南総に向かって出発[1]
「おでかけ!」
その言葉に真っ先に反応したのはサーナちゃんだった。
小さな体でハイエースの運転席に、よじのぼるようにして入ってしまった。
「おい」
見ればハイエースの前席中央に、少しだけ後ろに下がる形でチャイルドシートが設置してある。
おそらく助手席から子供の世話をしやすいように、という考えなのだろう。
どうやら内装に手をいれて設置したらしい。
子供はしばしばチャイルドシートを嫌うというが、サーナちゃんとその様子はないようだ。
いや、これはもうわかる。
彼女にとりチャイルドシートとはつまり「海に行く」ってことなんだろう。
ああ、これはもう中止の流れはないな。
「すみませんマコトさん、その」
「いや、実はわりと想定の範囲なんで問題ないですよ」
「え?」
あっけにとられたサワナさんの顔に、俺は苦笑した。
「俺だって元気なサーナちゃん、見たいですよ。
つーわけでハイエースをお借りしますが……お母さんも来ますよね?」
「え、あ、はい、行きます!」
あえて「サワナさん」でなく「お母さん」と言った。
サワナさんは、あわてたように肯定して、そのあとに「お母さん」の意味を悟ったのだろうか?
申し訳なさそうに上目遣いをしてきた。
「すみません……いいんですか?」
「……はあ」
「?」
どうしよう、このひと、上目遣いがやばい。
こうして見ると、細いんだよなサワナさん。よくこの体でサーナちゃん産んで育ててるもんだ。
あ、でも、おっぱいちょっと大きいかもって、そういう問題じゃないだろ。
「サワナさん、ひとついいですか?」
「あ、はい」
「その、上目遣いでひとを見るのって、もしかしてサワナさんのクセですか?」
「え?」
やっぱり、素でわかってないようだな。
「上目遣いですか?
わたしは背が低いですから、どうしても男性と話すと上目遣いが増えますけど、それが何か?」
「あーはい、そりゃそうですよね」
俺は少し考えて、そして意を決して言った。
「その顔は男性、特に身内でない人には向けない方がいいと思いますよ。いろいろと誤解を生みそうですし」
やんわりと釘をさした。
だけどサワナさんは「わかりました」と言ったあと、小声で何かつぶやいた。
「(だったら、マコトさんは別にかまわないわよね)」
「は?」
「あ、いえ、気にしないでください。
ですが、ひとつだけお願いがあります……遠慮はなさらないでくださいますか?」
「遠慮、ですか?」
「はい」
サワナさんは少し真面目な顔になった。
「この子はこれでも人見知りするタイプなんです。唯一の例外が実の父親でした。
ですので、この子には遠慮しないであげてください」
「そういう事ですか……ええ、わかりました」
事実上、それは旅行中は俺をふたりの身内として扱うってことだと思った。
それは嬉しくもあったけど、少しだけ寂しくもあった。
だってそうだろう?
それはつまり、サーナちゃんが間にいるからこそ成り立つ……裏返せば、仲良くするのはサーナちゃんが前提だからね、と釘を刺されている気がしたからだ。
あーうん、そんな強調なさらなくてもわかってますよ。
でも。
それでも、限定版の親子でも身内と思ってくれるなら、俺は嬉しいと思った。
「そんじゃ、行きますか。
ちなみに、いつもみんなで行ってたのはどこです?」
「南総白浜です。
近くに宿をとりまして、一日ただ、無目的に海で遊ぶ感じです」
「おー白浜かぁ、いいなぁ」
「ご存知ですか?」
「もちろん、有名だから夏には足が向かないけどね」
今は冬。
房総南部は確かに都内より暖かいけど、地元の方ならご存知のように、木更津以南はだんだんと交通の便が悪くなっていく。
実は東京湾アクアラインや館山自動車道を駆使すると、東京都新宿区から白浜まで驚くほど短い時間で着いてしまうんだけど、それでも南部の高速は一車線しかないし、遠かった昔のイメージや、鴨川みたいな目立つ観光の目玉がない事もあり、やはり館山以南はちょっぴりマニアックな土地に入ってしまっているだろう。
だけど、一度気に入るとリピーターは多い。そういう土地。
実を言うと俺も館山方面はお気に入りで、特に近年、人と全くつるまないバイクライフになってからは年に数回程度だけど訪れている……目立つような観光の目玉も何もないのにね。
ああでも、ひとつ問題があるかな?
