とか力を総動員させて手を動かそうとする。すると手ではなく上半身が浮き上がった。
……違う、身体が支えられてるんだ。暖かい手の感触がわたしの両肩を包んでいる。
「……大丈夫か?」
ぽつり、と密やかな呟きが落とされた。
それは耳元で何度も聞いたことがある声。あの時は不思議な響きを伴っていたけど、今の声は現実味のある肉声だ。
重い頭をゆっくりと動かして顔を上げる。目の前にはいつも見ていた彼……ううん、それよりももっと鮮やかな色彩と光輝くような美しさを放つクリスが、わたしを見つめていた。
「……も、戻ったんだ……」
「うん。頑張ってくれてありがとう」
艶やかな黒髪を揺らし、クリスが微笑んだ。紫水晶のような瞳が、暖かい光を湛えて潤んでいる。それを見たら、色んな思いが堰を切ったようにあふれ出した。
元に戻ったんだ。生きてる。やっと会えた。良かった。嬉しい……!
「おい、泣くなって」
「だって、嬉しくって……」
あとからあとから涙があふれ出る。こればっかりはどうしようもないよ。……あっ、でもあれがあったんだ!
わたしは慌てて涙を拭い、立てかけてあるメモリーミラーを伏せた。泣きじゃくってる姿なんか記録に残したくないからね。
「今のは?」
「記録とってたの。でも終わったら閉じていいって言われてたから。あ、それとね」
わたしはいそいそとチェストに置いてある消毒液を取り寄せ、ハンカチにしみ込ませた。
「これ使って」
「ああ、ありがとう……?」
怪訝そうにハンカチを受け取ると、彼は丁寧に手を拭き始めた。違う、そうじゃない。
「手じゃなくって唇だよ」
「は? 何でそんなことしなくちゃならないんだ。こんなの唇に付けたら荒れるだろ」
「いやあ、消毒した方がいいかなって……」
「じゃあ君がやればいい」
不愉快極まりないという顔をして、クリスがハンカチを突き返してきた。あ、これはちょっと誤解しているね。
「クリスは綺麗好きだし、こういうことはちゃんとしたいかなって思ったんだよ……」
「あのな、僕はそこまで潔癖症じゃない。君が歯磨きをしない不潔極まりない奴だと言うのなら話は別だが」
「ちゃんと歯磨きしてるってば! 知ってるでしょ」
何てこと言うんだ。口を尖らせて抗議すると、クリスはうるさそうに肩を竦めてそっぽを向いた。
「……僕も君と同じだ」
「何が? ……ああ、歯磨きの話? クリスの場合は昏睡していても誰かがやっていてくれそうだもんね」
しかしどうやらわたしの返した答えは的外れだったらしく、彼はふうっと溜息を一つ落として首を振った。じゃあ何なの。はっきり言えばいいのに。
何も言わないクリスに焦れて、わたしは彼の名を呼んだ。すると彼は逸らしていた顔を再びこちらに向けて、ぐっと唇を引き結んだ。何だか不機嫌そう。かと思えば今度は真顔に。
「君とのキスは気持ち悪くなんかないよ」
クリスの真っすぐな眼差しがわたしを射る。言葉を理解した瞬間頭の中が真っ白になり、頬に熱が一気に集まった。
わたしは咄嗟に俯き、目を泳がせた。ど、どうしよう。この場合なんて言ったらいったらいいんだろう。というかこれ、好意的にとらえてもいいの……?
ぐるぐると考えている間にどんどん時間が過ぎてゆく。その間、クリスは何も言わなかった。わたしの言葉を待っているのかな……。
頬がとても熱かった。きっと今のわたしの顔は真っ赤になっていることだろう。顔を上げたらわたしが何を思っているのかわかってしまうかもしれない。でも、今の時間なら――
部屋は窓から差し込む西日のお蔭で、茜色に染め上げられている。どうかこの色に紛れてばれませんようにと願いながら、わたしは顔を上げてぎこちなく笑った。
次回から新章に入ります。