「楓さん」
「なんじゃ?」
「鈴の影響範囲は海上や高速道路にも及びます?」
「ああ、湾上の海道を使うんじゃな?」
「はい」
「先日のそなたとの会話に出てきたのでな、効力の範囲内にしておるよ。
ただし木更津側に渡れば効力が切れるのでな、連絡道にいるうちに高速を降りなさい」
「わかりました、ありがとうございます」
つまり東京湾アクアラインを渋滞なしで抜けられるって事だろ?
これは素晴らしい、事実上木更津まで渋滞なしで行けるって事だから。
「よし、じゃあ俺はいつでも問題ないですけど、どうします?」
「はい、では行きましょう」
ふたつ返事でサワナさんは言い切った。
「ちょっと待ってください、セットを持ってきます」
「セット?」
「どこでも仮眠できるように、いつも寝具を積むんです」
「ああなるほど、あるといいですね」
「はい、持ってきますね」
俺はその意味を深く考えることがなかった。
むかしの俺も、寒い季節には車中泊しながら車で旅行したからだ。
そして俺は「では車のチェックをしてます」と言った。
ハイエースの車種はよく知らないが、どうやら最大六人乗りで、今は後ろのシートは畳まれている。
その背後にはいくらかの荷物があるが、たぶん車中泊用時に床に敷くものじゃないかと思う。
この車はサワナさん一家を乗せて動く、簡易宿泊設備をかねた移動のアシだったんだろう。
「しゅっぱつ?」
「まだ、お母ちゃんが来てからな。どれ」
チャイルドシートに座っているサーナちゃんを確認し、ちゃんとベルトで固定してやる。
で、俺もシートベルトをつける。
「各部チェック……にはエンジンかけないとダメか。動かしまーす!」
外にいる人たちに声をかけてからエンジン始動した。
パネルシフトに手をやり、Rポジションに突っ込む。
久しぶりの車だけど、オートマチックのポジションまで忘れたつもりはない。
左足でブレーキ解除してやると、バック音を発しつつ、ゆっくりとバックでハイエースは外に出た。
外は夜だった。
適当な場所で止めるとNに入れてブレーキロックし、各所のチェックをはじめた。
「ふむ、ふむふむ……灯火類はOKと」
自分のETCカードをカードホルダーから取り出してセットする。
「うむETCも良好と。ホーン鳴らしまーす!」
短く鳴らして反応を確認。
次にハザードを入れて車を降り、ぐるっと回って灯火確認。
この時、タイヤも軽く見ておく。
……まだ新しいタイヤだな。
車庫も土とかじゃないし、保管状態のよさもあるんだろうな。
ウインカーも確認し、ブレーキもちゃんと点灯するのを見ていたら、ふとサワナさんが目に入った。
布団らしきものを持っているのだけど、なぜか俺を見て固まっている。
「どうしたんですか?」
「いえ……運行前点検ですか?」
「まぁ、軽くですけどね」
ちなみにスペアタイヤは、後ろバンパーの下を覗くと見えていた。
本当はここまでチェックすべきなんだろうけど、まだ新品のラインすらあるヤツだったので、そこまでにした。
「最後の車検の時、タイヤはどうしました?」
「古くなっていたので交換してもらいました」
「スペアも?」
「はい、スペアもです」
「わかりました」
前回の車検から一年くらいしかたってないようだし、屋根の下の車庫保管。
まあ大丈夫だろう。